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悪いことをしたら悪いことが、いいことをしたらいいことが
返ってくるのは本当でしょうか?
私の場合そっくりそのまま返ってきました。
それに対して、ものすごく悪いことをした人たちは今ものうのうと生きています。
この両者の違いは一体何によるものでしょうか?
私の考えではやはり罪の意識がある人間とない人間がいるせいだとおもいます。罪の意識があると、いつか爆発して不幸になります。
しかし、罪の意識すらないと不発弾のごとく死ぬまで爆発しないで生きられます。世の中そううまくはできていないから、復讐とか天誅という言葉があるのでしょうか?
因果応報。信じたいですが、やはりないのかもしれません。

A 回答 (13件中11~13件)

因果応酬とは違いますが、


悪い発想は
被害者の意識がさせているように思います。
悪行の根源は運命ではなく選択ミス。

加害者ほど被害者意識が強いのです。
被害者ほど自覚を持つ余裕がありません。



大自然も個体の生命も団体行動で移動していて
遺伝子には情報として
不利益なもの(悪)
無用なもの(無理無駄)
そんなものの方が多いのだそうですが、
同じ船に乗り合わしながら進んでます。

善悪で淘汰することはなく、
強弱の干渉だけで
悪と一緒に善もゆっくりだったり、
途中で休みながらだったりしながら
仲良く進んでいるだけ。

因果応酬など気にせず(善人でないので気にしない私)
乗り合わせ次第で
次の瞬間から運命も変わることがあるのだから
「因果応酬」の呪縛から離れつつありますね。

ましてや善人であるなら
「因果応酬」は求めて生きてこなかったと思います。
自愛より慈愛があってのことだから。
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「縁起を観るものは法(真理)を観る、法を観るものは縁起を観る」と経典にあるくらいで、これが判れば悟りを開いたくらいのものであって、縁起とか因果とかは、普通では理解不能のものなんです。




でも、私なり(私以外の多くの人も)の考えでは、因果応報というのは物理でいう「作用反作用の法則」のことなんです。
http://www.buturigaku.net/main01/Mechanics/Mecha …

私は、人にレクチャーできるほどエネルギーとか物理には詳しくないのですが、仏教は物理的に読み替えるととても判りいいと想います。
かなりの部分で仏教用語は、物理的な言葉に置き換えることができるからです。

しかし、だからといって、「ああ、これは因果応報(作用反作用の結果なんだ)と短絡的に考えるのも大変危険だと想います。「人間が考えてわかるレベルの話ではないから、考えるだけ無駄だ」という風に経典にも書かれていたと記憶しています。

でも「在るか、無いか」と言われれば、在ると想います。
しかし、その応用範囲は宇宙全体を取り巻くような膨大なレベルであって、時間的、空間的・・とか、難しい観念の話になると想うので、一番賢いのはやはり「考えないこと」だと想います。


で、さらにいうと、因果応報(作用反作用)だけが我々に作用しているのではなく、実際には、その瞬間、瞬間に我々の心が決定しているんです。
この世界は無常に移ろっています。(運動しているんです)
我々の「意思」というエネルギーが、常に、運動をしているんです。

ですから、因果の応報はあっても、それだけが人生ではなく、常に、瞬間、瞬間に、我々の心が創り出していると考えるのが健全だと想います。ですから悪人も心を入れ替えれば、善い結果を受けることだっていくらでもあるし、善人が苦しむことだっていくらでもあるんです。

心は見えないですが、その見えない力が、この世でもっとも力を持っているエネルギーなんです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
反省せず自分が楽になりたいがために謝ってくる悪人は
良い結果などいらないと思います。因果応報がある、二人目ですね。
私を入れると三人目です。

お礼日時:2006/07/16 20:51

論理的には、無い方が不思議ですし、その「>ものすごく悪いことをした人たち」は必ず悪い目に遭っているか、これから遭うに決まっています。



ただ、これは復讐とか天誅ということではありません。
つまり、
「悪いことをしたから悪いことが返ってくる」のではありません。
「自分自身に対して(それと気付かず)悪い結果を招くような言動しかできないような未熟な人間が、他人に対しても同様に悪いことを仕出かす。」
ということです。
なぜかと言えば簡単なことで、彼らにはその時点でそれだけの能力しかないからです。
「>のうのうと生きています。」と感じるのは、あなたの勘違いです。
【上辺】はどうあれ、そのような人間が自分の本心に対して、心から満ち足りた人生を送れるはずがないではありませんか。
「そのような能力が彼らには無い」のです。

いつか気付く時が来るでしょうが、それは大きな痛みを伴わざるを得ません。
それをどのように受け止めるかでその人間の真価が問われることになるでしょう。
形はどうあれ、早い時期での気付きが重要であるのはこのためです。

因果応報。
ありますよ、確実に、誰に対しても。
しかし、それは何かの不思議な力によってではありません。
人生において自らが何に気付き、何を重視し、何を獲得していくか、というその「生きざま」の結果として現われる現実にすぎません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
いじめをした彼らに現実を受け止める力はないと思います。彼らの中の一人は薬を
飲んで精神を落ち着かせていると聞きました。他の人たちも時間の
問題でしょうね。受け止められるはずがないんです。
いつだったかえらそうな声で、悪かったな、と一言だけ言って切れた
電話がうちにかかってきました。聞き覚えのある声でした。
彼はあれで終わったとでも思っているのか知りませんが、決して楽にはなれないでしょうね。

お礼日時:2006/07/16 20:25

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