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大御番頭の半数は大名だったというのは本当ですか?

伏見奉行も大名役だったのでしょうか。

三奉行の内、なぜ寺社奉行だけ大名役だったのでしょうか。

A 回答 (4件)

大番頭は番方でもいちばん格式の高い部隊の長で5000石以上の旗本か1万石程度の大名が就任しました。

その時期によって異なりますが、万石以上の大番頭もたくさんいました。
伏見奉行は定員1名で大番頭などから抜擢されるか小大名が任命され、これを勤めると奏者番か留守居に昇進しました。
寺社奉行だけがなぜ大名役だったのかはよくわかりません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
大番頭は大名も多かったのですね。
諸侯の身で関西赴任がある大番頭を勤めるのは大変だったでしょうね。

お礼日時:2005/08/23 16:05

あくまで想像ですが、江戸期の寺社は一定の所領を持ち、治外法権が認められ、言わば領主と同等の立場にあります。


上方では名目的には町奉行の支配下にあったが、本願寺などは数百人の武士を抱え、自治を行っていた。
(公式には門跡寺院以外は武士を抱えてはいけない決まりですが)
実質的には寺社の責任者は小領主ですから、それを取り締まるには大名格の者とされたのではないでしょうか。
大名を取り締まる大目付も、旗本が勤めますが格としては従五位下に叙せられ、年始には大紋を着し折烏帽子をかぶり、末広扇子を持つことが許され、大名格ですから。
例外として旗本が寺社奉行になった例はありますが、稀ですね。(大岡忠相:当初奏者番を兼ねなかったのでいびられたようです)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
門跡以外は武士を抱えてはダメだったのですね。

お礼日時:2005/08/23 16:07

寺社奉行は幕府領の寺社を取り締まる関係からかなりの領土に関係しました。


従って面積でいえば大名級の領土を担当したわけです。
しかも戸籍の管理は寺社の役目で、国民統制上の責任もありました。
勘定奉行が関東の治安を担当したより広い領土管理を担当していたのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確か天領の郡代・代官は勘定奉行の配下だったと思いますが、勘定奉行は天領には直接的な影響力はなかったのでしょうか。

お礼日時:2005/08/23 16:04

補足です。


勘定奉行は財政と天領支配を担当し、当然郡代、代官を部下としました。
関八州の訴訟はここが担当でした。
後に財政を担当する勝手方と訴訟などを担当する公事方に分割されました。
従って天領などの直接支配でした。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/08/23 18:34

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