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私は戦国武将の中で前田利家に興味があります。
もし、利家があと5年長く生きていたら、
徳川家康はあれほど自由に、思いのままに天下人になれなかったのではないかと
思っています。前田家が豊臣家を支え徳川幕府はなかったのでは、とも思っています。皆さんはどう思いますか。

A 回答 (7件)

前田利家があと5年生きていたら、というよりも


もし利家が家康よりも長生きしたら、という条件でないと
歴史は変わらないでしょうね。
(だから6~7年長生きが必要かな)
前田利家は豊臣家を支えていたというよりも、
秀吉・秀長以外では、
豊臣家臣団の唯一のまとめ役という感じでしょう。
徳川家康があれほど簡単に天下取りができたのは、
豊臣家臣団が自ら分裂したからです。
その最後の歯止めとなっていたのが利家。

家康と利家を比べれば、実績・才能という点では
まったく話にならないくらい差がありますが、
豊臣家を団結して家康に立ち向かわせる影響力が利家にはあった。
家康はそういうのを機微に感じてその死を静かに待ったわけで、
利家の死後はもう傍若無人に振舞いだしますよね。

武断派の面々は個人的な確執で動き出す始末で、
家康はしゃあしゃあと彼らの押さえ役を買って出て服従させてしまう。
文治派は反乱を企てて、関ヶ原となるわけですが、
この時点で本末逆転、徳川の天下取りという真意が全く見えなくなって
豊臣家同士の内紛で、家康は漁夫の利。

利家が生きていたらここまで簡単には事は運ばなかったでしょうし、
武断派があれほど馬鹿揃いでなければ・・ということもありますが、
二代目の徳川秀忠が無能だっただけに、
乱世がまだまだ続いたかもしれませんね。
しかしそれは日本にとってはいいことか?悪いことか?というのはまた別の問題でしょうが。
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 5年じゃあ足りないと思います。

5年完全に元気ならば、病床で家康暗殺を企んだほどの覇気があるなら、必ずや豊臣を率いて家康殲滅戦を企図したことでしょう。しかし佐竹、里見がいるものの関東のほとんどを手中に収めた精強な徳川軍を殲滅するのなら、5年では足りないと思います。特に東北の伊達、最上がどう動くかわかったものではありません。その途中で利家死亡となったら、また情勢は混沌とし、戦乱の世に逆戻りだと思います。
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まず、歴史的人物の評価において、注意しなければならない人というのが存在します。

「大河ドラマの主役」「ゲームの主役」「マンガの主役」「小説の主役」です。つまりメディア関係で主役を張った人です。

利家は、実際のところ経歴を洗ってみれば、その個人的才能は家康の足元にも及びません。実際に、織田~豊臣という家臣団にいなければ、戦に破れて死んでいても不思議ではないでしょう。つまり家康とはおよそ格が違います(余談ですが山内も要注意ですね。あれもあの大河ドラマをみると過大評価がひどい)。まあ、息子はその父親よりもさらに小さかったのですが。

ただ、豊臣家臣団では家康の次ですから、それなりの発言力はありますし、ある程度の人望もありました。少なくとも光成よりは人望がありましたから、ある程度まとまりは保てたでしょう。
しかし・・・家康の専横をとめられるだけの器量があったかと言えば、難しいでしょう。諸大名も、利家に家康ほどの期待を掛けていたとは思えません。
もし、利家がもう少し器量がよければ、これは家康との「どっちがさきにくたばるか?」というチキンレースに発展した可能性はあります。
しかし、実際の利家の器量では、光成の二の舞かもしれません。残念ながら、豊臣政権下のいわゆる「武闘派」と「出頭人」の軋轢はいかんともしがたく、崩壊を遅らせることはできたでしょうが、崩壊しないようにはできなかったと思われます。
これは、豊臣政権自体の「根本的欠陥」です。もともと織豊という2つの政権は、十分な政治基盤を保有しておらず、どちらかというと君主独裁に近いため、その君主に「悪い情報」すらも伝える出頭人は、諸大名から非常に嫌われる存在でもありました。で、それが光成。また、こういう政治機構だと、君主が才能も力も無いとなると、いとも簡単に崩壊します。これは「独裁政治」最大の弱点です。いわばカリスマが不可欠なのですね、独裁には。当たり前ですが子供にカリスマもなにもあったものではありません。で、カリスマが倒れると、「次のカリスマ」に期待は移ります。これは家康以外ありえません。残念ながら利家はトップに立てる器量は無いです。
なお、秀頼の評価は、後の資料を見れば決して低くないですが、若すぎますね。あと20年早く生まれていれば、もうすこし違ったかもしれません。
ちなみに、これがちゃんとした政治基盤を確立したのが徳川政権で家光のころ。つまり、秀忠もそんな馬鹿ではないのですよ・・・父とくらべれば見劣りしますが、2代目としてはまあ堅実でしょう。

