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江戸期に徳川親藩17万石の大名の家来で8石2人扶持の身分は足軽でしょうか?
飛地にある陣屋で勘定奉行を務めたらしいのですが仮に足軽でも勘定奉行に成れるのですか?
飛地の規模は約6万石、藩士は200人程で250石の支配役が2名で残りは全て10石前後です。

A 回答 (3件)

17万石の藩で8石2人扶持なら,「士」か「卒」(足軽)かはよく分からない辺りです。

6万石ですとおそらく,「士」だろうとは思うのですが。

例えば,黒田52万石で最下級の「士」の扶持では,6石2人扶持などという例がある一方で,「卒」身分でも陸士などは13石3人扶持をもらっています。また,逆に1万2千石の益田家では,「上士」でも12石程度の家があります。つまり,この辺りになってくると,扶持と身分の相関関係が曖昧になっているのです。現に旗本よりも家禄の多い,御家人だっていましたから。

江戸時代でも,算用方は,かなり能力人事の部分があったそうですから,仮に「卒」の身分でも取り立てられる事はあったはずです。ただ,勘定奉行というのは,「卒」のままでは難しいでしょう。その場合,「卒」から加増されて「士」として,勘定方の役職を歴任し,最終的に奉行になるというルートです。もともとが「士」の身分なら,そのまま出世をしていったという話です。

奉行をやっている間は,役料という形で扶持が増えているはずです。ただし,これは家禄ではありませんから,役を辞めればもらえません。ここで,認められれば加増という形で,家禄自体が増えるわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
8石2人扶持でも勘定奉行を務めたのなら「士」と云う事で得心がいきました。維新後に発足した士族会にも名前が名前があるらしいのですがあまりにも家禄が少ないので質問をさせて戴きました。

お礼日時:2008/09/22 07:36

徳川幕府時代でも後期になると武士も次第に官僚のような職務につき執務能力本位となってきました。


吉宗将軍時代の足し高制度は世襲の録高が少ない者が高録の職務に就くと不足分の録を支給する制度です。
現代の職務手当のようなものです。

したがって能力があれば職録にかかわらず上位の職務につけることは多くありました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
たいへん参考になりました。

お礼日時:2008/09/22 13:00

扶持と役職はまた別です。


勘定奉行とかは算術が得意な人が上がってくる方面なんで、
生まれが低い身分でも、ま、あるんでしょうね。
扶持のほうは、一族が世襲しますが
全体の石高が増えないわけなんで、増やせないわけです。
銭の役職給は別にあったと思いますが、
世襲制度のある社会というは代を重ねるごとに、
家臣の身代によって負債がかさむシステムで、
絶対に経済的に閉塞して、崩壊します。
人間はそれを3千年くらいくりかえしたわけです。
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この回答へのお礼

回答戴きありがとうございました。封建世襲制の元でも能力職はあったのですね。しかし世襲の身分からは抜け出せない…参考になりました。

お礼日時:2008/09/21 18:23

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