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インディアンの歴史に興味があります。次の事、教えて下さい!
1、1862年のダコタ闘争の原因となったものは?
2、なぜオージブウェーインディアン達はアメリカ人に協力的だったのに、ダコタインディアンたちは反抗したの?
3、ダコタ闘争はさけられなかったのか?
なるべく詳しく教えて下さい。よろしくおねがいします。

A 回答 (1件)

アメリカインディアンと白人の歴史は大別して次のような時代を経て現代にいたっています。



1.共存時代
2.強制移住時代
3.西部開拓時代
4.公民権回復時代

又インディアンと接点を持った主な白人はスペイン人、イギリス人、フランス人です。これらを念頭において歴史を理解する必要があります。

先ず今日のアメリカのテリトリーに初めてやってきたのはスペイン人です。メキシコから北上して、今日のニューメキシコ州サンタ・フェ近郊に植民しました(1598年)スペイン人はインディアンをカトリックの布教対象と見なし、彼らの土地や生活慣習を尊重しました(カトリックとの妥協点を見出すまでにはいろいろあったが)

一方イギリス人は東部に植民地を作り(1620年清教徒のプリマス上陸以前から)続々と開拓者を送り込みました。初期の段階では白人は勢力が小さくインディアンと友好関係を維持せざるをえませんでした。スペイン人と違い、イギリス人はインディアンを
キリスト教の布教対象と考えず、広大な土地の利用も出来ない野蛮人と見なしていました。このスタート時点における認識の差がその後200年間以上にわたって続いた
インディアンとの誤解、紛争、征服、報復の繰り返しの原因だったのです。

フランス人は北部から五大湖周辺、ミシシッピー川沿岸沿いに南下してメキシコ湾に達しました。この間に出会ったインディアンとは毛皮の交易を通じて友好関係を維持していました。土地を求めないフランス人とインディアンは共存できたのです。しかし、後にフランスは英国と戦って破れ、これらの地域を北米に譲渡しました。一方、南西部(今日のテキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア
及びこれらの州に隣接したユタ、コロラドの南部など)を領有していたメキシコ(スペインから独立)はメキシコからは辺境にあたる南西部、特にテキサスの経営に失敗してテキサスの独立を許し、それがきっかけとなって合衆国との国境戦争に巻き込まれて大敗、メキシコの約50%を閉めていた南西部を失いました。(1848年)

1830年アメリカはインディアンの強制移住法を制定しなりふり構わずに東部のインディアンを西部(オクラホマ地方)に移住させました。この間、「涙の旅路」として知られるチェロキー族の悲劇が生まれています。こうして増大する移民者への土地を獲得したものの、土地の要求は強まる一方で、合衆国政府は一端条約と法律で
インディアンに与えたミシシッピー河の西側の土地をいかにして取り上げるかに腐心しました。インデイァンは土地を奪い、彼らの生活文化(伝統)を破壊し、病気や悪習をもたらす白人に抵抗を始めました。多くの部族が米国陸軍(騎兵隊)を相手に互角に戦い、或いは一度も負けず白人を苦しめましたが、白人側は守る気のない条約かだまし討ちで抵抗勢力を除いていきました。西部平原や高原で繰り広げられた戦いは、この一連の流れの中の戦いに過ぎず、どちらが先に手を出し、どちらが報復をしたか、或いは部族の長老の方針に従わない若い戦士たちの独走、合衆国軍の悪質な将軍や兵士たちが引き起こした不必要な戦いはたくさんあります。

ハリウッド映画はこれらの歴史の中から題材を広い、勤労意欲に燃え質素な生活を送る白人入植者、彼らを守る騎兵隊、そして何らの理由もなく白人を襲うインデイアンという構図を作り上げ、30年以上にわたって全世界にそのイメージを植え付けてきました。黒人の公民権運動(ブラックパワー)に引き続き同じような権利を求めるインディアンの運動(レッドパワー)の結果1970年代からハリウッドの姿勢が少しずつ代わり、「ダンス・ウイズ・ウルブス」で仕上げが行われたといわれています。

1862年のダコタ闘争が何を指しているのか分かりませんが、1848年にカリフォルニアに起こった(メキシコからカリフォルニアを奪い取った年)ゴールド・ラッシュ
のため、スー続が住んでいた現在のワイオミング平原を東部からカリフォルニアへ向かう開拓者や金鉱労働者が横切り始めたため、スー族は彼らを襲い自らの生活圏を守ろうとしました。これを合衆国政府はインディアンの反乱ととらえ軍隊を派遣しました。この頃にはインディアンも力が衰えていたので、ほとんどの戦いは悲惨な結果に終わり、西部のインディアンは居留地に閉じ込められることになりました。カリフォルニアに金鉱が発見されなかったなら、南西部は東から伸びてきた開拓の線上で長い戦いが続いたかも知れません。幸か不幸か南西部はこの波から取り残され、当時から現在まで土地持ちのプエブロ族やナバッホ、アパッチが暮らしています。彼らの暮らしている土地も保留地(居留地)と呼ばれますが、他のインディアンと異なり、先祖伝来の土地に住んでいます。スー族は肥沃なワイオミングから東隣の荒地(サウス・ダコタ州)の一角の保留地に閉じ込められています。

保留地に住むインディアンにも居住地を選ぶ権利があるので、今日現在、多くの若者は都市に出て職についています。

参考文献:
『アメリカインディアン悲史』 藤永茂 朝日選書 ¥1,100
『アメリカ先住民の精神世界』 阿部珠理  NHK放送出版協会 ¥850
『アメリカインディアンの歴史改定』冨田虎男  雄山閣    ¥1,900
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この回答へのお礼

とても詳しく説明していただき、ほんとにありがとうございました。実は私はミネソタ州の大学に留学中なのですが、今期ミネソタヒストリーという授業をとり、インディアンの事を勉強しています。それでWhat were the causes of the U.S/Dakota Conflict of 1862?(Dakotaというのはスー族のことらしいです) Why did the Dakota resist while the Ojibwe did not? Finally, was this conflict inevitable?という質問に答えながら作文をかかなきゃいけないのです!図書館にいって調べてみたりもしたのですがなかなかはかどらず、困り果てていました。今回説明していただいたおかげで、はっきりとしたアウトラインが見えてきました!なんとかがんばって課題の作文を書こうと思います!ところで、もうひとつ、European Americans established control over Minnesota through the far trade, treaty-making, and immigration, effectively dispossessing both the Dakota and the Ojibwe. Discuss these policies and strategies. Which of these policies and strategies was the most effective in establishing control over Native Minnsotans? Why was that strategy so effective?といったことに解答する作文もかかなきゃいけません・・・。こちらについても、お時間があるときに教えていただけませんでしょうか?

お礼日時:2002/02/02 12:26

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