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昭和11年、広田弘毅首相が、軍部大臣現役武官制を復活させたのですが、どうしてでしょうか?
軍部に頭があがらなくなり、自分の首をしめるような行為ではないでしょうか?
お人よしだったのでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

こんにちは。


西園寺公望は二・二六の直後であっただけに軍人首相を避けようとしましたが、第一候補の近衛文麿には健康上の理由で断られてしまった為、何としても広田に首相になってもらわねばならないと思っていたようです。
しかし広田を説得出来たものの、内定した閣僚に軍部が横やりを入れてきました。
ここで広田は軍の無理難題を突っぱねる為に組閣を断念することも出来ましたが、「こんな時に政治空白は避けるべき」という周囲の意見に押されて要求を飲んだと言います。
これを機に軍部は「非常時局打破」を掲げ次々と要望を出してきましたが、「圧力に抵抗してくれるのでは」という西園寺らの期待に遂に広田が応えることはありませんでした。
これはやはり組閣の際に要求を飲まざるを得なかったことが、広田の意欲を著しく損なわせた為と見られているようです。
それを裏付けるかのように、後に近衛内閣の外相を務めた際に戦争拡大を防ぐ努力をまったく見せなかったと言われます。
戦後ただ黙って淡々と罪を受け入れたと言われていますから性格的なものもあったかもしれませんが、最初の躓きで意欲を失ってしまったことが圧力に抵抗する気力を奪ってしまったということなのかもしれません。
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私も昨日NHKの番組をみてて、そのことを疑問に思いました。


年代的には支那事変の前の年、2,2,6があったときですよね。

軍部がすごく力をつけてたときなので、軍部の圧力、あるいは、軍部なくしては議会は成立しないと思われたのでしょうか。

いずれにしても、それが理由の一つで絞首刑になってしまったようなので、文字通りご自分で首を絞められたような行為だったのかもしれません。

少し調べて、もしわかれば書き込みさせていただきます。
答えになってなくて、すみません。  
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