【お題】王手、そして

昨日電車でお年寄りに席を譲ったのですが、何も言われませんでした。
そのときちょっと失望感を感じてしまったのです。
そこで気がついたのですが、自分は老人のためを思って席を譲ったわけではないのです。
席を譲って感謝される自分を想像して譲っていたのです。
もし老人のためを思っていたのなら失望感など生じるはずがありません。
自分には道徳観念が欠落しているようです。
よく人から「いい人・やさしい人」と言われますが全くの偽善でした。
全て自分のためにやっていただけでした。
本当に恥ずかしいです。
どうしたらいいのでしょうか?

A 回答 (26件中1~10件)

 お年寄りに座席を譲られたあとにsekker4917さんが「自分は偽善者?」と感じられたというのは、一歩前に進んだということなのではないでしょうか。

簡単に席を譲ると書かれておられますが、きっと最初に譲ったときは、結構ドキドキしたり、声をかけるにも勇気が必要だったのではないかな?「お年寄りや具合の悪い方を見かけたら優しくネ」と教えられて理解するのが第一段階、実行が第二段階だとしたら、今が第三段階の入り口なんですよ、きっと。譲ろう・・・と思って、それを実行した自分の心の中を客観的に見つめることができたわけですから。
 でも人間なんて大体そんなものです。神ではないのですから無の境地で善行ができるほど立派なんかじゃないんです、みんな。誰かに褒められたい、自分の人生のグレードを上げたい、そんな何かしらの下心を持っています。一番善良?と思われる「相手が喜んでくれる」というものだって満足感という報酬つきですから。大きな違いがあるのは自分のその下心を自覚しているか、していないかという事ではないでしょうか。
sekker4917さんはそれに気付かれたのですから、前進したのですよ、きっと。次の段階はそのご自分を受け容れるということではないでしょうか。受け容れて、甘んじてその思いを持ちつつこれからも席を譲ってさしあげてください。
 ボランティアも自己満足から出発します。続けていくなかで断られた時の不快感や、満足に介助できない無力感を感じます。断る方にはその方の理由があると納得し、無力な自分の申し訳なさを受け容れて、それを乗り越えないと続けていけないし、本来のボランティアには成長していけません。自覚しながらも続けていくことは、結構心が痛むことですが、その先へ進まないと次の段階へは抜けられないのです。(もっともこの気付きの先は一段がとてつもなく大きいのですが・・)どうぞめげずにこれからもよろしくお願いしますネ。
完璧には程遠い人間という存在ですから「満足感」というご褒美くらい、謙虚に受け取ってもイイと思います。相手が少し楽になった・・と感じられたら、自分の心にもほかほかの幸せな温かさがあふれ、感謝の思いが湧いてきます。(但し、しっかり相手の様子を感じていないと、良かれと思ってしたことが相手の心を傷つけていることもあります。大抵は真心で向き合うことで通じ合うものですから大丈夫ですヨ。)
めげずにせっかくのやさしい心を大切にしてくださいね。

 偉そうなことを書いてすみません。多分人生の少し先輩として書かせていただきました。『一期一会』私がそういう関わりの中で実感させて頂いている言葉です。
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偽善でも良いと思います。

恥じる必要はありません。

何もしない人より、偽善でも行動できる事は、意味がある事です。

私の場合ですが、偽善で譲ったとしても、お礼を言ってもらえないと、そのご老人は譲られて当然と思っているんだ・・・と思い失望してしまいます。

質問者様の失望も、こっちに近いのでは無いでしょうか?
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普通の感情だと思いますよ。

「いいことをすると気持ちいい」って昔からいいますが、これっていい事をすると自分が気持ちいいって事ですよね。一般的な気持ちだと思います。
私だって、席を譲ったのにお礼を言わないお年寄りにはちょっとムッとしますし、そういうシチュエーションを見かけたら「非常識な年寄りだなぁ」と思います。
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私の好きな、相田みつをの言葉を一つ。



「人の為と書いて偽(にせもの)と読む」

人の為。と感じるよりも、自分がやりたくてしたことなのだ。と感じた時に本物になれるのでしょうか。。

本物の愛は見返りを求めないと言いますし・・・。
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偽善かも知れませんが、少なくともその老人はあなたの行動によって楽をすることができたのです。



偽善者が拾うゴミも、本物の善人が拾うゴミも、同じゴミだし、同じようにそこが綺麗になるのです。

きっかけが偽善でも、行動が善人なら、偽善大歓迎!と私はいつも思っています。
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それって恥ずかしいかなぁ??


