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神や仏など人間を超えた存在を信じない人がいます。
(信じるかどうかは、その人の自由ですが)
神秘的存在を否定する事が科学的であると思い込んでいるようにも見えます。
しかし、存在する事も、存在しない事も、未だ科学では証明されていません。
いわゆる無神論は、「神を信じない宗教」であると言えるのではないでしょうか?
このことについて、ご意見やご感想等、御座いましたらよろしくお願い致します。

A 回答 (11件中1~10件)

最近、こういう質問が特に多いのは、現世が終末時代だからなんでしょうか?


科学的に極力考えてみることにしますと、
まず第一に、人間が単なる偶然にこの宇宙に発生した生物なのかどうかです。

1. 偶然 or 必然 ・・・これ以外には絶対にありません。
次に、もし偶然だとすると、次なる推論が可能です。
「人間には、存在している価値が元々無い」と言うことです。
なぜなら、偶然で、創られた目的のないものには、最初から存在目的はなく、
故に存在価値もないからです。
自分が自分の存在価値を決めればよい。或いは人生の目的を決めれば
良いという方も大勢いますが、「存在価値」とはそれ自体が決めることは
出来ません。つまり、そのひもが1mあるかないかは、
ひも自体は決められませんよね。それと同じようなことなんです。
計ろうとするもの自体に尺度があってはなりません。外部にものさしがある
べきです。ですから、自分自体が存在価値があるかないかは、
外部が決めることです。ましてや、今議論していることは、特定の個人では
なくて、「人間の存在理由」という大きな哲学なのです。
それを論じようと言うのに、自分で自分の価値を決める尺度・ものさしを
もっていたら、利己的にならざるを得ず、又、自慰行為でしかありません。
人間の価値を論じようと言うのですから、価値基準・尺度は、
人間の「外」にあるべきですね。
人生に価値を見出すかどうかは、あなたが外部に立って決めればいいのですが、
あなた自身の、つまり人間の存在価値を決めるのは、あなたではありません。
ですから、 2.創造目的=存在目的=存在価値 なのです。
そして、存在価値が「本源的に」無いということは、
3.存在価値のないものに、性善も性悪もない。 ということが断言できます。
つまり、善悪と言う価値観自体が人間にとってナンセンスなのです。
価値のない人間の社会にとって、人間の尊厳性も人権も本当の意味でありません。
ただ、反社会的(時代や国の思想によって何が反社会的かは変わる。)と
思われることを「悪だ」と一応定義して国家的制裁を法的に加えるのが刑罰だ・・・。
という、ただそれだけのことでしかないのです。善でも悪でも
ありません。その存在が善か悪かは、造られた目的に合致しているかどうかです。
時計が動かなければ、造られた目的に反するので「悪(=不合格)」なのです。
それしかありません。「創造目的」が全ての問題を解く鍵なのです。

4.偶然に存在するようになった「物」に、生来、「尊厳性」は無い。
5.人間は、自分の意志で生まれてきた人は有史以来一人もいない。
6.故に、自分の為に生まれてきたと言える人も一人もいない。
7.ならば、誰の為に生まれて来たのかと言えば、人間を必要とし創造された方
のためであると断言できるのですが、「偶然」に生まれてきたのなら、
「誰のためでも無い」と言えます。
8.ならば、自分の為でも誰の為でも無く生まれてきた存在が、
果たして「子孫繁栄」という目的のために生きるとは到底考えられないだろう。
9.なのに、何故、親子という関係があり、子供を産むシステムが偶然にできた
のか誰も説明できない。矛盾する。
偶然に、目的性を持つ高度な機能・システム等は造られるはずがない。
10.最初、人間は、アメーバーだったというが、そのアメーバーがどうして、
いつ頃から、「目」の必要性を感じたのか?
目のない生き物がどうして「目」の必要性を感じられるのだろうか?
必要性を感じないのに目的性をもつ「目」という高度な機能が、
単なる偶然に出来るだろうか? 科学的でない。
11.DNAの螺旋構造が偶然に出来る可能性は0であると、或る科学者は
言っている。

以上の内容から、人間は、偶然に進化してきたというよりも、
「明確な目的があって進化して人間になった。」と考えたほうが、科学的推論
としては、筋がとおるであろう。
無神論を信じる方が非科学的迷信的狂信的推論であり、有神論を信じた方が、
科学的であり、論理的であり、現実的推論だと言えます。

神を信じないことも一つの「宗教」かも知れません。共産主義は神を信じない
宗教でしょうね。でなければ、どうしてあんなに人を殺せますか?
尋常じゃないよね。
ではでは。

この回答への補足

皆様、ご回答ありがとうございます。
大変、勉強になりました。
しかし、この問いには万人が納得する答えが無いようにも思われます。
ポイントは私の独断と偏見で付けさせて頂きます事をお詫び致します。

補足日時:2002/08/16 16:53
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こんちゃ、sohです



>いわゆる無神論は、「神を信じない宗教」であると言えるのではないでしょうか?

