プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ライオンがシマウマを食べたり牛が草を食べたりするのは弱肉強食ですか?

自然界は調和のとれた食物連鎖によって巡っているようにも見えます。
また生き物は棲み分けて共生しているようにも見えます。

もともと『弱肉強食』という故事成語に、科学的な意味は無いように思うのですが、
本当に自然界は弱肉強食でしょうか?教えてください。

A 回答 (9件)

弱肉強食


例え強者でも「弱った」所を叩かれると「食われる」。(その時は強かった者は弱者と成り下がる)

牛は無抵抗な草を食べるが、中には食べられまいと毒を含み捕食者を屠り(土に還して)栄養素とする(食べる)やつも。
勝った者(強者)が敗れた者(弱者)を食らうの図だと思われる。

この回答への補足

下のお礼の文章、タイプミスがありました。


そこに勝ち負けを見出すのは人間のこじつけではにですか?
    ↓
そこに勝ち負けを見出すのは人間のこじ付けではないですか?

補足日時:2007/09/04 04:07
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>SAYKAさん
ご意見感謝!

なぜ人は、わざわざ”弱肉強食”という言葉を使って
自然界を認識したがるのか、そのあたりはどうお考えですか。

先にも言いましたが故事成語である『弱肉強食』は、自然界の生態系や生物進化については何も語ってはいません。
『弱肉強食』という熟語は、科学的な言葉ではありません。

>中には食べられまいと毒を含み捕食者を屠り

草に意識があるとお思いですか?
草に、そういった思惑がない以上、そこに勝ち負けを見出すのは人間のこじつけではにですか?

お礼日時:2007/09/04 04:06

自然界は、人間も含めて弱肉強食です。


ただし、読んで字の通りで、弱い肉体をもった物が、強い物に食われると考えた方が良いでしょう。
専門家ではありませんが、生物は生存のために、エネルギーを必要とし、自滅を防ぐためにその個体数を制御する必要があり、その仕組みが弱肉強食だと考えています。
また、おっしゃられる通り、弱肉強食には科学的な意味合いよりも、感覚的な意味合いの方が強いようです。
生物の持つ遺伝子のレベルでさえ強い物が生き残ります。
(ただし、強い物が必ずしも良い物だとは、限りません。)
答えになっていないかもしれませんが、あなたの身の周りも、例外なく弱肉強食の筈です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

NogNogさん、大変判りやすい解説ありがとうございます。

>あなたの身の周りも、例外なく弱肉強食の筈です。

そうだと思います。
ただ、それはコンクリートとアスファルトに囲まれた
人間の社会のみに対応したことで、
森や海などの自然界とは別のことなんじゃ
ないかと悩んでしまいます。

ですから自然界って本当に弱肉強食?って
質問をしてみました。

お礼日時:2007/09/04 04:19

食物連鎖の起源をたどっていくと独立栄養細菌と従属栄養細菌の関係に帰着します。

独立栄養細菌にしても太陽系物質に依存しているのですから連鎖の起源は太陽系にあるということになります。いわば強食は弱肉に依存しているのでどちらが強いかと言えば弱肉の方であるといえると思います。われわれ人間は食べられるのも食べるのも同じ生物ということからついつい人間のやっている行いに重ねてしまいがちです。おそらく弱肉強食という成語は道徳的な意味から弱いものを虐げることは良くないという潜在的な思いが含まれているように思います。もっと単純に自分が食われるほうになるのはいやだという思いもあると思います。また極めて逆説的ですが強いものは弱いものを支配しても良いという大義名分にも利用されているのではないでしょうか。結論として人間を除けば弱肉強食というのはどこにも存在しないのではないでしょうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

