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幕末には奥詰という役職ができたそうですが、これはどういった役職ですか?
立場や地位、扱い、役料等はどの程度のものだったのでしょうか。
また、どういった経緯でこの役職が作られたのですか?

江戸に関する本を見ても、「奥詰医師」以外の「奥詰」の文字はほとんど見つけることができず、疑問のままです。

ご存知の方、お手数ですがどうかお教えくださいませ。

A 回答 (2件)

奥詰は元々元禄二(1689)年3月から宝永六(1709)年正月に掛けて設置された役職。

大名の子弟10名を隔日交替で江戸城山水之間に詰めさせ、将軍の諮問に応えさせていたそうです。ですから、綱吉の時代の奥詰と幕末の奥詰は別物です。
幕末の奥詰は、文久元(1861)年四月に創設された、将軍警護を預かる親衛隊。役料2百俵。
 総員60名とも58名とも云われ、講武所の教官を務めた武芸名誉の旗本・御家人を選任したが、元沼津藩士で町道場の主に過ぎない桃井春蔵まで入っていた事からも、その人数を揃える為には相当の苦労があったらそうです。
 時の将軍家茂の信頼は厚く、設立以降は必ず将軍の上洛に随行した。長州征伐でも、奥詰は小姓・小納戸と云った将軍の身の回りの世話をする者と共に近侍しており、其の信頼の厚さは数多い武官の中でも群を抜いていた。
 慶応(1866)年以降洋式編成に切り替えられ、3個小隊に改編され、「遊撃隊」と命名されたそうです。

奥詰銃隊は、慶応2(1866)年8月に大番・小姓・新番・小十人の5番方各組の旗本を再編成し、3個小隊に再編成した洋式銃隊。装備が優秀な精鋭部隊。

>奥詰銃隊と、それとは別組織の奥詰が同時に存在したということでしょうか
上記の説明のとおり、「奥詰銃隊」が組織された1866年に「奥詰」が「遊撃隊」に改称しているので、同時に存在していません(数ヶ月同時存在だった可能性はありますが・・・)

http://page.freett.com/sukechika/bakuhu/bakuhu07 …
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この回答へのお礼

参考サイトも拝見しました。
どうもありがとうございました。

なるほど、同時には存在していなかったのですね。
近い時期ではあったけれども。

大変参考になりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2005/11/05 09:21

奥詰衆というのは綱吉の時代と幕末にあった役職で、綱吉の時代は高級旗本と大名が任じられた役職でした。


幕末の奥詰衆はぐっと地位が下がり、腕に覚えのある旗本や御家人が任じられた将軍の親衛隊です。伊庭八郎などもこの奥詰でした。
五番方が改編された奥詰銃隊というのもありました。
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この回答へのお礼

お答えくださってありがとうございます!

では、綱吉の時代の奥詰衆と、幕末の奥詰衆と、奥詰銃隊というのはすべて別物なのですね?
五番方を改変した奥詰銃隊と、それとは別組織の奥詰が同時に存在したということでしょうか。
五番方を改変したということは、五番方の中から選んで、という事になりますでしょうか?
五番方は五番方で、幕府最後まで存在していたと考えてよいのですよね?

質問ばかりで申し訳ありません。
お答え頂ければ幸いです。

お礼日時:2005/11/04 15:41

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