都道府県穴埋めゲーム

「重力定数の値が0.00000000000000000000000000000000000001異なるだけで、太陽のような標準的な恒星は生まれなかっただろう。」
「宇宙開闢時の速度がほんの少し早ければ、重元素は作成されず、ほんの少し遅ければ瞬く間に終焉を迎えていただろう。」
「空間が3次元以上で構成されていれば、クーロン型の力は非常に不安定になり、物質がつくられることもないだろう。」

これらはともに人間原理について書かれてある書物を紐解けば、しばしば目にすることが可能な、「いかに現在の宇宙が人間にとって特別あつらえであるか」ということの説明であると私は理解しています。

確かに、この宇宙は人間にとってあまりにも都合がよくできています。
しかし、だからといって、特に強い人間原理の方が仰る
「宇宙は観測者(人間)が生存できるような得別あつらえでなければ、自身を観測するものが現れない。だからその存在を生み出す必然性がある」
という主張には、ちょっと首を傾げてしまいます。

ちょっとした偶然で消えていった宇宙が無数にあるだけかもしれません。
「宇宙には最初から自身を観察する知的な生命体を産み落とす意思(必然性)があった」と考える根拠が、現在の宇宙の偶然性に頼っているのは説得力が欠けるように思われます。
ものすごく幸運で偶然の上に現在人類が観測しているという事実を分子に置き、物理法則が異なったから存在できずに観測されなかったであろう、その他の宇宙の可能性を分母とする場合、その分母の数なんて誰にもわからないことですよね??
私が「強い人間原理」を誤解しているでしょうか?

私は物理学を一般の啓蒙書を読んだ程度の知識しか持ち合わせていないので誤解しているところが多くあるかと思いますが、ご回答よろしくお願いいたします。

長い質問文で失礼しました。

A 回答 (4件)

どうも、ご議論、興味深く拝読させていただいております。



 Magoichiさんのご質問の主張と、asterさん、Mell-Lilyさんのご回答で
強い人間原理に対して、肯定的な議論、懐疑的な議論はきれいに集約されて
いるように思われます。

 確かに我々は、「高級オーダーメードのようにしっかりと用意された宇宙」
に住んでおり、これが奇跡的に思われる事を実感しています。

 ところが、その現象の説明に「西洋的な形而上」の話をオブラートでくる
んだようなレトリックを使われると、とたんに「これはウサン臭い」と感じ
るのは、本能として自然でしょう。

 そして、無限に多い母数の「子宇宙」の中の、たまたまの奇跡的な成果が、
「我々の住む、この宇宙」であるという、Magoichiさんのお考えは、実は
私のような「深く考えない科学屋」にも納得しやすい主張に思えます。

 この議論を、物理的に正々堂々と決着をつけるためには

1)「子宇宙」を産みだす、ある種の「母空間」を考えとき、物理定数の
 異なる子宇宙の存在が可能かどうか?可能とすれば、どのような範囲で
 可能なのか?

2)物理定数の異なる子宇宙が発生する母数で、「我々の宇宙」のようになる
 ことが、確率的にリーズナブルか?
  (子宇宙発生数という無限大と、人類発生確率という無限小の、どちらが
  優勢であるか?)

の解明が必要ですし、形而上学相手にしっかりと議論するためには

3)そもそも、「母空間」は、なぜそういう性質をもったのか

を科学者が実感できることが必要でしょう。
(ここでいう母空間・子宇宙は、とても一般的な意味で用いています)

 人間原理の先駆的存在である、量子力学の「コペンハーゲン解釈」の
歴史的役割を思い返しますと、時に科学者は、物理法則のエッセンスを
浮きださせるために、人間まで含んだ「揺れ過ぎた」主張をするものです。

 その厖大な議論の結果は

 「・・・そう考えてもいいが、そうでない数学的扱いもできます。
でも、時として科学者の本能的願望は、正しくない時があります。」

 ということになるようです。


 以前、他の方のご質問にお答えしたときにも主張いたしましたが

  「我々は、まだ、物理定数がなぜその値なのか?を議論できる
  知的段階には至っていないのではないか?」

 というのが、私の歴史観です。

駄文・長文もうしわけありませんでした。
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この回答へのお礼

CaF2さん、ご回答どうもありがとうございます!!

