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中国史の官吏登用制であった、九品官人法と科挙について
の内容とその制度の目的、またそれらによって引き起こされた問題など詳しく知りたいのでよろしくお願いします。

A 回答 (6件)

九品官人法に付いては宮崎市定『九品官人法の研究』がスタンダードかつ決定版です。

科挙に付いては同じく宮崎さんの『科挙史』がスタンダードでしょうね。私は科挙に付いては知識が乏しいので九品官人法に付いてだけ述べさせていただきます。

九品制度では官僚を全て九等に分けます。これを官品と言います。そしてある人物が任官する年齢に達すると中正がその人物の周囲からの評判や父や親類の官職などを加味して、その人物が最終的にどの官品まで登るべきかを判定します。これを郷品と言います。そして初めの任官の地位(これを起家と言います。)は郷品の四位下になります。例えば郷品二品なら起家は官品六品になります。

九品官人法は九品中正法とも呼ばれますが、宮崎さんは九品中正法という呼び名は宜しくないと述べておられます。なぜなら中正が実質的な権限を持っていたのは東晋まででそれ以降は中正職は形骸化していたからとしています。

それでは九品官人法の目的。これは後漢から魏に移行するに際して、後漢に使える人物の能力、そして魏に対する忠誠といった項目を中正という役職に判定させるのが目的であったとされています。当初はこの九品官人法はあくまで移行期にのみ使うつもりであったのですが、それが魏晋南北朝時代を通じて採用されるようになってしまったようです。

そして問題点。中正は任官する年齢(通例20歳)になった時点で郷品を定める訳ですが、20歳の若造を見てどれだけの才能があるのかなど分かる訳がありません。ですので概ね父親・祖父の郷品をそのまま引き継ぐようになってしまいました。これにより高位官職はある特定の家柄により独占されるようになりました。このような名門の家を門地二品と言います。門地二品の代表例としては王羲之で有名な王氏、謝霊運で有名な謝氏などがあります。門地二品が固定化されたことで無能な人間でも家が名門なら高位に就いてしまうということは九品官人法の問題と言えると思います。ただし九品官人法の実行された六朝時代の王朝は概ね不安定な政権が多く、強力な力を持つそれら名門の協力を得るという意味で九品官人法は意味があったかとも考えられます。

以上、簡潔に説明しましたが、この分野は非常に議論の盛んであった分野なのでこの回答とは真っ向から反対する意見も学者から出されています。その点ご注意の程を。

ちなみに地方職が蔑まれていたのは間違いありませんが、しかし郷品は地方職のことではありません。悪しからず。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/貴族 (中国)
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参考文献の紹介を求められているのであれば、宮崎市定「科挙」(中公新書、現在は中公文庫?)が入門的な内容になっています。

より専門的な内容を求めるなら、同じ著者の著作集が岩波書店から出ていますので図書館などで探してみてください。あと、出版社名、著者名(中国の学者の著作の翻訳です)をど忘れしているのですが、「唐代の科挙と文学」は、科挙に合格するための詩文の学習が唐代の文学の源流になっていることを考証したおもしろい本でした。
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では質問の科挙の問題点ですが歴史的諸条件からみてしょうがないことですが「儒学」に偏っていたことでしょう。

いわゆる勉強の出来る出来ないではなく、儒学の素養と作文のセンスが問われるのが科挙です、しかも作文にしてもいわゆる「アンチョコ」が存在したり、模範とされる回答が様式化していました、洋務派の中核、黄遵憲は科挙の合格前の文章は難解なひねくりまわしたような文章ですが、実際に合格し、登用されたあとの文章は極めて平易な文章になっています
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少々Kawakawaさんのご解答で気になった部分がありましたので、補足させていただきたいと思います。

