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テレビでやってるあの水戸黄門についてなんですが、水戸黄門は実際にああいった活動(旅?)をしていたのでしょうか?
それとあの、助さん格さんも実在したのでしょうか?
実在したとしても、本当にあれほど強かったのでしょうか?
それにしても何が凄いって、あの助さん格さんの強さですよね!水戸黄門も彼ら(他の助っ人キャラも含め)があれだけ強いから「ここぞ!」という時に印籠を見せ付けれてますけど(笑)。

実際のところが知りたいです!詳しい方がいましたら教えてください!

A 回答 (10件)

いいえ、水戸黄門こと徳川光圀は全国の旅はしてないと思います。


実際に旅をしたのは、神奈川県鎌倉市かもしれません。
実際に旅をしたのは、助さんと格さんだと思います。
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水戸黄門が副将軍だったというのは一種の噂です


というのも副将軍なんて役職は存在しなかったからです。
水戸藩主は「定府の在」といって参勤交代和せずに常に江戸にいなければいけませんでした。
これは将軍に万一の事態があったときに代理になる立場だったからです。
ただしこれはあくまで代理であり、実際に将軍になる可能性は殆ど無いと言われてました。
そこで、その事を揶揄して水戸藩主を「副将軍」と呼ぶようになったのです。
これは俗称であって正式なものではありません。

幕末の水戸藩主、徳川斉彬はそのことに不満を持ち何とか水戸藩から将軍を輩出したいと考えました。
そこで水戸黄門漫遊記という講談を広く姿勢に流布させて流行るように仕向けたのです。
その講談の中では水戸光圀の偉大さを訴え副「将軍」であることを殊更に強調したのです。
こういった根回し的な活動もあいまって、斉彬の子で一ツ橋家に養子に行っていた慶喜が15代将軍職に就くことになります。

また水戸黄門は実は黄門ですらありませんでした
黄門というのは中納言の別称なのですが水戸黄門もとい水戸光圀は権中納言であり中納言より一つ下の位階だったんです。
それを無理矢理「水戸黄門」としたのも斉彬の意向によるものですね

つまり
水戸黄門のお話は水戸斉彬による政治的意図を多分に含んだ作り話だということです
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>char2ndさん


あれ??副将軍ってなかったんでしたっけ?
確か徳川御三家のうちなぜ水戸が尾州・紀州と違い将軍に
なれなかったのは(第一位が尾州、第二位紀州で水戸は
何でもなかったって意味です)副将軍だったから
(世襲でいいのかな?)って昔TVで放送していたような・・・
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佐々介三郎(宗淳)(1640~1698)


父親の命で15才のとき京都妙心寺の禅僧となり、その後還俗して江戸に出ます。35才で水戸の彰孝館に入り、『大日本史』編纂のための資料調査や湊川建碑を行い、元禄9年(1696)に彰孝館総裁となります。その後総裁職を辞した後は水戸光圀公の近侍として仕えます。「豪快磊落(ごうかいらいらく)」な性格で光圀公のお気に入りの一人だったようです。

安積覚兵衛(澹泊)(1956~1737)
江戸時代の儒学者で、朱舜水に学び彰考館の総裁として大日本史の編纂に尽力しています(論賛を執筆)。新井白石や室鳩巣とも親交があり、学者として当時一流の人です。「烈祖成績」などの著作もあります。臣下と言うよりは尊敬すべき学者さんだったようですね。

水戸光圀は徳川綱吉と同時代の人で、「生類憐れみの令」などなんのその、牛や鳥や羊など藩で飼育して食べまくっていました(日本でラーメンや餃子を初めて食べた人でもあり、好奇心旺盛な人だったようです)。
徳川姓を許された神君家康公の孫であり、江戸定府の立場は、将軍親政を目指す綱吉への牽制役として期待されていました。子孫の烈公と称された水戸斉昭の存在もあって水戸家は、本家徳川家に意見できる地位として江戸庶民には「副将軍の家柄」と呼ばれたようです。
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水戸光圀は本当は若いころはかなりの遊び人だったそうです。

年を重ねて遊び癖はへったそうですが、諸国漫遊なんてことはしてません。そんな暇はないでしょう。

ある程度の護身術は身にはつけていたかもしれませんが、あんなにばさばさと切るのはないと思います。

そもそも幕府に副将軍なる地位はないので、勝手に名乗ってるだけです。副将軍なる人が諸国漫遊をしていれば人々もそれなりに気をつけるでしょうし、あんなに悪者だらけの世の中なら幕府もどうにかしているでしょう(笑)

助さん格さんも本当はただの学者です。光圀と面識があったのかも?です。

実際のところは完全なフィクションです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
でも実際に助さん格さんバリに強かった人っているんでしょうかね?
織田信長も戦闘の時は先陣切って戦ってたと聞きますが。

お礼日時:2006/01/24 23:43

水戸黄門(徳川光圀)は江戸と水戸の自分の領地以外に行ったことはありません。


大名の隠居が勝手に諸国漫遊すること名できませんでした。当然のことながら助さん格さんも実在しませんが、そのモデルとなる人物は実在しました。
しかしながら彼らは「大日本史」の編纂にかかわった歴史学者で武芸についてはあまりたしなみはなかったようです。
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33歳にして二代水戸藩主となった光圀ですが、実際に行き来したのは水戸と江戸の小石川くらいらしいです。

彼は史書「大日本史」の編纂に力を注いでいて、小石川邸内に彰考館を置き、全国に学者を派遣して史書の資料を求めました。このことが諸国漫遊のお話の元になったそうです。実際に全国旅をしたのは、彼の派遣した学者さんたちですね。
彼は、要望さえあれば身分を問わず、「後楽園」に招き入れたといわれてますし、いい人は本当だったみたいですね。(当時の後楽園はいわゆる「公園」ではありません。)
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水戸光圀が最も遠出したのは鎌倉までです。


諸国漫遊などはしてません。
助さん格さんそのた諸々の同行者も実在しません。
水戸光圀を題材にいた創作時代劇ですからねぇ。
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 あのような旅は一切していません。

そもそも、副将軍という役職もありませんでした。ただし、助さん・格さんについてはモデルが居たようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8% …
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旅はしてません。

助さん格さんもうっかりハチベエもいません。
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この回答へのお礼

うっかりハチベエは本当にいてほしかった・・・(泣)。
ありがとうございました。。

お礼日時:2006/01/23 23:27

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