No.1
- 回答日時:
吉良氏は1度行かれていますね。
下記を参照ください。
旗本とは自分の領地に入ることがほとんどない領主で、領地の支配は家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。そして自身はひたすら江戸幕府の役職に集中する。中には生涯一度も自分の領地に入ったことがないという旗本も少なくない。若い頃から高家の仕事に忙しかった吉良義央も同様で領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは生涯に一度だけであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF% …
吉良少将は一度は立ち寄っていたのですね。
一度も赴いたことのない旗本の方が多かったのかもしれませんね。
ありがとうございました!
No.2
- 回答日時:
吉良町が発行した「義周公没後300年記念シンポジウム 吉良上野介
義央と義周 資料集」によりますと、義央が家督相続した約10年後
の延宝5年に「京への上使の帰途、初めて領地に入る」とあります。
義央が高家の役務として京都や伊勢に赴いたのはこの時までに10回
程度行われているのに、東海道なら吉良は通り道のようなものなのに、
普段はちょいと立ち寄ることすら、しなかったということですね。
ちなみに、このお国入りも「岡山へ御立寄」とあり、領地を視察する
というようなものではなく、文字通り岡山陣屋や菩提寺などに立ち寄
った程度のようですね。当時の三河の吉良領はおおまかに言うと、今
の西尾市に隣接する吉良町北部と幡豆町に隣接する吉良町東部一帯に
分かれており、双方に陣屋があるのですが、岡山陣屋は北部側で菩提
寺もあります。ただ、領地としては東部一帯の方が広いので、視察と
なるとこちらの姫山陣屋側も外せないはずですし‥
吉良少将はお役目の帰途に初めて領地に入ったのですね。
高家はお役目で上方に上がることも多かったでしょうに、普段はほとんど立ち寄ることもなかったのですね。
それも領内視察ということではなく、菩提寺に参拝が目的だったようなのですね。
寄る機会は多かったのにあまり自分の領地に興味を示さなかったというのは面白いです。
ありがとうございました!
No.3
- 回答日時:
なかなか面白い話題ですね。
旗本にもいろいろあるんですね。知行寄合いというのは20家くらい
あり、領地にも行っていたということを知りました。
吉良家はどうだったんでしょうか?質問に質問で失礼。
http://www.geocities.jp/edo300_japan/chisiki-hat …
ご回答ありがとうございます。
>吉良家はどうだったんでしょうか?質問に質問で失礼。
いえいえ。どこまでお答えできるか分かりませんが・・・
ご指摘の知行寄合というのは「交代寄合」のことでしょうか。
交代寄合は単純にいえば「一万石未満の大名(=小名)」と考えて良いと思います。旗本は江戸定府ですが、交代寄合と呼ばれる大名格の旗本は(江戸に住んでいてたまに領地にも行っていたのではなく)普段は専ら自分の知行地に住んでいて、隔年で江戸に参府(大名でいう参勤交代)して将軍家に拝謁していました。大名並みに伺候席(江戸城内での控え席)は帝鑑間(主に名門の譜代大名の席)や柳間(主に中小の外様大名の席)に席を与えられていたということです。
吉良家は知行4200石の旗本ですが交代寄合ではなく、「高家」という由緒正しい名家が列せられてた、旗本の中でも特別な格式の家柄でした。高家は公家や朝廷に関する儀式等を専管事項にしていて(武家に関する儀式は譜代大名が「奏者番」に就任して担当)、数百石から数千石の旗本なのに京都の貴人相手の仕事なので並みの国持大名より官位(吉良は従四位上左近衛権少将、毛利や黒田など並みの国持大名は従四位下侍従)を叙任されていたようです。
一般に「高家」というと役職としての高家(奥高家)を指す場合と、高家になれる家柄自体(非役の高家は表高家)を指す場合があるように思います。高家は(若年寄に就任した今川範叙など例外はありますが)奥高家以外の他の一般の役職(町奉行や書院番頭など)には就任しませんでした。
交代寄合は、元大名の最上氏(5千石)や生駒氏(8千石)、名門室町時代の名流山名氏(6700石)、家康を祭った久能山霊廟を代々守った榊原氏(1800石)、関所の関守を務めた近藤氏(3400石)、名門新田ということで徳川家から徹底的に冷遇された岩松氏(140石)など様々でした。
参考にならなくてすみません。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
旗本は江戸初期にこそ知行地に起居するものが多かったものの、江戸集住が徹底されて以降は原則として江戸屋敷で過ごし知行地に赴くことはありませんでしたが、江戸近郊に知行地がある場合は稀に訪れることもあったようです(勿論交替寄合を除いてですが)。
交替寄合のうち「表御礼衆」と呼ばれる二十家は大名と同様に参勤交替を行いましたが、それより格下の「四衆」(那須衆四家・美濃衆三家・信濃衆三家・三河衆二家)は基本的に知行地にあって毎年もしくは隔年で短期間江戸に滞在しました。更に岩松・米良の両家は「四衆に準ずる」扱いで毎年正月にのみ参府したそうです。
余談ですが、前回の件実際には締め切りを過ぎてしまっているのに図々しくしゃしゃり出る非礼をお詫びしたりした文章があの前にあったのですが、「余分」と判断されて切られてしまったようです。まあ無理をお願いしているのですから贅沢は言えませんが。
それで「藩札騒動」のことですが、あの時は時間が無くて駄目でしたが遂に見つけました。熊本藩で元文元年に銀札騒動による打ちこわしが起こっています。この影響で一時は大坂に送る米が皆無になるという状況にまで陥ったとか。
仰っていたように藩札も領内外の商人を札元に抜擢してその信用に依存するようなケースは特に江戸後期には多く見られました。また藩札の発行と専売品とをリンクさせた場合などは比較的安定した通用がかなっていたようです。ふう~、やっとお話する機会を得られて一安心(笑)
何だかごちゃごちゃしてしまってすみません。
旗本も江戸初期は知行地に起居するものが多かったのですね。知行所が数箇所に分かれている旗本も多かったでしょうし、旗本としても特に知行地に何がある訳でもなく、あまり興味がなかったというのが本音でしょうか・・・
>「余分」と判断されて切られてしまったようです。
そうなのですね。
mapato様にも、教えてgoo運営者様にも大変感謝しております。
熊本藩では打ちこわしまで起こっているのですね。
「貧しい大名」という質問の際に、二名の回答者様に熊本藩の窮乏ぶりを挙げて頂きましたが藩札に絡んでかなり大規模な打ちこわしが起こっていたのですね。
専売品などとリンクさせて場合には比較的安定した通用がかなっていたのですね。ただでさえ窮乏ぶりが有名だった熊本藩の藩札となると、あまり信用力が高くなかったのでしょうか。
>ふう~、やっとお話する機会を得られて一安心(笑)
以前の質問にもここまで丁寧に回答して頂いて感激です。
学校が始まったこともあり、また今年は受験生ということもあり、歴史カテで質問させて頂く機会もだいぶ減ると思いますが、よろしければまたご回答頂けることがございましたら嬉しいです。
ありがとうございました!
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