幼稚園時代「何組」でしたか?

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに
なぜ日本は植民地にされなかったのですか?
日本の教育水準が高かったからですか?
それとも単に運がよかったからですか?

A 回答 (16件中1~10件)

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。


アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。
(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮)
これが砲台場、今の「お台場」です。
これにはペリーも驚いた。
あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで
「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。
こんな人他のアジアの国にはいなかった。

日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。

アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。
松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^

ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ
江川さんがいなかったら大変だったと思うよ
・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ
最後は大分大胆に物事運んだけど。
・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^
・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた
(ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。

兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。
最初、不平等条約だったのもしゃーない。
しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。
まぁ頑張りましたね、当時の日本^^
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欧米諸国が日本を開国させる少し前、インドではセポイの反乱、中国では太平天国の乱が起こっています。


この大反乱をみた欧米列強は、植民地の人々が武装蜂起した時の被害の大きさに驚いたのです。
つまり、植民地支配することのデメリットを知ったのです。
それで列強は、日本を開国させる頃になると、日本を植民地支配するのではなく、半植民地状態にして、経済的利益だけを吸収しようとしたのです。
これが日本が植民地にならなかった最大の理由です。
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この回答へのお礼

皆さん、回答ありがとうございました。
とても勉強になりました。

お礼日時:2006/07/01 21:31

「王様と私」のモデルであったカンボジアや、ハワイ王国もその時点で植民地化はされませんでした。


ハワイについてはその後米国の陰謀によりクーデターが起き、米国に編入されましたが、それまでは日本の皇室と姻戚関係を結んで独立を保とうと努力(日本側が断った)したなどの経緯がありました。

つまり南米・北米・アフリカ・アジアと手を伸ばして行く内に、列強の牽制などで暗黙のルールが生まれていき、日本に来た頃にはあまり無茶苦茶できなくなったと言う幸運が主な理由と思われます。
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薩摩っていう南蛮国にちゃんと侵略されてるじゃないですか。


薩摩から見ると、琉球王国の植民地化を手始めに、江戸幕府、アイヌ、朝鮮、中国、南アジアとドンドン植民地化に成功してます。
やたら突撃のイメージが多い戦争は、反薩摩の武人勢力を合法的に殺す目的もあったためと思われます。
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地理的な運の良さや、当時世界最強のイギリスに薩英戦争でジャブを食らわせて日本が一筋縄ではいかないと思い知らせたこと、当時の日本の独特の複雑な政治体制が列強をてこずらせた(列強と言えども力勝負だけで植民地を増やしていたのではなく、現地の為政者に巧みにプレッシャーをかけたり、現地の政治的対立を利用したりするのが一般的でした)ことなど、いろいろな要因があると思いますが、そういう点では、徳川幕府最後の将軍「徳川慶喜」の存在が、非常に大きいと思います。



この人は、あまり多くを語らなかったために、今でもよくわからないことが多く、それゆえ評価も分かれるところですが、若い頃より「権現様(家康)の再来」とその才を讃えられ、期待された人物です。ですがその才ゆえか、凡人の理解を越えた「奇人」の側面もあります。

植民地となる危険性がもっとも高かったのは、やはり幕府と薩長の政治的対立があった時期だと思いますが、これも慶喜が自ら政権を放り出したり(いわゆる大政奉還)、大阪に軍を残して江戸に帰ってしまい、余力を残して降伏してしまったりといった、政権末期にしても歴史上珍しい数々の奇行により、結果として国を真っ二つにする内戦には至らず、政権交代が思いのほかスムーズに行ったことが、独立を守るうえでは大きかったと思います。

それらが単なる偶然で起こったのか、慶喜の計算だったのか、今となってはわかりません。ただ、現在我々が想像しているよりも当時の幕府が外国の事情に通じていたことはわかってきていますし、幕府を近代的な政治体制に生まれ変わらせる計画もあったと聞きます。権力への野心がほとんどない彼の性格から言っても、慶喜が列強を意識して幕府を計画的にたたんだ可能性は十分にあると、私は思います。