>いわば強食は弱肉に依存しているのでどちらが強いかと言えば弱肉の方であるといえると思います

目からウロコです。

>強いものは弱いものを支配しても良いという大義名分にも利用されているのではないでしょうか。

人間が「弱肉強食」という4文字熟語を好んで使う思考の流れまで
解説していただいて感謝します。

>結論として人間を除けば弱肉強食というのはどこにも存在しないのではないでしょうか。

なるほどです。もう少し深く考えて見ます。

お礼日時:2007/09/04 17:31

 基本的には弱肉強食ですが、そうでない例もときどき見られます。

それは棲み分け、縄張りと言ったものの存在です。これは妥協によってお互いの存続を図るという意味があり、結局はその方が生存確率が高いということでその習性がDNAに残るという結果になっていると推察されます。
 従ってより強いと思われる個体が他の個体のテリトリーに入ったときは手もなく弱いと思われる個体に追払われるという現象が生じることがよくあるのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Willytさん、素敵なご意見ありがとうございます。
「棲み分け理論」は理知的な解釈だと思いました。

お礼日時:2007/09/04 17:21

よく質問の意味を図りかねますが



弱肉強食なんて当たり前といえば当たり前でしょ。
弱いものが強いものを襲えますか?

まぁ、逆に考えれば食べられたから弱い、
食べた方は強いんでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>maxmixmaxさん
ご意見とても参考になります。
maxmixmaxさんにとって『自然は弱肉強食』というのは、
自明の理という事ですね。

>まぁ、逆に考えれば食べられたから弱い、
>食べた方は強いんでしょうね。

シンプルで大多数の人間が納得できる意見だと思います。
ここでのmaxmixmaxさんのスタンスとは、

■栄養を摂取する側が強い
■栄養として摂取される側が弱い

『ゆえに自然界は弱肉強食だ』

というスタンスだと思ってよろしいでしょうか?

となると、私が疑問なのは、
”水”を摂取する”樹木”も
木は水を襲っている、ゆえに弱肉強食だ、となってしまいませんか?
それとも『自然界は弱肉強食』とは
動物だけに限定された比喩でしょうか?

お礼日時:2007/09/04 17:57

生物の食物連鎖における食うものと食われるものの関係を擬人化して、人間社会に例えた言葉が弱肉強食です。

ですから、生態学的には全く無意味です。

自然界で本当に競り合っているのはライオンとシマウマではなく、ライオン同士、シマウマ同士です。何しろ、利害関係がぶつかり合うのですから。強者、弱者は同じ土俵に立つもの同士でないと比較できません。ライオンの中で弱いものは餌をとることができず、シマウマの中で弱いものはライオンに食べられるのです。これが、競争の原理。

種間の関係(たとえば、ライオンとシマウマの関係)に関しては、多数の学者から様々な学説が提出されています。動的平衡状態であるという説も、すみ分けがなされているという説もあります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>24blackbirdsさん

回答、判り易く、簡潔で、とても参考になりました。
本当にありがとうございました。

>生物の食物連鎖における食うものと食われるものの関係を擬人化して、人間社会に例えた言葉が弱肉強食です。ですから、生態学的には全く無意味です。

>種間の関係(たとえば、ライオンとシマウマの関係)に関しては、多数の学者から様々な学説が提出されています。動的平衡状態であるという説も、すみ分けがなされているという説もあります。

なるほど、と唸ってしまいます。
もう少し調べてみます。

お礼日時:2007/09/05 19:52

なぜ、疑問に思うのか。


確かに『弱肉強食』という言葉は科学的な言葉ではないのかもしれませんが、少なくとも生きている生物には通用するのではないかと思います。
質問者様が疑問に思っているのは、
「ピラミッドの頂点にいる生物、所謂『強』もいずれは死に、『弱』の栄養となるから」
ということでしょうか?
思うに、この弱肉強食とは無生物にあてはめるのは不可能です。従って、No5のレスにある『水』がこのステージにあがることはありません。生きている生物にとって、弱肉強食は自然界であてはまります。
『棲み分け』もまた弱肉強食を否定しうるものではありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

tunertuneさんの考察、非常に参考になりました。
どうもありがとうございます。

>従って、No5のレスにある『水』がこのステージにあがることはありません。

仰るとおりです。
という事は、草を食べる牛には、弱肉強食という見方は通用するとお考えでしょうか?

動物は種の保存のために弱肉強食を意識して動かないし、
偶然、遺伝子を残したものが、次世代に生命を繋いでいくだけだと感じます。
レイヨウ類を捕まえ損ねたら、ライオンは死に、
子孫を残すことに失敗します。
このどこが弱肉強食でしょう?

