プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

大坂の陣の時、加藤、福島といった豊臣恩顧の武将はなぜ駆けつけなかったのでしょうか?
初心者にもわかりやすくおねがいします。

A 回答 (8件)

加藤清正は既に死んでますね。


すでに将軍位は家康から秀忠に譲られ、幕府の体制は確立しつつあり、関が原のような一戦で雌雄を決するという状況ではなくなっています。
豊臣家のために働くならば、家康との和睦で一大名として生き残るか公家化する道を探るしか無いわけです。
しかし、関が原後の豊臣家の家老で家康との和睦の道を探っていた片桐且元が、淀殿から家康との内通を疑われ失脚してからは、もはや、豊臣恩顧の大名が豊臣家のために出来ることは無くなったと言っていいでしょう。
あとは、もし秀頼が自害せず捕らえられていれば、助命嘆願に動いた可能性はあると思います。
片桐且元も大阪城から追放の後、大阪の陣では徳川側に付きますが、戦後、秀頼を助けられなかったため自害したと言われています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/04 23:03

#5です。


関が原の後、秀頼が、(将軍位をゆずり大御所となった)家康に挨拶するため京都の二条城に行った時、清正は秀頼の供をして、正則は仮病で大阪城に残っています。彼らが淀殿に恩義を感じてはいなかったというのは当っていると思いますが、この時点では秀頼に対しては主君の後継者として保護を考えていたはずです。関が原後の時点で豊臣家を見限ったということは無いはず。
秀頼と家康との共存の道がなくなった時点で状況が変わったということでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/04 23:04

加藤、福島は確かに豊臣恩顧ですが、彼らを幼少から訓育したのは秀吉の正妻おねで、淀君ではなく淀君の君臨する大阪城にはそれほど義理を感じていなかったのです。


正妻おねは既に豊臣家を見限っていましたからどちらかといえば家康の肩をもつ行動をとつていました。
従って加藤、福島に大阪方への応援を控えるように働きかけた事は十分考えられます。
その証拠に家康も正妻おね(後の高台院)には慇懃な態度をとっています。
福島はそれでも兵糧米を大阪に運び入れ、それで後日家康に咎められています。

さらにすでに天下の大勢は徳川に傾いていて大阪方の劣勢は明らかで、保身の為にも大阪方につく事は考え難い情勢でした。
しかし秀頼が頼って落ち延びてくればそれを迎える位は加藤は考えていたふしがあるようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/04 23:04

 #3さんが云われているように、主な豊家恩顧の大名は江戸留守居役を命じられたため、大坂の陣に加わることは出来ませんでした。


 又、関ヶ原の戦いで徳川方に味方した武将はそのまま将軍側として参戦し、石田方だった武将はそのほとんどが領地を没収されたりしましたから、手勢が在りませんでした。
 それでも真田信繁のような武将も参じましたが、戦力としては決して大きくはなかったと云うことでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/04 23:03

高台院(おね)が「行かんでよろしい」と言ってくれたので。

高台院は二人とは親戚で、明らかに劣勢な豊臣方につかせて敗軍の将にさせたくなかったんでしょうね。淀君が気に食わなかったのもあるんでしょうけど・・・

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/04 23:02

まず加藤清正は駆けつけたくてもあの世にいますから駆けつけることは出来ませんでした。


息子の忠広は徳川秀忠の忠の字を貰いましたから、徳川家の大名であり、豊臣に義理はありません。
福島正則は関ヶ原の合戦以来、徳川家康によくしてもらい、豊臣方からは裏切り者と考えられていたし、大阪の陣では江戸に呼び寄せられ留められていたので参加できなかった。
彼が取り潰されたのは秀忠への政権移譲に巧く乗れなかった為で、秀吉子飼いではあるが、家康とは仲のよい大名である。
つまりこの時点では全てが手遅れで、勝つ可能性があるとすれば、関ヶ原に豊臣秀頼が総大将で出陣するべきであった。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/04 23:02

豊臣方にということでしょうか?



優れた武将たる両者には既に豊臣方の負けは見えていました。よって自らが敗北、滅亡するのにかかわらず味方するはずがないということです。

大名とは、武将個人のものではなく家臣を含めた法人のようなものです。優れた経営者なら、自分の義理のために会社をつぶし、部下を路頭に迷わせたりはしないものです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/04 23:01

石田光成が嫌いだったのではないですか。

 ある歴史ドラマではそのように捕らえていました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/09/04 23:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!