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20年以上前に確か雑誌だったと思うのですが、関が原の戦いが特集されていました。その中で、当時発見された新事実として次のような内容が紹介されていました。関が原の戦いを終始傍観していただけと言われる長宗我部盛親ですが、実は長宗我部隊が桃配山の家康本陣を急襲していた!というような内容でした。天下にその名を響かせた土佐の一領具足達が何もせずにすごすご引き上げたというのは寂しい歴史だったので、その雑誌を読んで結構興奮したことを覚えています。しかしその後色々と関が原の戦いを調べたのですが、以降そのような話は一度も聞くことなく、どれをあたっても長宗我部隊は傍観者に徹していたというように書かれています。もちろん当時読んだ雑誌はいわゆる歴史シミュレーションではありません。

果たして私が見たのはガセネタだったのか、単なる記憶違いか、ご存知の方いらっしゃたらよろしくお願いします。

A 回答 (3件)

土佐勢は家康方につこうとしていましたが使者が捕まってしまい石田方についたといわれています。



そして、やむなく石田方の毛利秀元隊に加わりました。

そして伊勢の富田氏を下したあと関が原に到着しました。毛利隊の先陣を務めていたらしく一番早く関が原に着いたようです。

兵隊が6000人ですからできなかったような気がします。

おそらく、関が原の前哨戦である杭瀬川の戦いと勘違いなさってる可能性が?
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この回答へのお礼

う~ん、確かに関が原だったはずです。確か古い絵地図まで写真に載っていたのを記憶しています。
でも確かに兵力は少ないですから、ちょっと仕掛けてみた程度かなとは思ってました。全力でぶつかったらしんどいですよね。
杭瀬川の戦いって長會我部って参加してましたっけ?
ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/11 11:11

長宗我部隊は石田勢に対して篝火を焚いて関が原への目印としての役割をしたそうです。



ですから、やはり奇襲はなかったのではないでしょうか?

杭瀬川の戦いは土佐勢は参加してないそうです。
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この回答へのお礼

その話は聞いたことがあります。なんでも大垣城の東軍の押さえをしていたとか。そうでもないとあの布陣は遠すぎますよね。

お礼日時:2006/03/11 16:25

私もそのような話を聞いたことがありますが、どうやらそのような事実はないようです。


歴史シュミレーション小説でならそういった話がありました。
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この回答へのお礼

確か古い絵地図の写真が付いていたのを覚えているのですが。聞かれたことがあるということは、やっぱりどこかでそういう書籍があったのでしょうか?
でもそれっきり何も話がでないので、やっぱりがせなんですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/11 16:22

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