勝手ながら、CaF2さんの回答履歴から、

>以前、他の方のご質問にお答えしたときにも主張いたしましたが

と思われる回答を拝見いたしました。http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=323811
光速度と人間原理についての言及がなされていましたので、ホーキングのインフレーションモデルを思い出しました。

光速度が有限であるということとビッグバン宇宙論から導き出される問題として、地平線問題がありましたが、インフレーションモデルは、因果律の及ばぬ2点からあたかも因果関係があったかのような観測事実に対して、一応の解決を示しています。

かつてのホーキングは、地平線問題(宇宙の大局的な等方等質性)のために人間原理を利用したと見聞したことがあります。しかし、インフレーションモデルによってその等方性・等質性に解釈がついたため、一部の人間原理の考え方が必要なくなりました。
そしてこのような理論は、これからも発見されるでしょう。ですから、

>(子宇宙発生数という無限大と、人類発生確率という無限小の、どちらが優勢であるか?)

については、人類発生確率の方に(少なくとも技術や諸理論が発達するとして)分があるように(個人的で主観的ですが)思われます。

>「子宇宙」を産みだす、ある種の「母空間」を考えとき、物理定数の異なる子宇宙の存在が可能かどうか?可能とすれば、どのような範囲で可能なのか?

物理学が厳密な物的証拠(観測)を求めるようであれば、検証することは不可能に思われます。そんなことを言い出したら、例えば、現在の大型加速器の性能からすれば「重力までを統一した理論なんて不可能(検証不可能)だろう」ということにもなりますが。
ただ、思考的に考える分には、「可能である」という前提から始まっている以上、存在できるという状況証拠を見つけることから始めることになると思います。

>人間原理の先駆的存在である、量子力学の「コペンハーゲン解釈」の歴史的役割を思い返しますと、時に科学者は、物理法則のエッセンスを浮きださせるために、人間まで含んだ「揺れ過ぎた」主張をするものです。

いみじくも、アインシュタインが放った言葉「君は、君が見ているときだけ月がそこに実在すると本気で信じているのかね?(観測による確定)」が胸に響きます。
結局は、科学的な手法を離れて、個人の価値観や宗教観に(本人は気づいていないにしろ)左右されているのかもしれませんね。もちろん私も含めての話です。

できれば、さらに詳しく意見を伺いたいのですが、

>「我々は、まだ、物理定数がなぜその値なのか?を議論できる知的段階には至っていないのではないか?」

とお考えになる根拠はどういったことでしょうか?物理定数がその値以外の場合には、こういう風になるだろうという議論は可能だと思われます。もちろん先ほどお書きしましたように、「じゃあ検証してみましょう」という具合にはいきませんが。

駄文だなんてとんでもないです!非常に丁寧に、しかも私にも分かり易いかたちでアドバイスをいただきありがとうございます。

お礼日時:2002/08/13 20:24

 どうも。

補充になるかどうか?はなはだ不安なんですが・・・

>> 物理定数がなぜその値なのか?を議論できる知的段階には至っていない
>とお考えになる根拠はどういったことでしょうか

 当然のご反論ですし、私も、澄み切った気持ちで、「絶対そうだ」と言えるほどの
確信があるわけでもないんですが、とりあえず説明させてください。

1)計測とは、相互作用の枠組みでしか語れない事。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 我々の知的行動としての「計測」や「物理学」が、現在の段階では、
「 相互作用のみ 」 を見ており、それより深いところを見ていない段階で
あることを、まず考えてみたいと思います。

 Magoichi様も触れられておられるように、物理学は、
「 厳密な物的証拠 ( 観測 )を求める 」のが主な目的です。

 極端な方々は
「物理学のカテゴリーには、『 計測 』と『 理論 』だけしかない」
と言われる方もおられますし、細かいことを言わなければ、もっともな意見です。

 観測とは、つきつめると相互作用の範疇での言葉使いです。
物自体の中身を示す言葉ではないんでしょう!?。

 たとえば、力 = 電荷×電場
という式1つとってもみても、この3つの量(力・電荷・電場)の夫々を、
独立に理解できていますでしょうか?

