この人頭いいなと思ったエピソード

中学や高校の歴史の教科書によると中国が魏・呉・蜀の三国に分かれていた頃、邪馬台国の卑弥呼が魏王朝に朝貢したと書いてある筈ですが。

日本がわざわざ中国に使節をよこしたのは弥生時代以降もよくあったことのようですが、では逆に三国時代に限って当時の中国が日本に使節を派遣したことはあったのでしょうか?どなたか教えてください。

A 回答 (5件)

>三国時代に限って当時の中国が日本に使節を派遣したことはあったのでしょうか



呉や蜀からは使節は来ていない(少なくとも記録や形跡すらない)ようです。
漢書、後漢書などの記述を信じるとすれば、三国以前も倭国から使者が来たりしているようですが(ただし都まで来たのではなく、燕を通じて貢献したという)、三国の時代の邪馬壹国(注。三国志のすべての刊本で臺(台)ではなく壹(一、壱など)です。台とかくのは後漢書以降で、三国志のこれは書き誤りだと言う説があるだけで、事実は壹と書いたものしか残っていないのでちょっと問題かと)が、魏に遣使をした時期が問題です。魏の明帝の時代、遼東の公孫氏が魏に対し反乱していた時期なんです。つまり、それまで中国との行き来はどうやら燕、つまり公孫氏を通じて行っていたらしいのが、この時点で中国情勢を見て「反公孫・親魏倭王」としての立場を鮮明にしたということです。倭国としては対中国関係というのは当時は朝鮮半島情勢とからんでのみ考えられていたようで、この点からも魏と結ぶのが必然だったようです。
この時点で呉や蜀と結ぶ可能性は無くなったわけです。
では呉や蜀からの接触は無かったのか?まあ蜀は地理的にあり得そうもないのですが、呉については一応選択肢であったでしょう。この場合、
1)「呉と結ぶ=公孫氏と結ぶ」でないといけません。倭国が直接利害を持っているのはあくまで朝鮮半島なので、呉とだけ結んでも意味がないわけです。
2)国内情勢。狗奴国は「女王に属せず」とされています。女王国の南にあった敵対勢力、という位置づけですね。ここが(特に九州説の場合)呉と結んでいた可能性があります。呉と蜀は三国志が著された時点で戦争によって滅んだ国であり、これらの勢力が他のどういう国外勢力と結んでいたかははっきりとはわかりません。(いくつか書いてありますが)一方魏から晋へは「禅譲」なので宮廷の資料は引き継がれた筈です。ですから呉の動向、とりわけたとえば狗奴国あたりと通行があったかも、ということについては「不明」です。
3)この対狗奴国のこともあってか、魏は戦争指導に使節を派遣してきています。

などの状況を考えると少なくとも呉との友好的なやり取りはなかったように思われます。また、利害を考えた時、特に1)の問題から呉と結ぶ可能性としては、「公孫氏が勝つ可能性が高い」「呉が近いうちに魏の勢力を大きく減らす可能性が高い」という読みをしていないといけません。当時の邪馬壹国はあえてそれまでの直接の交通相手であった公孫氏を見限って魏についたと考えられます。(戦中に遣使している)だから、かなり貧弱な貢ぎ物に対して豪華な答礼がなされているわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
なかなか興味のわく話でした。そう言えば、晋の代になってからも卑弥呼の妹(壱与)が朝貢したという記録もあるようですし。

お礼日時:2006/08/03 19:34

>当時魏だけでなく呉や蜀も何らかの使節を実際に邪馬台国に派遣したのかどうか



という点については、状況証拠からいろいろな推論を述べることは可能ですが、実際のところは史料がないのでわからないとしか言いようがないですね。

ただ、使節を送るのは邪馬台国側の思惑とは関係なく送り手側(まあ魏でなければ呉でしょうね)の勝手ですから、派遣が一度もなかったとは言い切れないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/08/03 19:36

日本が朝鮮半島の争いに介入した飛鳥時代の頃のように大規模な水軍を組織する力があったなら、敵国に攻め込ませて後方かく乱したり、援軍を出させてともに戦う選択肢もあったかも知れませんが、


当時の日本には、海の向こうに外征したり援軍を送るような力はまだありませんでしたので、魏・呉・蜀側から見れば日本に施設を派遣するメリットはほとんどありません。

そもそも魏が日本の朝貢を受け入れたのも、贈られてきた貢物が100人単位の奴隷などそこそこ豪華だったので、とりあえずくれるなら貰っておこうか程度の考えしかなかったと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
魏と日本(邪馬台国)の付き合いは形式的なものだったんでしょうか。

お礼日時:2006/08/03 19:30

> 当時魏だけでなく呉や蜀も何らかの使節を実際に邪馬台国に派遣したのかどうか



呉志や蜀志の中に記述が出ていないことと地理的条件を考えると、呉や蜀が朝貢を受けた可能性は低いですね。呉はまだ可能性がありますが、蜀は内陸部ですからまず無いと思いますよ。
邪馬台国としては、わざわざ2つの王朝で“二股”をかけるリスクを冒す理由はありませんし、当時の航海技術が東シナ海を突っ切っていけるほど発達していたとも思えませんので、恐らく魏に対してのみ朝貢を行っていたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
実際に朝貢を受けた魏を除くと残りの呉、蜀としては地理的条件や中国の情勢から考えにくいということなんですね。

お礼日時:2006/08/03 19:21

邪馬台国の存在が明記されている「魏志倭人伝」およびその関連書をお読みください。

この回答への補足

魏志倭人伝は教科書に載っていたので邪馬台国の人々の生活や地理は簡単なことなら大体分かっています(親魏倭王の印綬も含めて)。

私としては、当時魏だけでなく呉や蜀も何らかの使節を実際に邪馬台国に派遣したのかどうか教えていただけるとありがたいのですが。

補足日時:2006/08/03 00:20
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/08/03 19:22

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