まず学校教育うんぬんのくだりですが、科挙以前に「学校教育」というものが存在しなかったであろう以上、科挙がゆがめてしまったような表現は不適当かと・・・あと地方政治で手腕を振るう、うんぬん、の部分は同時代のほとんどの世界の政治形態よりも偏らない人材登用を成し遂げていたと思いますが・・・曲がりなりにも「公平に」門戸が開かれたのは他の文化圏ではもっとずっと後のことですから、さらに言えば諸吏等、地方官は科挙ではいるわけではありませんし
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次いで、九品官人法について簡単に解説します;


魏の国ではじめられた人材登用制度で、九品とは今で言う公務員等級のようなものと考えればよいでしょう。中央及び地方に中正の職を配置し、人材発掘を行います。そして、中正が自分の管轄下の優秀人材について9段階評価を行い、1品~9品(1級~9級)として、中央政府に報告します。
中央政府はその『郷品(地方等級)』を基にして人材登用を行い、正式な『官品(中央等級)』を与えます。基本的には、郷品の2級(最高等級)は官品の6級に相当するとされ、地方は中央の4段階下の評価となりました。このあたりは、現在の日本の公務員制度に似ているような気がします‥
こういった人材評価システムと人材登用システムを融合させたのが九品官人法というものです。
この制度ができるまでは、地方での評価は各地の財政状態で異なっていた俸禄(給与)によっており、中央政府では17等級の区分があったのですが、九品官人制により、俸禄+品級という複合評価が行われるようになりました。
このシステムの欠点としては、一人の中正による評価、或いは、その評価の基本となる地方での評判などが、客観性にかけるものであり、中正にうまく取り入ったものが高い評価を得ることができるという点が最大のものといえるでしょうネ。
また、地方と中央の階級格差が大きく、さらに、出世が非常に遅い(地方から中央に登用された人材は1品上がるのに十年~数十年を要した)ということで、その結果、今のどこかの国のように、年功序列型の停滞した人事となったことも挙げることができますネ。
もう一点は、同じ品級であっても、配属先によっての優劣がハッキリしていたことで、その人事査定についても、客観性の乏しいものであったことが問題であったと考えられます。
このような問題を含んでいたため、後に、客観的評価に基づく科挙のシステムが採用されるようになったといえます。
以上Kawakawaでした
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まずは、科挙について述べましょう;


589年に陳を滅ぼして中国を統一した隋によって九品人法にかわる登用制度として作られたのが科挙精度ですネ。
隋代と唐代には、秀才・進士・明教・明法・明算・明書という六科があり、それぞれについて科挙が行われました。宋代には、これらの六科は進士科に吸収され、選抜試験は三段階で行われました。一次試験は州試(後の郷試)で、これに合格すると会試、さらに殿試に合格して、初めて進士となれたのです。選抜精度が最も複雑化したのは清代末期で、郷試に合格した挙人は挙人覆試の受験資格ができ、その試験に合格すると、会試を受け、合格した貢士は貢士覆試を受け、合格者は皇帝の面前での面接試験である殿試を受け、合格者した進士は更に、朝考という学力試験を受けなければならないというシステムでした。また、この科挙試験を受けるためには、受験資格が必要とされました。
受験資格を得るために必要とされたのは国立学校の学生であることで、そのために、童試と呼ばれる入試が第一段階の予備試験として定義されることになります。童試には、地方で行われる県試、その合格者が受ける府試、さらに本当の入試となる院試に合格した秀才は成績に応じた学校に配属され、学力試験である歳試を受けて一定成績をあげることで、科挙の受験をすることができました。
先に述べた、科挙試験の各段階の合格者は、合格時点で階級が与えられ、役職につくことができましたが、非常に難関であったことは間違いありません。
合格率はきわめて低く、また、試験そのものも独房形式の受験場で数日間監禁状態で行われるため、受験者に多数の死者がでたといわれています。
学力が優秀で、最終的には皇帝による面接に合格できるほどの優れた人材を登用するという目的達成のために、学校教育を受験目的のものにかえてしまったというのは大きな問題であったでしょう。また、地方政府で手腕をふるうことができたであろうと思われる優秀な人材が科挙精度のために無数に潰されてしまい、大きな人材の損失があったことは容易に想像がつきますネ。
以上Kawakawaでした
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