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いつも皆様にはお世話になっています。中世の藩について調べています(質問タイトル「廃藩置県」で継続してお世話掛けています)。
3天下人(信長・秀吉・家康)の家臣への知行地割り当てについて質問です。
信長は知行については「切り取り知行」が重いようですが。
秀吉は「切り取り」とは少し違う秀吉個人の判定のように感じます。
家康にあたっては、「重臣と協議した上」が重いような。
いずれも私の勝手な推量で根拠がありません。
そこで質問です。
1・天下人が知行地を決定する際、どんな人(連中)と協議して決定したのでしょうか?
2・知行地の決定、発令までどれくらいの期間があったのでしょうか?
3・所領替えにかける期間(猶予)はどのくらいだったのでしょうか?

A 回答 (3件)

信長は実力本位で適材を登用するのに躊躇いはありませんでした。


譜代の家臣には方面軍の指揮官として敵地を切り取りによるようにあてがいました。
投降する諸侯は旧領を安堵し織田軍に組み入れましたが後に反乱すると容赦せず徹底的に鎮圧しました。
これらの決定に余人の意見などの介入する隙はありませんでした。
所領換えにおける猶予期間はまちまちであったとおもいます。
明智光秀の場合は中国への増援であったので軍の編成に時間を要したでしょうが即刻出発するように命ぜられた筈です。
軍団の編成には指揮官の下に寄騎として協力すべき武将をつけましたがこれらは指揮官の知行地に近く本領をあたえました。

秀吉の場合は信長亡き後実力で天下をとりましたがなるべく戦わずに融和策をとりました。 すでに官僚制の兆しはありましたから自身の思惑に加えて石田三成や親族の浅野、弟の羽柴秀長らと協議したとおもいます。
所領換えの所要期間は既に安定した所と敵地に近い所などによりまちまちでしょう。
家康への関東への国換えは秀吉個人の構想ではないかとおもいます。

家康の場合は重臣達の権力もあり合議制への移行が始まっていましたが参考意見を聞いたとおもいますが基本的には自身の構想によったとおもいます。  諸侯の土地への癒着を恐れしばしば所領換えを行い、重要地点には親藩、譜代を配置しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
信長については、私の考えと近いようですね。性格上想像できます。
与力も言われてみれば一例を挙げれば「柴田勝家」の近くに「前田利家」「佐々成政」らが所領を持っていましたね。
秀吉に対する「石田三成」が家康に対する「本多正信」ではなかったのでしょうか?
家康は子が多かったので秀吉と違って、親藩として配置できたのでしょうね。
その点譜代、親藩の少ない秀吉の知行割りは難しかったのかも。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/17 14:53

私は石田三成と本多正信とについては次のように見ています。


石田はテクノクラートで実務の処理については卓越していたでしょうが治国経綸という点ではすこし疑問があります。
これが関ヶ原合戦で、根回し、情報戦で遅れをとった原因と思っています。

一方本多正信は家康の参謀として治国の工作にも加わり家康の知恵袋と呼ばれる関係にありました。
お互い座敷に寝ころんで合議する程の関係といわれていました。

三成ではあくまで君臣の関係で命令を受けてそれを上手く処理するレベルであったと思っています。
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この回答へのお礼

なるほど。三成は総務(裏方)的ですね。正信は「相談役」と言うか、
家康と対等に問答していたと考えるのは想像の域をでませんが。

山内一豊が扱いにくい土佐を任されたのは家康だけの案ではないように感じます。誰かが入れ知恵した可能性があるのでしょう。

伊達政宗対策の蒲生氏郷はわかり易すぎて、ここには秀吉流が見えるように思います。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/06/22 22:06

三者の歴史的背景が違います。


信長は、最大時で日本のだいたい半分くらい。その最終段階では、滝川一益は、上州を切り取ったわけではなく、関東担当として上州を任されたと言うことになります。
一般に、戦国時代においては独立戦国大名=その家臣 という江戸時代のような明解な切り分けがあったわけではなく、その場その場のケースバイケースです。
わかりやすい例が、朝倉家と浅井家。あるいは織田家と徳川家。従属しているような、独立しているような。そんなあやふやな支配関係にありました。
あやふやな中間的な支配関係にある大名家に上位の大名家が統治に関して許諾する方式が「切り取り次第」という形式になります。織田家は、切り取り次第を許しているという意味では、まだ「あまたある、戦国大名」の一つであったといえます。
秀吉の段階では、スタート時点が信長の最終段階に近い。旧武田家領が織田家の最終段階より少ない分、毛利家が臣従しているという格好。戦争も、信長時代の、北陸=柴田、中国=羽柴というような方面に一任(=言い方をかえると、切り取り次第)ではなく、四国、九州、関東への攻撃は、秀吉あるいは、その代理で秀長が総大将になるという、オール豊臣家軍団です。個別の大名が切り取るのではなく、城作りの天下普請にように、天下戦争ですので、切り取りの論理が無くなっています。
家康の知行地決定は、関東移転の時の「秀吉監視下」つまり、下手を打つと、秀吉の介入が発生する可能性がある中での知行割。そして、関ヶ原の戦いにおける、豊臣家臣主体の勝利(徳川の主力は、秀忠といっしょで、参戦できなかった)という状況で、どちらも自由気ままに知行を決めることができなかったという状況があります。関東移転も関ヶ原の結果の時も、徳川家としてまとまっていないと、覆されるという、危険な状況だったのです。

ということで、それぞれの個人の嗜好ではなく、その時代背景があったので、それぞれの知行割政策の違いが出た。
ということになります。
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この回答へのお礼

時代背景は確かにありますね。徳川家安泰の頃(3代目決定の頃)に入ると合議制でなんくせつけて領地召し上げ(外様)があったのでしょうが、これも時代背景ですかね。
福島正則の広島転封や加藤清正の肥後などは家康独断で決定したと解釈していましたが、これは前述させていただきました家康重臣の本多、大久保、酒井、井伊らが関与していなかったのでしょうか?
信長はその通りかと思いました。秀吉はまさしく「天下戦争」ですが、
やはり知行割に誰か関与していたのでは?
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/06/18 07:29

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