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簡単に負けることを認めたくないというプライドを持っていたからですか?
ドイツが降伏し、日本が単独で戦わなければならない状況では、勝利できないのはわかっていたはずです

A 回答 (11件中1~10件)

ここでさんざん言い散らかしているのに、この程度も知らないのですか・・・


(自覚のない無知や工作員も湧くので放置もできないしなぁ)


そもそもいつの時点での事のなのか不明なのだが、原爆投下後という事でよいのでしょうか。
(こんな質問をするなら、この程度の条件は考えつけて当然だと思いますが)


回答:条約の「条件」に問題があったから。

当時の日本は原爆以前から条件さえ合えば降伏(というか講和)をするつもりでした。
しかし、アメリカは原爆を使用する準備の時間を稼ぐ為に、曖昧な降伏条件(国体の護持、天皇の地位への保証がない)を出すことで、日本が降伏できないようにしました。
(降伏条件の起草段階では天皇制の維持が含まれていましたが、トルーマンはこの部分を変更しています。)

ただ、これについてはいつまでも戦争を続けていると、ソ連が参戦してしまい、戦後処理についてソ連に発言力を与えるこになるので、タイミングが難しい作戦でした。(実際そうなりました)


日本は↑のような条件が不明な状態で降伏した場合、国が消滅する事もありえるので、安易に降伏はできませんでした。
(実際連合国は、そのような戦後処理も考えていました)

更に、降伏後に天皇が処刑された場合、国民や軍部が激昂し、政府の意向に関係なく戦闘を行う場合もありえます。
そうなると、日本が朝鮮やドイツのような分断国家になって、朝鮮半島ではなく日本が米ソ対立の最前線になるかもしれませんでした。
そのような事態はアメリカも望んではいませんでした。


降伏については、原爆の影響もありますが、最も大きかったのは講和の仲介を期待していたソ連が裏切って参戦してきたからです。
これで、最後の望みが消えました。

その後の終戦までの経緯は↓



アメリカが日本に原爆を使用したのは、以下の理由によります。

ア:原爆(2種類)の効果を、実際の都市や人間で確かめ、データをとる事。
イ:他国に使用可能な核保有国であることを示し、戦後の国際関係で優位に立つ為。

「ア」についてですが、上記の目的を満たす為に、投下する都市は↓のような経緯で選ばれています。

ア1:周囲を山に囲まれた直径3マイル以上の市街地を持つ都市。
アメリカは、↑の条件をより満たす為に、広島への空襲を停止して建築物を保存し、人口を集中させました。

ア2:警告無しの使用の決定
トルーマン大統領は、自分が設置した暫定委員会で、原爆の使用は「労働者の住宅に囲まれた軍需工場に、事前の警告無し」で行われるべきだと語り、そのように決定しています。
(開発に携わった科学者は、無警告の原爆投下に反対しています。)


原爆の被害については、あれほどになったのはアメリカが事前に空からビラを巻いて警告したのに、日本軍が回収して見せず、避難をさせなかったという主張もあるようです。
しかし、私はそれにも賛同できません。

アメリカが空襲前にビラを捲いていたのは事実です。

しかし、それには 何 故 か 【広島】と【小倉】は入っていません。(画像参照)
(小倉は広島と同じ理由で選ばれていましたが、爆撃機が航路を誤って、長崎に落してしまいました。)

福山空襲は年8月8日
久留米空襲は8月11日
長野空襲は8月13日
(広島の原爆投下は8月6日、長崎は8月9日です)

そして、長崎の投下地点の真上には、日本に始めて建設された「教会」がありました。
(アメリカはこの事を隠していますが)
「なぜ日本はポツダム宣言を受け入れなかった」の回答画像11
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この回答へのお礼

この赤ちゃんって男の子だったんですよね

お礼日時:2021/11/18 19:45

やはり、強硬派の声が大きかったということだと思います。


国民には正しい情報は伝わっていませんから、国民の動揺を恐れた、という面もあります。
 長期的に見れば、敗戦はじめのことでしたから、冷静な意見もありましたが、結果的には「黙殺」ということで妥協したのではないでしょうか。
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敗戦革命を目指す輩が、ソ連参戦を待っていたからです。


【日本占領と「敗戦革命」の危機 江崎 道朗(著)】
【大東亜戦争とスターリンの謀略 三田村 武夫(著)】
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まだ「講和」「和平」に期待を持っていたから、すぐには受け入れなかった。


「日ソ中立条約」があり、またその時点で交戦していなかったソ連はポツダム宣言には加わっていなかったため、ソ連に仲介してもらうことに期待していた。

ところが、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄して日本に宣戦布告したことから、日本は講和を断念してポツダム宣言受諾に踏み切った。
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朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言(ポツダム宣言)ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

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勢いで開始は出来ますが、終息させるのは難しいのです。


言い出せば、責任を取らされるので、猫の首に鈴を付ける人が、政府にも、
軍部にも居なかったのです。
御前会議を開いて、昭和天皇が決断する形を取りました。
段取りを担った人は、暗殺されるのを覚悟でしたでしょうね。
決定に不服の軍部の一部はラジオ放送の為の、昭和天皇の録音盤を、
奪取しようとした顛末が映画化されてます。
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もっと早く受け入れたらって意味だよね?



 まだソ連が仲介する講和の芽があると思ってたこと、抗戦派が多くて内乱に発展する可能性が高かったことが原因じゃないですか。
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国体護持、すなわち天皇を守るためです。


当時は、領土だけではなく国民も軍服も弾薬まで全て天皇の所持品でしたからね。

連合国からポツダム宣言を突き付けられたのは7月26日ですが、日本国首脳部は国体護持が保証されるかどうかわからず陸軍のバカが戦争継続に固執していたこともあり、ポツダム宣言を無視したことにより、連合国は拒否と受け取って原爆投下、ソ連参戦に一気に進みます。

しかし、無条件降伏に傾いたのは、原爆投下ではなくソ連参戦だったようで、首脳部のバカさ加減をここでも露呈しています。玉音放送を巡る攻防はこれと比べたらちっぽけな出来事だったのではないかと思います。

なお、無条件に降伏して休戦したのが8月15日で、降伏文書の調印は9月2日でした。そして、ソ連参戦から9月2日まで北方領土では北海道を守るための必死の戦いが続いていました。
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最終的にはやむ終えず受け入れる事になりますけど、提案された時点ではプライドを捨てるわけにはいかなかったのでしょう。

国民には不利な状況とは伝えておらず真実を隠していましたし。でも、同時期に降伏していれば、原子爆弾は落とされていなかったはずですよね。(どっちにしても核開発はしていたので他の国に落ちていたかも知れませんが)
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君は義務教育を履修しなかったのか?

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