>席を譲って感謝される自分を想像して譲っていたのです。
大いに結構じゃないか。所詮ボランティアなど全て『自分の為』にする
ものさ。ただ、君の場合はちょっと中途半端だったのよ。

『良いことをする事そのものが自分が嬉しいから自己満足の為にする』
というのは結構。しかし、そこは自己完結。そこに他者からの礼が
あろうがなかろうが、それはそれ。
礼があればさらに満足度が上がる。が、無くても満足は満足。
そう思えば、今後も自己満足の為に善行をしていけるでしょう。
これからもそんな善行をしてってください。
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席を譲った事が善なんだから偽善ではありません


その後の相手の対応に対して失望したのは当然の感情であってそれも偽善ではありません

貴方の予想と違う反応があったからといって偽善者なのではなく貴方の人を見る目が甘かったと言うことです
(その年寄りが堕落しているだけで貴方の責任ではありません)
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私は、(別に偽悪ぶっているわけではないのですが)明らかに危なっかしい、もしくは同情を誘う外見の老人でない限り席を譲ることはあまりありません。



始発駅の場合は「一本遅らせれば座れるのに、わざわざこれに乗ってきたという事は、別に立ってても大丈夫なんだろう」と判断します。

階段から遠い車両の場合は、「こんな端の車両まで歩いてこれるんだから、立っていても大丈夫なんだろう」と判断します。

また、グリーン車が連結されている場合は、グリーン車に行けば、とか思っています。

何が言いたいのかというと、老人のほうにも、私のように色々と勝手に自分内マナーを改変したりしている人がいても、おかしくないと言うことです。

それどころか、もっと言えば「俺は偉いんだからこのくらい当然」とか思っている人もたくさんいると思います。老人だから、皆がいい人なわけではありませんから。


そんな中で、あなたがとる道としては、
・私のように考えるか
・偽善者と陰で笑われたり、お礼を言われないことがあったりするとしても、より多くの老人に快適な電車ライフを提供することを目指す

のどちらかだと思います。
少なくとも、どっちを選ぼうが、誰にも恥じることはないと私は思います。
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実の子供でない限り、見返りを求めない施しをするのは、非常に難しいことだと思います。


お礼がないことに疑問を感じたとしても、席を譲ろうと思うその気持ちと譲ったという事実が大事なんだと思います。
あなたは立派な人だと思いますよ。
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がると申します。


んっと…多分似たような感覚を私も持ってまして。
で、私ははっきり、「人に親切をするのは、親切にした人がもしかしたらお礼を言ってくれるかもしれず、自分はそれを期待している。だから、別に親切なんじゃなくて欲得ずくなんだ」って認識をしております(苦笑
ただ、これは一方的な要求なので、感謝の言葉が得られなくても、相手に対して悪感情を持ってはいけないと思うのですが。
# あらかじめ相手に「もしあなたが感謝の気持ちを言葉にしてくれるなら親切にしますが?」ときちんと明言していれば別でしょうが :-P

で。
別にそれはそれでいいんじゃないでしょうか?
そうですねぇ…物凄くきれいにいうと、ビジネスでいう「win-winの関係」のような感じだと思うのですが。
相手に親切をし、それに対して相手がお礼を返してくれることで
・自分は、親切を代価に「お礼を言ってもらった」ので嬉しい
・相手は、(実際には前後が逆ですが)お礼を代価に「親切にしてもらった」ので嬉しい
となるので。

無償の奉仕というものはそれはそれでいいとは思うのですが、正直、そういったものが長く続くとは思えません。
ギブアンドテイクという言葉があるとおり、やはり自分がコストをかけた行動に対しては、それなりのメリットがあることを望むのが多くの場合における人間的心情だと思うんです。
それであればいっそ、きちんと「報酬(お礼)を意識した」親切ってのがあってもいいんじゃないでしょうか?
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