見かけの上では残酷に見える殺し合いでも人間を除いた生物には
闘争を目的とした闘争はないのではないかと思うのです。
このことを共生と呼ぼうと思えば呼べると思います。

ライオンでさえ、死ねばハイエナなどの餌となり、
餌とならなかったとしても、腐敗して土に返り、
バクテリアなどに分解され、植物の栄養分となります。
その植物の木の実などを鳥が食べ、草食動物が食べ、
草食動物を肉食動物が・・・
と言う具合に、全てが輪の中で「協力し合って」共生しています。

実際のところ、自然界は『弱肉強食』という熟語で
片付けられるようなものではないのでは?と思ってしまいます。

ご存知でしょうが、気象条件(日照時間、雨量、台風など)によって、
草食動物の個体数は大きく影響します。
その結果、草食動物を食べる肉食動物にも大きく影響します。
シマウマが増えすぎればライオンが繁殖によって増えて、
ライオンが増えすぎるとシマウマが激減して
獲物が減ったライオンが激減します。
食べるほうと食べられるほうと、
それぞれの個体数がバランスの取れたところで落ち着くようになっています。

生物進化の上では、食べるほうも食べられるほうも、
地球の環境変化ととも形態や機能を変化させてきました。

現在生き残っている種の中で、”強い・弱い”という違いを見出すことには意味がないと思います。

*皆さんの回答を参考にしました。さらなるご意見を待っています。

お礼日時:2007/09/05 19:45

#6です。



混乱されているようですので、実例を挙げて説明しましょう。

近年我が国で大型の猛禽(ワシ、タカ)類が育雛(いくすう)に失敗する率が極めて高くなっていることが問題になっています。彼女たちは年に2つほど卵を産み、餌が豊富なら2羽、餌が不足すると1羽の雛を育てるのですが、ここのところ1羽も育て上げられなかったり、保育を途中で放棄する例が増えているのです。この理由として最大のものは、人間が造林をしなくなったので、山地に草地が広がらなくなり、猛禽がウサギを狩る場所が狭められ、雛に充分な餌を与えることができなくなったということが指摘されています。高エネルギーの餌を必要とする肉食動物にとって、狩りの失敗は大きな打撃です。

つまり、動物を食べないと生きていけない動物は、決して強者ではありません。狩りに失敗すると子孫も残せないし、自分の命も危ういのです。

一方、狩られる方のウサギは、一年に2頭子供を産む、などというケチな増え方はしません。食われても食われても子孫を生み続けるのが、多くの狩られる動物の「戦略」です。これは非常に有効な「戦略」なので今に至るまでウサギは絶滅せずに繁栄しているのです。ワシの弱み、ウサギ強みはわかっていただけたでしょうか?

自我の発達した人間にとっては「自己」が生き延びられるということが「強い」生き方ですが、野生動物においては、自分の子孫を後世に残せる、ということが「強い」生き方なのです。このあたり、混同なきようにお願いします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

とても理知的な回答に感激しております。

>ワシの弱み、ウサギ強みはわかっていただけたでしょうか?

