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ヨーロッパ進出は近代、すさまじいものでありました。それまでにあったアジアは大きな存在だったにも関わらず、衰退し世界はヨーロッパ先導の元一体化していきました。何故、アジアは地球規模での世界の一体化をなしえなかったのでしょうか。具体的な事例を示して教えてください。

A 回答 (9件)

こんにちは。

 

結論から言えば、ヨーロッパはルネッサンスによる人間復古とルターの宗教改革のよって個人の尊厳が確立した。 しかし、アジアにおいては、21世紀になっても、『個人の尊厳』なんて絵に描いた餅に過ぎない。 まだ確立したとはいえない。 一般大衆は、依然として封建主義体制におかれたままである。

人間、個々人の尊厳が守られてもいない社会が進歩発展はしない。 だから、日本の明治維新後現在に至るまで、外側はもっともらしいが、まったく中味が伴わっていない。 外側は超近代国家らしく見えるが、一旦中に入ってみると、日本人を初めとしてアジア人の心は、紀元前の原始人のままである。 
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人口が多かったから。


占領する時に非情に困難なのは都市の人口です。
古代の戦争は「破壊」ではなく「占拠」が目的でしたから。
人口が多いほど占領にかかる経費が莫大になります。

モンゴル帝国はそれを解消するために占領地民を最前線に送って
自軍の損失を抑えると共に、占領地民の数を減らしています。

欧州もこれを踏襲し、アレンジしています。
相手国の権力者のいがみあう勢力に武器を売りつけ内乱を起こさせる。
ここで自分の手を汚すことなく相手の人口を減らす。
激化させて借金させて経済を抑えて政治介入をする。
国の生命線を握っているのですから実質支配です。
宗教を用いてさらに相手文化を徹底的に破壊し、自国の宗教に染め上げる。
国という統一と、宗教による統一とを並行させてましたからね。

このあたりじゃないでしょうか。
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 今までの回答者の方が明確に指摘していない点



 産業革命がヨーロッパで始まるまでは、アジアはヨーロッパよりも豊かで文化レベルが高い地域だったからです。

 米という作物は、元々同じところで毎年栽培しても収穫量が落ちることが少ない作物です。(川の上流からの水を常に引き込むことで、地中のミネラル分の減少が補われます。)

 それに対して、とうもろこし・ジャガイモ・麦などは同じところで毎年収穫すると、極端に収穫量が落ちます。(現代では、科学肥料・農薬でそれを可能にしていますが、本来は同じ場所で栽培するのは普通3年後です。)
 ですから、水の豊富なアジアの平野は、同じ耕地面積で三倍以上の人間を養うことができるのです。(麦・とうもろこし・ジャガイモを主食にすると、豆で補ってもたんぱく質が不足し、畜産が必要となり更に農業のための土地を必要とします。しかし、米の場合は豆と組み合わせると、たんぱく質の不足は相当小さくなります。)

 ですから、産業革命か起こるまで、アジアは豊富な人的資源によって大きな生産力を持っていました。つまり人間が多く失業者を出さないためにも、人力の代わりに動力を使うという発想が起こらなかったのです。

 今から30年前、インドのコルカタでは地下鉄を作っていましたが、地上から地下30メートル幅30メートルの大きな溝を、人力のみで掘っていました。当時肉体労働者の日当は200円、大型機械一台分の費用で数百人雇えるので、失業対策の意味もあって手掘りで工事を行っていました。

 人の多い豊かな社会に育った人々が、人の少ない=貧しい=文化レベルの低い(貧しい所に高い文化は生まれません。)土地に、魅力を感じないのは当然と言えます。
 そんな土地を自分のものにし、野蛮人を支配するために、文明人の血を流す戦いを起こすのは、占有欲だけの野蛮な行為と考えられたことでしょう。

 世界史を見ても、大規模な世界の統一に値する征服は、豊かな地域の周辺の貧しい人々が、軍事力を拡大して、豊かな地域を侵略する形で起きています。
 そのような世界の一体化、(その時代の人々の意識する土地全体を一つにしてしまうほどの急激な国家の建設)ということであれば、
1.アレキサンダー大王の東征
2.モンゴル帝国
 の二つが上げられます。

 ヨーロッパ近代の帝国主義によ世界の植民地化は複数の国によって、300年ほどの期間を掛けてなされていて、この二大征服ほどの短時間では行われていません。(その分、歴史への影響は深いとは思いますが。)