 もう少し深めると、素電荷が、なぜこの宇宙では e ≒ 1.6E-19 [C] という値で
あるのか?同様に、重力は?、色の力は?全く独立には、理解できてはいないと思い
ます。

 この答に到達するのは、「 現在我々が考えている範囲 」での相互関係ではなく
もう1段上の階層へ踏み込んだ定量化の世界へ進む必要があると考えるのです。


2)還元主義だけでは、最終段階に到達できなさそうな事。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 19世紀~20世紀の物理学は、マクロな性質を

  分子 → 原子 → 原子構造 → 素粒子 → 根源粒子

といった内部構造に原因を求めていき、それぞれの性質を、次へ次へと、還元的に
説明することで成功してきました。
 しかし、電子に狭い意味での " 内部構造 " がないとすれば、電荷の値を決める源
である、" その下の段階 " とは、いったいなんなのでしょうか?

 最終的根源は、数学的構造で説明しきれるはず!・・・と思える方は幸せですが、
わたしは、実在的根源があると思わねば、安心できない性格です(笑)
(それが常識を超えた数学的性質を持つことは、全く否定はしませんが・・・)

 還元主義を超えた「悟り」を、学問として確立できる精神が、今の私たちにあるのか?
といわれると、私は、かなり疑問だと思っているのです。


3)結局、宇宙がなぜあるのか?という疑問に行き着くこと
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 我々が住む「子宇宙」があるのは、母なる「母空間」があるからだ・・・
と説明されてて、安心できているのでしょうか?

 「 原子は、電子と原子核からできているんだヨ! 」と言われても、ちっとも
満足できないような早熟な中学生の不満と同様に、

 「じゃ、母なる宇宙はどうしてあるのよ!?」

という、還元主義の呪縛が、そこにはあるように思えるのです。

 結局、我々が今、問題にしているのは、
 「 存在それ自体に対する疑問 」
なのです。

 なぜ、この世は 「 今のような姿 」 で存在しており、
全くの「 無 」ではないのでしょうか?

この疑問を、昨夜、息子に風呂に入りながら聞いてみたら

「 有ったほうが楽しいから! 」

という、「深い人間原理」でかわされてしまいました(爆笑)