もし、利家が長生きしていたら、彼の評価も変わったかもしれません。ただし、おそらくですが、悪いほうに、だとおもいますけど。
正直、家康が天下を取るのはある種当然の流れであり、ほかの道はなかなか難しいと思います。
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前田利家は人物としては一級品だと思うのですが、さりとて徳川家康を相手に天下を取ることができたでしょうか。

小さい頃から人質となって人に頭を下げ、信長の死後は秀吉の下でずっと耐え忍んできた家康と、自分の道をまっしぐらに進んできた利家とでは人間のずるさが違うと思います。
それに利家は天下を取る気は無かったと思います。きっと石田三成らを押さえて5年間をかけてゆっくりと徳川の天下へと移行していったと思います。関ヶ原の合戦が無く徳川の天下になったかも。
もし誰かが長生きして豊臣の天下にするとなると、その立て役者はきっと秀吉の弟、秀長しかいないと思います。彼の死後豊臣の天下は徐々に傾いていったわけですから。
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若い頃は、バサラを気取っていたけれど、並外れた野心が無いだけで、家庭人としても、施政家としても、ひとりの人間としても、武将としてもパーフェクトだと、思います。


彼の築いた街、彼の育てた産業、そして、お松をして、子どもに「あなたは、父の足元にも及ばないのだから、身の程をわきまえ、行動しなさい」と言わしめた、人間的な魅力。
幾度かの試練、主君、友との決別。
ナンバー2をわきまえた行動。
5年家康を見張れたら・・・。
でも、自身が、家康に劣ることを察知していたはずです。
利家公は、親友の遺児を守ることより、前田家を優先したと思います。
私たちの知っている歴史がシナリオ通りであったと思います。
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家康殿は律儀者


利家殿は律儀者
これは、秀吉存命時代に言われたこと。
信長に拾われて、織田家に大恩がある秀吉が、結局織田家をないがしろにして、天下人になったのを、家康も利家も同時代人としてみています。
感覚としては「天下は持ち回り」
個人の力量で天下が安定するという時代ですから、子供の秀頼に実質的な求心力があるわけない。織田三法師と同等の位置づけだったと見るべきです。

という時代認識と、利家がもっと存命したということを仮定すると
あ)文治派・武断派が分裂せずともに、秀頼・利家の二重権威・権力が確立する。ならば、鎌倉幕府における二重構造 宮将軍の豊臣家と 執権の前田家が成立し、なんらかの段階で、徳川殲滅戦が行われる。この戦いに勝った方が天下を握る。前田家優位でしょう。無論秀頼で勝つことはないので、秀頼は権威として飾り物になります。
い)文治派・武断派が分裂すると、睨み合いで、どっちが長生きするかどうかの戦いになる。だいたい、あの時代の武将は一か八かの戦いはしません。勝てると踏んでから戦います。(その判断が間違っていて、後世の史家から、無茶な戦いをしたものだと、言われる場合がありますが)家康も利家も歴戦の武将なので、戦いの機微を知るものとして、睨み合いが続くでしょう。
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あまり詳しくは無いので違っていたらすみません。

私も戦国時代に興味があるので一言。
前田利家は人望があり、織田家家臣の時代から秀吉との関係も深いので、生きていたら徳川家康でもなかなか手出しは出来なかったと思います。
でも内部では豊臣家崩壊は始まっていたと思います。やはり淀殿は織田信長の姪、浅井長政の娘という威厳を撒き散らし、自分より目下格になる前田利家にもややこしい事を言ったのではないでしょうか。そして利家の奥方はねねと親しく、そのねねは淀殿が嫌いでしょうから。
あと5年では確実に崩壊していたと思います、もう少し長生きしていればどうでしょう、上記の理由から豊臣家を支える気持ちは徐々に弱くなると予測されますので。
後は豊臣秀頼の出来次第という所ではないでしょうか。
豊臣家存続のキーマンは秀吉の弟、豊臣秀長だったと思います。
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