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現在でも、会津と長州には確執があるのは有名ですね。
そこで、実際に現代において、両者の不仲を思わせる出来事などがありましたら是非教えてください。新聞記事に掲載された出来事や、身近な出来事でも何でも結構です。
事実のみを知りたいので、感情的な回答はご遠慮願います。宜しくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

長州と会津が不仲というのですが


長州と会津はそれほど不仲ではない。
むしろ会津人が嫌うのは薩摩人だと聞いています。

長州は最初から最後まで敵だったが
それは主張する考え方が違うだけで
武士として非難するようなものではない。

他方、薩摩は表向き会津に協力すると見せながら
裏では長州と手を握り土壇場で会津を裏切りましたから、
武士として許すことができない。

現に西南戦争では会津出身の巡査が多数抜刀隊に参加し、
異様な闘志をむき出しにして薩摩兵に切りかかったと
言われます。

剽悍とされた薩摩の兵児が会津の抜刀隊を恐れたといいますから
その遺恨のほどがわかります。
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今は忘れている人が多いようですが


実は会津戦争の時には会津の庶民は重税に苦しんで愛想をつかしていましたので官軍を諸手を挙げて喜んで歓迎しています
二本松藩から鶴ヶ城までの進撃では地元の領民の道案内で進軍したために会津藩はほとんど抵抗できませんでした
わずか2日で篭城戦に入ります
まともな戦いはなかったのです

死体に関しては官軍も会津藩も死体の埋葬を禁止しています

会津領民は各地で民家を会津藩兵の焼かれてしまい(食料などの補給を阻止するため)かなり憤慨していました

ですので、官軍が来ると拒むどころか、道案内をして、商品も平気で提供して、憎い会津藩主を恨んだのです

ちなみにもう出ているとは思いますが、斗南は猪苗代を捨てる事を決意した会津藩士の判断です
贋金作りをしていたのは実は会津藩士で斗南でも贋金つくりをして逮捕者が出ています
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polpotoさんの回答に関して、会津の人間ではありませんが史実を元にちょっと一言。



会津の人々が今でも長州に遺恨を残しているのは、実際に攻め込まれた云々よりも戦後処理の酷さなんです。

長州を中心とする新政府軍は、会津藩の民衆を『賊徒』として、戦死した者の埋葬も許さず、筆舌に尽くしがたい恥辱を味わわせました。

同時期に、偽金事件が多発したのですが、調査にあたった長州藩は、会津藩の民衆に対して取調べすら行わず50人ほどの町人を母子の前で公開処刑しました。

また、戦の以前から会津藩を朝敵として差別していた長州の代表的人物、山県有朋は、学界や官界に進んだ会津藩出身者の登用について徹底的な妨害工作を行ったと言われています。

特に、最初に挙げた遺体の処理に関しては長州の主導で、徹底的に非人道的な処理が行われました。

どうぞ、堅いものでなくても結構なので、歴史書を手にとってみてください。
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実は、会津の人たちは「戊辰戦争?何それ一体?」という思考の方がほとんど。


会社の上司で会津藩の家老の末裔の方が面白い事を言ったいた・・・「会津と薩長の確執?そんなの本気で考えている奴なんて歴史小説に感化されたバカ位だよ。うちの先祖は確かに一回下北の方に行ったりはしたけれど、130年以上前のことを今もネチネチ言ったって意味ないよ。あいつら(騒いでいる連中)まるで成田闘争や沖縄の反基地闘争に来ているプロ市民と同じだね」。
ところで、山口出身の芸能人(松田優作・西村知美・芳本美代子・木暮美千代・陣内大蔵・KATZEなど)は、会津に来たことがあるのでしょうか?
ちなみに宇部興産と長府ボイラーの代理店はちゃんと会津にありました。

さらに質問ですが、会津戦争で戦ったのは薩摩と土佐。長州は間に合わなかったので実際は戦っていない。なのに「長州による虐殺」などという捏造を平気で行っているのは何故でしょうか?
そして、たかが武士階級とそれにつながる一部の階層が死んだぐらいの規模のものと広島の原爆を同一視するのでしょうか?ね、会津の皆さん。
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http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/rekishi/2005 …

現代の長州側が歴史を捏造すれば、感情的にも成るでしょう。

参考URL:http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m& …
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 山口(長州でなく防州ですが)に本社があるトクヤマというセメント、建材の大手企業があります。