 人間原理が唱える解答方法以外にも、きっとその答えがある!、

 と信じる人間が、そこに向かって突進していくしか、今の私たちの
疑問を満足に解消させてくれる方法はないのでしょう。

________________
= まとめ =
~~~~~~~~~~~~
 還元主義を超えたところにある「存在論」という呪縛を超えないと
物理の根本的起源を答えることは難しいのではないか?

 答えるためには、一種の「考え方」の飛躍が必要であり、我々の現在の
知的段階を超えたところに、その答があるように思う。

 しかしその答は必ずあると思う、それは宇宙が今存在するのと同じくらいの
確からしさで。

=======================================================

 以上です。満足していただけたか?はなはだ不満ですが
「 わたくしメの知的段階 」では、これが精いっぱいでした。

   よろしくお願いいたします。
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この回答へのお礼

CaF2さん、再度のご回答どうもありがとうございます!!

>この答に到達するのは、「 現在我々が考えている範囲 」での相互関係ではなくもう1段上の階層へ踏み込んだ定量化の世界へ進む必要があると考えるのです。

なるほど。結局は我々の世界が許す範囲としての観測しかできていないということは、本来止揚されるべき範疇の問題であるということなのかもしれませんね。物理定数がとるべき値は、結果からは「まさしくその通り」という解答ができても、「なぜ?」というアプローチは確かに人間の知性では無力です(人間原理を考えない場合)。私が思ってたのは、あらゆる可能性について論じることは人間の知性を越えていないということです。つまり、「この宇宙で○○が△△%異なれば宇宙の姿は□□となっていたはずだ」ということについてです。しかしこの考えも独り善がりかもしれません。なぜならその背景には物理法則の一般化という大問題が待ち構えているかもしれないからです。

>還元主義を超えた「悟り」を、学問として確立できる精神が、今の私たちにあるのか?といわれると、私は、かなり疑問だと思っているのです。

これまた深遠な問いかけです。還元主義は、おそらく最も古くから考えられてきた思想の一つでしょう。古代インドに既に仏陀となったゴーダマシッダールタに対する問いかけに対しても還元主義の兆候は見出されるくらいですから(私の誤解かもしれません。自信なし)。
そして還元主義には。。。ある答え(CaF2さんの仰る「実在的根源」)が、その到達先に用意されているのかどうかも、分かりません。例えば、クォークやレプトンに質量を与えているのが標準理論によるヒグス粒子ならば、なぜヒグス粒子は「1000GeV」もの質量をもつのか(念のために:この値は予測値です)?といった根本的な問題が出てきます。こういった問題はぐるぐると繰り返されるものなのか。それとも果てしない旅路の末に到達できるものなのか。果たして還元主義を超えることは可能なのか。

>なぜ、この世は 「 今のような姿 」 で存在しており、全くの「 無 」ではないのでしょうか? 人間原理が唱える解答方法以外にも、きっとその答えがある!と信じる人間が、そこに向かって突進していくしか、今の私たちの疑問を満足に解消させてくれる方法はないのでしょう。

人間原理に対して突き止めていくと、結局は「自然科学とは何か?」という本質的な問題に直面するのではないかと、最近考えるようになりました。
自然科学とは「観測された資料を整理し理論的な予想を実証する」のがその本質の一つ(全てではない)と考えています。それに対して人間原理は、「今ここに宇宙を観測しているという事実」から思考が出発しています。
ですから、還元主義に対する満足行く答えとしては、自然科学には不可能なのかもしれません。もちろんそれが、「だから自然科学よりも人間原理のアプローチの仕方が優れている」ということではありませんが。

「還元主義を超えたところにある「存在論」という呪縛を超えないと物理の根本的起源を答えることは難しい」と仰るCaf2さんのお考えは、分かるような気がします。
ただそのアプローチとして用いるのは、果たして自然科学なのか。。。要するに、「考え方」の飛躍は自然科学の本質も飛躍してしまうのではないかという危惧が私にはあります。

だんだん哲学的になってきました。哲学については全く知識を持ち合わせておりませんし、Caf2さんのご回答を読んで直ぐに返答をしておりますので、収拾がつかない返答になってしまいました。ご容赦ください。

ゆっくりと、現在の私の知識と照らし合わせてみて返答を差し上げるのが礼儀かとも思いましたが、熱い状態で文章を仕上げてみるのもいいかなと思いまして。また伺いたいことがありましたら、補足欄の方に書かせていただきます。

再度のご回答本当にありがとうございました!!!
読み応えがあり、非常に刺激的なご回答でした!

お礼日時:2002/08/17 23:04

 


この世界には、自己認識を行う人間精神が存在している。宇宙は膨大で、科学の知見は、宇宙の決定定数とも言える数字が、わずかでも違ったものであるなら、現人間精神の存在はありえなかったということを明確にしている。

では、色=空の世界、あるいは、対象=人間主観の存在世界が、「自己反省する精神」を生み出したということであり、それは生み出したのではなく、「生まれた・覚醒した」のだとも言えるでしょう。

人間精神の覚醒は事実でしょう。宇宙を対象と考え、人間を独自な独立する認識主体と考えるので、「宇宙が認識する人間を生み出した」という表現が奇妙に聞こえるのでしょう。