同様に列強を意識してスムーズな政権交代を画策した坂本龍馬は、慶喜が大政奉還を決断したことを聞いて、「予、誓ってこの公のために一命を捨てん」と大いに感動したそうですが、明治に入っても新政府や天皇との関係は良好であったり、政権末期の将軍という貧乏クジを引きながら庶民にも「慶喜(ケイキ)さん」と呼ばれて愛されていたりと、歴史上稀有な、実に興味深い人です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
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あとひとつ追加するならば、人口密度の高さでしょう。


幕末当時、江戸は100万人の人口を抱える、世界有数の都市で、日本国の人口は世界的に見て稀有な密度を誇っていました。
それに加えて、中央集権的な国家体制をとっておらず、一有事あれば、各藩が対応しました。藩(幕府も)は元和偃武以降、戦をしていないとはいっても軍事政権ですし一揆など争いには常に対応できる体制をとっていましたから、欧米列強が侵攻しようとしても容易ではありませんでした。
そして、戦争とは常に白兵戦で勝敗が決するものですから、欧米が侵攻しようとするなら、どこかに上陸し補給を受けて陣営を構築してから戦わなくてはなりませんが、日本の人口が多いため日本人に見つからずに戦えるほどの陣地を築くのは非常にむずかしかったはずです。

その証拠に、幕末ではなく戦国時代にやってきた宣教師たちは、日本に協力者を作って進出しようとしましたが、秀吉・家康がそれを見破り禁教となってしまいました。
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色々な要素が複合された結果です。



また、日本に専業兵士である武士階級が多数いた事も、植民地にされる事が無かった理由の一つでもあります。
さらに、アメリカ、オランダ、イギリス、フランス、ロシアが、同時期に訪れ、どこかの国が植民地とする場合、他国全てを敵にまわってしまう可能性も有りました。
そういった危険性を冒してまで、軍を送り、植民地化するメリットが見られなかったからでしょう。
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黒船来航時の幕府の人間を見たら分かると思います。



一人は幕府代表で礼儀正しく対応。
もう一人はひたすら黒船を見聞。
アメリカ人も鬱陶しいくらい見回ったり質問したそうです。

江戸の身分制度ですが、
長男以外はある程度は自由に職業を選べたそうです。
つまるとこ、次男以下は格式に囚われない。
それに、子どもと大人の世界がある程度区別されていた。

そこが日本の若者に欧米の文化は刺激的で対応力が素早かった。
親の慣習に囚われなかったので飲み込むのに邪魔は無かった。
他国は身分制度と宗教関係で、
新たな文化を学ぶ姿勢が乏しかったのかもしれません。

教育水準ではなく、親の世代に対する反逆心を持たせる文化か否かだったと思います。
それが身分や職業や宗教に縛られなかった。
なので簡単に欧米の文化を吸収できた。

戦後の日本の復興も、戦前の大人の世代に対する反逆心が無ければ無理だったと思います。
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「民族自決」という観点。


「民族自決の原則とは、各民族はそれぞれの運命を自ら決定する権利を持ち、また自らの国家を建設できるという原則で、国際協調主義とともにヴェルサイユ体制を支える重要な原則となった。しかしヴェルサイユ体制ではヨーロッパにのみ適用され、その適用が最も必要であったアジア・アフリカには適用されなかった。 」

日本は民族自決ができていた。目だった内紛などないばかりか、国家統制体制であったので植民地化はされなかったと思う。また、アメリカ人から日本人をみると、得体の知れない行動や思想で気味悪がられたというところもなくはなさそうである‥。(明治大正昭和初期にあった欧米との交流や積極的な文化受容の経歴も。)

参考URL:http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/26-versa …
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日本という国の民度が高く、明治維新の時点でも、特に欧米列強と言えどもバカに出来ない軍事力を有していたのが最大の理由でしょう。



スエズ運河がなく、汽船がまだ未発達な19世紀中ごろに、相当な(潜在)武力を持つ日本を軍事的に制圧するだけの兵力を欧州から送るのはかなり困難でした。なお、この時代の艦船では太平洋を渡って遠征することは不可能で、東から日本への侵攻を心配する必要はありません。

欧米が日本に送れる兵力はせいぜい千人単位です。いくら武装が良いといっても、日本の数万、数十万の「日本軍」を圧倒するのは無理です。これは、支那事変での日本軍と中国軍の戦闘を想像すれば分かるでしょう。
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