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連れ込み宿みたいなのは存在してたのでしょうかね。
随分性におおらかだったようですが、遊郭みたいなものが発生したのがこの時代ということらしいのですが、男女連れ立ってまあ、ラブホへ行くみたいなことはなかったのでしょうか?

A 回答 (3件)

まだ男女の出会いを商売 にしたものはなかったんでは


ないでしょうか?

遊女であれば道ばたや遊女屋で客をとりました。
上流相手の高級遊女であれば「街売り」(くるわの外へ出て客と出かけたり、客の家に行ったりなど)が出来ました。

今で言うナンパのようなもの「女捕り」というものも
ありました。
これも泊まるとなれば一般の住宅か
街道の宿でしょう。

室町時代より前ですが平安・鎌倉時代頃は
寺に参詣の後こもる、(逗留する)ということが
よくありました。男女関係なく泊まりますので
ここが出会いの場になったりすることもあったようです
(男女関係とは限らず、物語などでは身内の再会 の場面にも
使われます)。

おおざっぱな見解で申し訳ないですが・・。
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No.1さんほど詳しくはないですが、少し補足します。

     平安時代から「性」だけを売る街娼は「立君」と呼ばれていたそうです。    武士の台頭と関係したのかは不明ですが、次第に組織化されていったようです。     室町時代の初期の建武の頃「傾城の局」と呼ばれた初期の遊郭があり、遊女は「上臈(じょうろう)」と呼ばせていたといいます。     ただ当時の風習からして、知り合い同志で行く連れ込み宿はまだ無かったのではないでしょうか。
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こんばんは、詳しくはないのですが


 
 最初の遊郭は1584年(天正13年)、今の大阪の道頓堀川北岸に作られたのがその初といわれます(のちの新町遊郭)。その5年後(1589年 一説には1585年)には、秀吉の許可の下、原三郎左衛門と林又一郎が京都柳町に遊廓を作りました(のちの島原遊郭)。徳川幕府は江戸に1612年(慶長17年)日本橋人形町付近に吉原遊廓を設け、新町・島原・吉原の三大遊郭が誕生します。そのほかにも主な都市には20近くの公認遊郭があり、宿場ごとには「飯盛女」という娼婦がいました。

 では、それまではどうだったというと、日本の娼婦の歴史というのは多種多様で、単に生きていくために春を売る売春婦もいれば、宗教・技芸と関係し、その付随として「性をうる」者もいました。後者は「白拍子」や「遊君の君」と呼ばれ、もともとは神社の巫女として神に仕える者でしたが、のち(男性優位社会)には世を漂白しながら歌や踊りで生活をたてる一方で性も売る様になったといわれます。義経の愛妾静御前もこの白拍子ですね。

 これらは、相手の家や屋敷に招かれて芸と「性」を売ったでしょう。芸ではなくもっぱら「性」のみを売る女性は、適当な場所(自宅もあれば、橋のたもと、河原、お堂、林など)で相手をしていたのではないでしょうか。
 
 また先にあげた「飯盛女」は宿場ごとにいて宿泊客の夜の相手もつとめますが、鎌倉・室町期には「傀儡女」といったそうです。幕府は、これら遊女を取り締まる一方で税を徴収します。

 江戸時代には、芸に付随して性もうる女性と、もっぱら性のみをうる女性に二分していくようですね。前者は「芸者(芸妓)・太夫」で、後者は「岡場所の遊女」「夜鷹」という庶民のお相手といったものでしょうか。

 もっと詳しい方のお答えに期待し、失礼します。
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