宇宙が超越的な神のようなものだと考えるなら、西欧的なキリスト教的な考えかも知れません。しかし、人間の存在と宇宙の存在は、超越と内在のような極端に次元の違うものなのだろうか。

「強い人間原理」の言っていることは、認識する人間精神は、根拠なく、意味なく生まれたのではないということでしょう。

>ものすごく幸運で偶然の上に現在人類が観測しているという事実を分子に置き、物理法則が異なったから存在できずに観測されなかったであろう、その他の宇宙の可能性を分母とする場合、その分母の数なんて誰にもわからないことですよね??

「ものすごく幸運で偶然の上に現在人類が観測しているという事実」は、あなたもそう思っているのでしょう。科学でさえ、そうだと答えているのです。それに対し、「その分母の数なんて誰にもわからないことですよね」誰にも分からないことが、どうして、比較において釣り合うのでしょうか?

宗教的に響くかも知れませんが、あなたは「驚くべき奇跡的事実」を、何故、そのように否定したがるのでしょうか?

驚くべきことで、とても偶然とは思えない、というのが自然な態度ではありませんか? 偶然でないとすれば何なのか。わたしは神のような超越者の計画など前提にしなくとも、人間と宇宙の相関、人間が自己覚醒したことが、宇宙の自己覚醒ではなかったのか、と述べました。

「科学」というものが、考えている以上に、基盤のないものであり、その適用範囲と主張する領域では、おそるべき熾烈な営みであっても、何かが根本的に忘れられているのであり、そのことが、気づかれてきたとも言うことでしょう。

(もっと長い文章でしたが、短くしました)。
 
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この回答へのお礼

asterさん、ご回答どうもありがとうございます!!

>科学の知見は、宇宙の決定定数とも言える数字が、わずかでも違ったものであるなら、現人間精神の存在はありえなかったということを明確にしている。

この部分は、質問の最初に例にもあげた通り同意見です。「少しでも物理定数が異なれば、宇宙を観察し、その期限に思いを巡らす存在は生まれなかっただろう。」

私が奇異に思うのは、それは矢張り偶然の偶然の上に成り立ったことなのではないのか?ということです。

私が誤解しているだけかもしれませんが、強い人間原理の立場にたつ考え方には、もっとこうなんと言いますか、「積極的に宇宙の意思として自分自身(宇宙)を観察する存在を生み出している」という風に解釈可能な考え方があるように思えます。

なぜ、宇宙が人間という自身を観察するモノを生み出したという事実が、偶然の偶然の偶然の・・・上に成り立つものでなく、宇宙にとって必然だったのか?わかりません。

>「ものすごく幸運で偶然の上に現在人類が観測しているという事実」は、あなたもそう思っているのでしょう。科学でさえ、そうだと答えているのです。それに対し、「その分母の数なんて誰にもわからないことですよね」誰にも分からないことが、どうして、比較において釣り合うのでしょうか?

はい。私も、この宇宙は非常に人間にとって特別あつらえと思っています。そして、それは気の遠くなるような偶然の結果という解釈は成り立たないのか?と思っているのです。
強い人間原理の説明を聞くと、しばしば「人間が宇宙を観察でき、その広がりに思いを巡らすことができるのは、決して度重なる偶然というだけのものではない。物理定数のとる値は、まさしくその値をとっていなければならず、そのような偶然は考えられない。今ここに人類が存在するということがそれを偶然のものではなく必然のものとしている」といった主張が見出されます。

そういう主張を目にするたびに思うことは、以下のような感想です。
「なぜそんなことがわかるのでしょうか?過去に物理定数がほんのわずか違っただけで消えていった宇宙の数を知っているわけではありませんよね?偶然の偶然の・・・というくらいですから、それこそ無数に消えて行ったかもしれないじゃないですか??」

比較においてつりあうということがどうことを意味されているかわかりかねますが(すいません)、以上のような疑問をもっているわけです。

>宗教的に響くかも知れませんが、あなたは「驚くべき奇跡的事実」を、何故、そのように否定したがるのでしょうか?

奇跡的なこととは思っています。ただし、それは偶然の偶然の上に成り立つものと思っています。

上手にasterさんに伝わりましたでしょうか??

短く推敲していただいたご回答をどうもありがとうございました!!

お礼日時:2002/08/12 22:38

人間原理は、西欧人特有のものの考え方に基づいています。

日本人は、思想や宗教といったものにあまり関心を持たない民族ですが、西欧人は、むしろ、その逆です。基本的にキリスト教を信奉していて、「神」というものを強く意識します。その辺のバックグラウンドの違いが、考え方の違いを産み出しています。
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この回答へのお礼

Mell-Lilyさん、ご回答どうもありがとうございます!!

なるほど。思想や宗教観ですか。確かに現代の日本人にはいささか欠けているバックグラウンドかもしれません。ちょっと方向がずれているかもしれませんが、創造主の起こしたる奇跡という考え方や選民思想にもかかわりあってくるかもしれませんね。つまり、人智を越えた力を仮定して論理を進めていくという過程が、背景として、日本よりは西洋にはびこっていたかもしれません。

一つの方向を示唆していただきありがとうございました!!

お礼日時:2002/08/12 22:15

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