とても良くわかりました。研ぎ澄まされた洞察に驚きました。

>自我の発達した人間にとっては
>「自己」が生き延びられるということが「強い」生き方ですが、

>野生動物においては、自分の子孫を後世に残せる、
>ということが「強い」生き方なのです。

>このあたり、混同なきようにお願いします。

ここは、混同と言うよりは
24blackbirdsさんの人間観と、
私の人間観が、
少々違うというだけの事だと感じました。

重ねて貴重なご指示、満腔の感謝です。

お礼日時:2007/09/06 02:20

 ●利己的な遺伝子● 


 「自然界は弱肉強食という法則で動いている」と言うと間違いです。では、どのような法則で動いているかと言う議論を進めていくと、「それは神の御心による」という、キリスト教の「創造論」になって、科学ではなく宗教の分野になってしまします。科学の立場から言うと「法則はない」ということなのですが、それでも、科学の立場から何らかの法則を見つけだしたい、となると「自然界で、すべての動植物は利己主義で動いている」となるでしょう。
 このように言うと、「自分を犠牲にしてまで子供を救おうとするのは利他主義ではないか?」との反論が出るでしょう。これに対しては「利己主義と言っても、個の利己主義ではなく種の利己主義だ」と説明します。
 こうした議論を進めていくと、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子(The Selfish Gene)』に到達します。この考えは「すべての動植物の遺伝子には、遺伝子自身の繁栄を優先するようなメッセージが組み込まれている」ということです。「個の利己主義」「種の利己主義」というよりも「遺伝子自身の利己主義」との表現があっているでしょう。
 「母親が自分を犠牲にしてまで子供の命を救おうとするのは、それが遺伝子の繁栄に繋がるから」との考えです。ドーキンスはさらに考えを進めて「文化的な遺伝子=ミーム」という概念を提案しています。これに関しては、スティーブン・ジョイ・グールドが批判していますが、『利己的な遺伝子』に関しては説得力のある批判は見当たりません。生物学・進化論の分野で『利己的な遺伝子』の考えは認められている、と考えられます。
 「利己的な遺伝子」の考えでは、「共生」も「棲み分け」も結局は「利己的な遺伝子」によるものだ、となります。当然、今西錦司の「棲み分け論」には批判的です。
 そしてこの考えを進めていくと、次のような考えにもなります。

 博愛主義者や自由主義者は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買ってでる傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。貧乏人であろうと不具者であろうと、また差別の犠牲者であろうと、この種の非保護者に共通した性質がひとつある。何らかの形で彼らは無力な様子をしているのである。この無力ということには、鉄の肺に入っているポリオの犠牲者の場合のように現実にそうであることもあれば、高い賃金を貰っているのに、さらに多くを要求してストライキをする労働者の場合のように想像上のものに属することもある。労働者は、自分がその労働に対して得ている以上に社会は自分のおかげをこうむっているのだから、面倒を見てくれるのが当然だ、という感情を抱くのである。(中略)
 現実には、恵まれない人間は、いかに孤立無援だとしても、実は自分の力の及ぶ範囲にその無能力をつぐなうだけの、あるいは過剰に補償するだけの力をもっているものである。例えば手を失うという自体に直面した時、足で絵を描く芸術家がいる。片脚を切断してから一本脚で滑りつづけるスキーヤーもいる。貧民窟から身を起こして産業界の大立て者になる人間もいる。これは進化の全体を通じて起こる過程であって、ここではハンディキャップを負わされた動物は補償と過剰補償によって生き残るしかない。動物界には博愛主義的機構など存在しないのである。
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。そして現実に起こることはこうである。すなわち、恩恵をほどこす方は、保護者である親の役割を引き受けることで、ほどこされる側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえる、という子供の態度を助長するだけのことである。(中略)
 だが今日では、自分の面倒は自分で見よ、とか過剰補償とかいった生物学的見解は反動的だと見なされる。その反対に、全面的な保護や扶助の必要を説くリベラル派の反生物学的見解が進歩的だとされるのである。このこと自体が人類の進む方向をまことによく示していると言えよう。 (ダビッド・ジョナス+ドリス・クライン 竹内靖雄訳『マンチャイルド』竹内書店新社 1984 から)
 自然界にあっては、すべての動植物は「利己主義者」であり、その利己主義は「種の利己主義」であり、もっと言えば「遺伝子自信の繁栄を優先した、遺伝子の利己主義だ」となります。そうしてその結果、人間の眼で見れば「自然界は弱肉強食である」と映ります。
 「利己的な遺伝子」に関しては、『利己的遺伝子とは何か』DNAはエゴイスト(中原英臣・佐川峻 講談社 1991.10.20)がとても易しく、分かりやすいのでお薦めです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

hirosi3さん、回答していただき嬉しいです。

>「自然界は弱肉強食という法則で動いている」と言うと間違いです。

そうですか!自然界は弱肉強食ではなくて、
利己的遺伝子の法則で動いているという事ですね。

ありがとうございます。

こういった幾つもの理由が複合的に絡み合って、
自然は動いているんだなと思いました。

どうも自然界は「弱肉強食」では無い、
と考えても良いようですね。

hirosi3さん、貴重なご意見感謝します。

お礼日時:2007/09/06 03:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!