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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E3%81%A6% …
の112?はどういう意味なのでしょうか。この預言は偽書なのでしょうか。

A 回答 (4件)

マラキの預言ということで素直にとればいいんじゃないかと思いますよ。


ようは、7つの丘、(7つの国)10の角(10人の王)が滅ぶと黙示録にありますから、ヨーロッパの国々と考えれば、そのひとつであるローマも111番目の教皇で終わるということでしょう。それだけのことですね。112目は振り出しに戻ってペテロだといってるのでしょう。滅ぶときは滅ぶということだけですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/14 18:35

No.2です。




>Wikipediaには、「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」とかいてありますが。



★聖マラキ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%9E% …

【いわゆる聖マラキの予言で知られるが、本人との関連を裏付ける史料は見つかっていない。】


★聖マラキの予言→全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言
(聖マラキの予言 から転送)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%9E% …

【聖マラキによって執筆されたと称する歴代ローマ教皇に関する予言または預言である。一般には単に「聖マラキの予言」「教皇(について)の予言」などと呼ばれる。また、偽作説の立場からは「偽マラキの予言」と呼ばれることもある。本記事名は1595年に初めて公刊された時の名称を採用しているが、後述のように本来のタイトルはもっと長かったとする説もある。同じく後述するが、16世紀の偽書と見なすのが一般的である。】



★予言
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E8%A8%80

【読んで字の如く、ある物事について、その実現に先立ち「あらかじめ言う」ことである。一般的には、その中でも「合理的には知ることのできない」未来を語ることを指す場合が多い。

預言と予言を同一視することは適切ではない(予言と預言については預言者#語源等も参照こと)。】
    ↓

★預言者
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E8%A8%80% …

預言者(よげんしゃ)とは、神と直接接触・交流・対話し、直に聞いた(とされる)神の言葉を人々に伝え広める者のこと。

★預言者の語源
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E8%A8%80% …

【旧約聖書で預言者に対応する最も一般的なヘブライ語はナービー (nabi) である。この語源には様々な説が提示されているが、有力なのはアッカド語起源で「与えられた者」もしくは「語る者」を意味したという説である。
古典ギリシャ語では、プロフェーテース (προφητηs, Prophetes) の語があてられた。本来これは「代わりに語る者」の意味であり、この場合は「神の代弁者」の意味を持つ[2]。なお、接頭辞προ- には「代わりに」のほかに「前に」の意味もあることから、「前もって語る人」を語源的意味とする論者もいるが、その場合でも聖書の文脈では「神の代弁者」の意味で用いられていたと断っている[3]。

とはいえ、聖書の預言には、未来を対象とするものも少なくなからずあるため、「前もって語る人」の側面を含むのも事実である。結果として、この語から派生した英語の"Prophet"やフランス語の"Prophète"は、「神の代弁者」と「(聖書と結びついているかに関わらず)未来を語る者」の二通りの意味を持っている(ただし、「未来を語る者」については、英語では"Foreteller"なども、フランス語では"Prédiseur" などもそれぞれ用いられる)。】


★訳語の問題

【現在の日本語でProphetに対応しているのが、「預言者」である。これは漢訳聖書の訳語に由来する。清代には、西洋の宣教師らによって複数の漢訳聖書が作られた。18世紀書初頭のジャン・バセ訳(『四史攸編』)や1813年のロバート・モリソン訳(『新遺詔書』)では「先見」の訳があてられたが、19世紀半ばには「預言者」の語をあてるものもあったようであり、1860年代初めに日本人向けに作成されたヘボン訳『新約聖書』(四福音書のみ)では後者に基づいて「預言者」が採用された。

ただし、本来の「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字とされ、中国では「預(あらかじ)め語る者」の意味でしかなかった。しかし、現在の日本では、「預」には「預かる」という、本来の用法にはなかった意味が付与されていることから、神の言葉を「預かる」者が「預言者」、未来や人の運勢などを予め語る者を「予言者」と区別することが一般的となっている。

「預」という字の本来の用法からすれば誤用であることから、これを問題視する見解もあるが[5]、他方で上記のような誤用の経緯をきちんと踏まえた上で、「神の代弁者」と「未来を語る者」とを区別する便宜的な訳し分けとして存続してもよいとする専門家もいる[6]。

現在のウィキペディア日本語版では、「預言」と「予言」の区別は上記の通り本来誤用であることを認識しつつも、辞書類などでも採用されている広く人口に膾炙した区別であることや、上記の通り専門家の中にも是認する者がいることから、「預言者」を「神の代弁者」、「予言者」を「未来を語る人」の意味に用いている。】


ご参考になれば。


マラキの予言に関しては、詐欺と同レベルだと思えます。
芸能人が占いをやってもらって、よくよく聞けば全くあたっていないのに、芸能人の脳の中で関連ずけて、「そういえばこんなことがありましたが、それはこうなる予兆だったのですね」と大泣きして、ショーをしますよね。
占い師は芸能人のこの無理やり関連づけた<当たっている>に助けられ、ショーが成立し、芸能人も「当たっていない 的外れ」とテレビの前で言えば、もうその関連の仕事はもらえないので、 必死になってこじつけて 当たったとし、かつもっと仕事が欲しいので、大泣きしてショーを盛り上げるわけです。