 覇権を競っていた相手を攻め滅ぼす戦いを終了した後の、最盛期の中国の統一王朝やローマ帝国など、圧倒的な豊かさと文化を誇る超大国は、豊かな土地の富を狙って進入してくる野蛮人が軍事的に強大化しないように国境沿いでの軍事行動は取るものの、大規模な領土拡張を目的とした軍事侵攻作戦は、一般に行いませんでした。(ごく少数の例外とされる皇帝はいますが。)
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ヨーロッパが特殊なの

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私は儒教のせいだと思っています。


西洋の海外への渡航は国家の主導ではなく、民間の経済的な動機が大きかったと思います。
ところが中国は国家の基本方針が儒教の影響を大きく受けており、儒教は商業を軽視というよりは蔑視していました。そのため商業活動も制限を受けていました。そのため海外への進出が出遅れてしまったのではないかと思います。
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支配者の恣意性と、個人の独立性の有無。



レパントの戦いに於いて、オスマン軍の提督が持っていて、欧州側の提督が持っていなかったモノがあるそうだ。それは、全財産。オスマン軍の提督は首になったときに、皇帝によって恣意的に全財産没収の危険があるので、常に全財産を持って歩く必要があった。欧州側にはその理由がなかった。

欧州側の世界貿易は国王の勅許の形を取っていたが、東印度会社のシステムに見るように、民間の資金で、継続的な投資ができる形になってきた。

単純に航海術であれば、明の鄭和の大航海の方が先行しており、より大規模であった。ただ、これも永楽帝という皇帝個人の恣意的な意欲に基づくモノであり、継続されなかった。
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まあ歴史の大きい謎ですね。

インドやイスラムは疎いので中国に関してだけの推測です。

・15世紀辺りまで中国における工業的技術水準が西洋を凌駕していたとは聞きます。火薬も羅針盤も中国の発明とされます。モンゴル帝国によって東西の文化がくっついたと言うのは杉山正明先生ですね。モンゴルなり中東なりを経て西洋に伝わった文化がその後に生きたという点は評価されてよいかと思います。

・15世紀初頭の明代鄭和の艦隊は、西洋の大航海時代の開拓者の艦隊よりも大規模で、技術的にも優れたものだったといわれます。スペインやポルトガルのように商業地盤を作らずに帰っていったのは、東アジアの外交が、威勢を第一にして商業的利益を重視してはいなかったのでしょうかね。スペインやポルトガルは経済的にそれほど強力ではない状態なのに征服活動に成功しています。朱子学は排外主義・商人蔑視という意味では弊害があったようには感じます。明代では西洋の文化が手に入っていても尊ばれなかった記述を見かけます。

・中国の中央集権的君主体制下よりも、ヨーロッパの地方分権的封建体制の下で資本主義の萌芽が発達できたと捉えられます。明代中国もジャンク商人(倭寇は日本人の事ではなく商業活動を行っていた集団)を弾圧せず利用していれば富を蓄積できたようにも思えますが。

・中国の人口は13億、ヨーロッパは6億人です。中国がくっついているだけでもすごい一体化です。ローマ帝国崩壊後、中世西ヨーロッパはくっつこうと思ってもくっつけませんでしたし、近代くっつこうとしたのはえらい戦争になってます。

・1500年辺りにはもうヨーロッパとアジアの所得格差が生まれてきているようです(Maddisonの資料による)。産業革命によって経済が離陸すると、これは短期間では越えられない壁になりました。高度に武装した近代国民国家の徴兵制の軍隊に対して、旧来の軍隊は到底かないません。

・清代の中国では人口爆発によって所得水準の向上が妨げられています。この面では日本は人口抑制に成功したことが近代化を早く成し遂げられた一因かと。

・アメリカやドイツでは19世紀に技術導入や幼稚産業保護に成功していますが、植民地ではこれは無理だったのでしょう。ちなみにイギリスでも17世紀にはオランダから技術導入を行っていたようです。
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船舶や宣教の技術の違い、かな?

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島嶼国家が乱立しているからでしょう。


陸続きであれば、一度事有らば「明日は我が身」の実感がありますが、島嶼国家ではまさに「対岸の火事」。
陸続きの国家も山脈で隔てられているが故に、一体感は薄く、一体可能な国家は大国に飲み込まれた。

そう言う「地理的な要素」が欧亜を隔てたのではないでしょうかね。
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