従業員も地元出身者も多いです。セメント、建材ですから全国に営業展開していますが、会津には営業に行かないそうです。同じ山口の同業者(宇部興産とか東ソー、秩父小野田セメント)はどうなんでしょうね。
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会津と長州の対立というのは、実は騒がれるようになったのが昭和60年代の新人物往来社の「歴史読本」のキャンペーンと、司馬遼太郎が会津で公演を行った際のリップサービスが再燃した結果。



更に地方史家で当時会津若松市の観光部長であった故宮崎十三八氏と白虎隊記念館館長である故早川喜代治氏が「観光の目玉にと」と会津が今でも山口に恨みを持つような観光キャンペーンをはるようになったのが発端。

過去にも会津に恨みがあったような話は、殆どが観光関連イベントや商工会がらみのキャンペーンが原因。また地元の政治家も似たような話をするが、会津若松市から離れた地域は「市はまだそんなキャンペーンをやっているのか」と困惑しているのが実情だそうです。

更に会津贔屓の作家さんによる史実歪曲が、史実を知らない一般の人に洗脳されて余計に薩長は悪とレッテルを貼られてしまった。

今の会津若松市は逆に「恨みを商売にしている」と「観光史学」と批難されている状況で、歴史ファン同士の憎悪を生んでしまったのが本当でしょう。
>実際に現代において、両者の不仲を思わせる出来事などがありましたら
書籍として
◆会津ちょっといい歴史(野口信一)
http://diarynote.jp/item/4897572630.html
◆戊辰怨念の深層(畑敬之助)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4897576 …
◆会津人が書けなかった戊辰戦争(牧野登)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4897573 …
をご一読を。観光史学の批判と、会津史観の硬直化に対する批判がそれぞれ書かれているので。
ネットだけではなく、直接書物を読んで批評に耐えられるようにされることをお勧めします。

会津を代表するように自称されている星亮一氏の本もありますが、独善的で硬直した会津史観で書かれているのであまりお勧めできません。史実を曲解するような書き方をされているのでどうかなと思います。

因みに畑敬之助氏は会津史談会の顧問をされている方で、戦前に旧制高校時代に会津の英雄的・悲劇的歴史観を槍玉に挙げられて批判されたそうで、会津の持つ戊辰の恨みという歴史観が実は戦前にも叩かれているという事実を知ったときは驚きました。
野口信一氏は会津若松図書館館長です。
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そう?こっち(会津)はやっぱり、そっちが嫌いですね。

大阪嫌いな東京の人とか、京都を嫌いな大阪の人とかいるでしょ?その人たちは東京や大阪の中では少数。でもこっちは長州の人が嫌いなのは大多数。そんだけのことです。ただ、いまさら、何か仕返しをしてやろうとか、嫌がらせをしようとかする人は私の周りにはいません。ただ、嫌いなだけ。こっちから進んで、交流しようとは思いません。かかわりたくないですね。別に、こんなに遠いんだから、わざわざ仲良くする必要があります?仲良くなったあとから知ったら、付き合いをやめるとかはしないけど、最初から知っていれば、すすんで、お付き合いはしないね。
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こんにちは長州は萩で生まれ育った人間です。


確かに、萩を主体とする長州勢力は非人道的ともいえる扱いをしました。会津側の死体は埋葬さえも許されず捨て置かれたことを考えると会津の方々の心中は察しても余りあるものがあります。しかも、明治維新以降、政府の要人は薩長が占めたため会津出身者は冷遇の憂き目にあったようです。正に”勝てば官軍”の言葉どおりですね。萩で教育を受けましたが特に郷土史等でも詳しく取り上げられることも無く会津との確執というか会津の人々からの長州人への思いは社会人になったから知ったくらいです。両市の市長も交流をしており時折、地方紙に”雪解け”の文字が躍りました。忘れる事ははばかられる史実ですが現代において不仲説はマスコミが過去を掘り出して言っているに過ぎないと思います。山口県(特に萩市)が舞台となった”釣りバカ日誌12~史上最大の有給休暇”では宮沢りえと吉岡秀隆が長州と会津の出身と言うことで親に付き合いを許されないと言う場面が有りましたが、映画だけのお話では?と思います。
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戊辰戦争130年in角館=だが怨念は消えず


http://www.hana.or.jp/hana/nitiniti/news98/Aug/n …
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