娯楽です ショー。
視聴者はその誘導により、本当は当たっていないのに、よく当たる占い師だと錯覚して本まで買って、自分に起こる未来を知ろうとする。
よく冷静に考えれば全く当たっていないとわかるのに、誘導されたため本まで買って詐欺師に金を与えているわけです。
マラキの予言もノストラダムスの予言騒ぎと同レベルの低俗な内容。

人は娯楽も必要ですが、信仰があるという人が、神を酒のツマミとして騒ぐのはやりすぎ。
信仰心があるという人が、快楽の道具として神という概念を利用するのははやりすぎ。
信仰心があるという人が、そこまで自分が信じる神を愚弄するのは、もはや信仰心のかけらも本当は無いと冷静に見れば思えます。
つまり嘘をついて人を騙している詐欺師となります。
騙しきれていると思っているのは、本人だけ。
とうにバレているが、気づいていないふりをしてからかわれることになるので気をつけたほうがいいです。
信仰心のかけらも無いのが露呈しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/14 15:38

預言と予言は違います。



予言は、今回あなたがさしているもの。

ノストラダムスの予言 とはいいますが、ノストラダムスの預言とは言いませんよね。

予言は未来にたいして「こうなるだろう」と予測すること。
「明日雨が降る」などが予言。
正確には予報ですが・・・・


対して預言とは、神から直接言葉を授かることが預言なんです。

それはただの予報ではなく、人間社会にとって人間では考えられないようなすごくいい事 でなくてはならないわけです。

明日 電車が遅れるだろう 程度では、預言とはいえません。
教皇の名前がこうなる 程度では預言でもなんでもない。
教皇が誰だろうと、関係ない。


しかもですよ。
マラキって人が予言した?
そんな事実はどこにもないようですよ。

ノストラダムスの予言と同じレベル。
あれは誤植が原因でした。
風景の詩を書いたのに、誤植のため「これは何か隠された意味がありそうだ。 未来への警告を詩に書いたんだ」などになってしまった。
誤解でしたが、出版社は売れればいいので、仕事上のミスでした とは言わない。
初版にはそんな単語にはなっていなかった。
増版するたび生まれる誤植により、うはうは出版社はもうかったわけです。

それに小躍りして、その関連の書物を書いた人がまたまたうはうはもうかった。
家何件たてたんでしょうね。


実にふざけた悪い仕事です。
しかし、それに小躍りしてワーワー騒いで、地球が滅亡するから宗教に入ってお祈りしましょう 全財産 教会に寄付して生き延びよう などパニックになった人は悲惨です。

なにも起こらなかった。
だって 予言が外れたんでもなんでもなく、それは予言でもなんでもなかったのだから。
誤植だったのだから。
金の亡者が曲解した解釈を、もっともらしく話して、金儲けしていただけだから。


何の役にもたってない。
ばかりか破産 自殺したひとまで出た。
馬鹿騒ぎした人のせいで、未来を悲観して自殺者まで出たそうです。


マラキの予言騒動は、そのレベルと一緒です。
教皇の名前が誰だろうと それが一体どうしたというのでしょう。
たとえ、関連づけて 予言が当たったとして、それが一体社会にとって 人間にとって どんな重要な役にたってこの世を救ったというのでしょうか。

神父には独身を拷問によって強制させ、自分は信者の納めた金で贅沢三昧、複数の愛人囲っているような教皇の名前がたとえマラキの予言に書かれている単語に関連づけられ、予知が当たったとしたところで、それが一体 どんなすばらしいことだといえるのでしょうか。
馬鹿教皇たちの名一覧?
神はそういう人は教皇に選ぶとこの世が悲惨になるぞとマラキを通して世の人々の警告をしたのでしょうか。
だとしたら預言になります。
歴史でもキリスト教が拡大するほど血が流れましたから。
神の警告の言葉がマラキを通して伝えられたとしたとしても、選ぶなという警告だったことになります。
にもかかわらず無視された預言として有名になるべきだった。

ところが実際は、ノストラダムスの予言と同列に扱われている。
人々は、娯楽として言葉遊びを楽しんだだけ。
何故なら預言ではないとはっきりわかっているからです。
預言の類とは全く違うしろものだと知っているからですよね。




もう一度 予言と預言の違いについて考えてみてはどうでしょう?

この回答への補足

Wikipediaには、「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」とかいてありますが。

補足日時:2007/02/14 10:57
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/14 10:51

解説にあるとおり本物と信じる人もいれば偽物とする人もいるし、解釈は人それぞれです。


原文でも研究しない限り、wikipediaの文章に意見が影響されるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2007/02/14 00:08

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