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加賀藩は並みの大名百人分の規模がありながら、どうして激動の幕末にさして重きを成す事が出来なかったのでしょうか?加賀藩はどういうスタンスだったのでしょうか。

A 回答 (1件)

禁門の変のとき加賀藩の嗣子前田慶寧の手兵も警備にあたっていましたが、慶寧は桂小五郎とも通じるところがあり戦闘には加わらずに近江の飛び地まで引き上げています。


このころ加賀藩では藩論が二分されていたため、藩主斉泰は慶寧を金沢に呼び戻して蟄居させ、若殿付の家老には切腹、その他の士卒も40人が死刑や流刑にされました。
そういうことで加賀藩はどちらにもつかずに日和見をしていましたが、政情がへんかするにともない、藩主は隠居して慶寧に当主の座をゆずりましたが、天下の形勢をみて動くだけで積極的にどちらかへかたんしないままに明治をむかえました。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
藩内の内紛で日和見だったのですね。

お礼日時:2005/11/19 13:59

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