言えるんとは思いますが私としては
みずからの神様のみがただしく 他の神様は邪悪だ悪鬼だ忌諱すべき物だ
って態度とかが宗教的なのは貴方と同じ意見なので
否定形ではなくて、肯定形にして
「「科学の神」を信望している」
の方を推しますかな

ちなみに、主題とはずれますが
環境破壊能力により地上の覇者となった「人間」種族が崇める神様としては科学が一番「人間らしい」と私は思っていますよ。


>神秘的存在を否定する事が科学的であると思い込んでいるようにも見えます。

その認識は正確なようで、実質違います
神秘を科学した時点で神秘が神秘では無く
科学の土俵で論議されてしまうので
そう見えるだけで
神秘的存在を否定することが科学的であるに思い込んでいるように見えてしまう貴方自身が
科学の神に縛れている証拠でもあります

であであ
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「無神論」を「人を超えたものの存在を否定する」宗教と呼ぶのは言えなくもないけれど、難しいと思います。

「無神論」の枠組が広すぎて、一つの枠組では捉えきれない気がするからです。つまり「神」の概念にも、キリスト教だけでは考えられない多様さがあるため、キリスト教的な無神論と、仏教的な無神論?、汎神論的な無神論には大きな隔たりがあるのではないでしょうか。無神論には思想的な「アンチ(特定の)宗教」と「慣習の退廃」、「科学信仰」が組み合わさっていると思います。

最後の「科学信仰」だけを考えると、確かにそれは「宗教」的な一面を持っていると考えられます。産業革命の起こったヨーロッパにおいて、科学(=知識の体系付け)は宗教から派生しています。知識を体系立て、大元を探っていくと、真実は一つであり、それを「父なる神」として不可侵にするのがキリスト教、そうではない、数だというのがピタゴラス派や、数的存在を想定したラプラスだと理解してます。確かに「数字」は世界を計る共通言語になりえるかもしれませんが、最初に「真実は一つ」と想定している点、宗教的でもあります。

というわけで、無神論=宗教的とは言いがたいけど、科学信仰=宗教的かも、と考えている意見でした。
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未だに証明されていないことを信じたり信じなかったりすることは、


「宗教」的であることと、必ずしも関係しているわけではありません。

たとえば、サンタクロースを信じている子どもを「サンタ教」信者
とは言わないでしょうし、幽霊を信じない子どもも「無幽霊論」
信者(?)とは呼ばれないでしょう。

だから「迷信」的と言った方が近いかも。

でも、それがその人の人生観や世界観に大きく影響した場合、
あるいは、そのことに変なこだわりを示している場合、
ちょっと「宗教的」と言うことができるのかもしれません。

たとえば、というか、
話題からちょっとはずれるかもしれませんが、
最近気になるのが、宗教に対して妙に嫌悪感を持つ人です。
そういう人は、たぶん反発心から「無神論」に
組していると思います。
確かにヘンな宗教が事件を起こしたこともありましたし、
反発する気持ちは充分に分かりますが、でも、
世界的に見れば、宗教を信じることは、ごく普通のことです。
世界平和のためには(?)、宗教に対する理解も必要だ
と思います。

キリスト教徒のマザーテレサは偉人です。
日本のお坊さんにも、きっと偉い人はいるでしょう。
宗教は、そういう方々の心にもあるということも、同時に
きちんと評価すべきだと思います。

そう考えれば、宗教のことを、頭っから全く受け付けない
というような態度は、逆に変な宗教みたいに「盲信的」ということに
なるかもしれません。
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自分の考えは無神論です。


しかし神の存在を否定する事が無神論だとは思いません。
確かに存在するかしないかはまだ判明しませんが,少なくとも今のところ存在は
確認されていないと思います。
信じない人はその存在が確認・立証されてないからに他ならないのでしょうが,
そういう人から見れば存在すら確認できないものを信じる事は可笑しいと思って
いる事でしょう。
もちろんどちらに付くかは本人次第ですが無神論は「神を信じない教」と言うの
は違うと思います。
むしろ神を信じる教が「存在しない物を信じる教」だと思いますが,自分にとっ
ては皆さんがどちらについても良いですけど無神論が偏って理解されない世で
あってほしいと思ってます。
映画「コンタクト」を観ると神を信じる者と信じない者の考えが出てきてどちらに
も考えさせられるものがあると思いますよ。
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個人的な感想ですが、


宗教って「シアワセになる為に」とゆー性質のモノと思うんです。

> いわゆる無神論は、「神を信じない宗教」であると言えるのではないでしょうか?

とのコトですが、無神論を唱える人々が
神を否定するコトがシアワセに繋がる、と考えている
とは思えないので、私的には無神論は宗教ではアリマセン。ただの“考え方”です。
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 確かに無神論は科学に対する盲信と言えるでしょう。

こういう人達は一つ一つの学説を正当に評価することができないし、学説同士の矛盾にも気がつかないのでやむを得ない事と思います。ただ、ここに神が存在しないと信仰する事がはたして可能かという問題があります。

 また、奇妙な事にピタゴラス派やユダヤのカッバラ及びヒンドゥー教の一部のように秘教的なものほど神的なものを数理的あるいは物質的に取り扱う傾向の強いのは注目すべき事です。仏教でも顕教的あるいはカルト的なものほど単に信心または尊師への帰依を求めるようです。
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多くの人にとっては、無神論は「神を信じない宗教」に該当するでしょう。

ここで考えて欲しいのは、「神を信じない宗教」と言うのは「神を信じることこそが宗教の本質」であり、「宗教は神の存在が前提となっている」という事ではないのでしょうか?

私にとっての無神論は「人を信じる宗教」です。目の前に存在する人を信じられなくて、神などという存在がどうして信じられるのでしょうか?
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deifyさんの、この一言から、いろいろ展開できるテーマだと思います(笑)



>しかし、存在する事も、存在しない事も、未だ科学では証明されていません。

1)存在しない事が証明されていないのだから神は存在する
2)存在している事が証明されていないのだから神は存在しない
3)存在しているかどうかわからないから、神については考えない

心の中によりどころをもつ、それを広い意味での宗教と言うのであれば
(2)は神を信じない宗教であり(3)は無宗教ということになるのでは
ないでしょうか。
 
ただ、神をUFOに置き換えてみるとわかりやすいのですが、
存在する事は証明できても、存在しない事を証明するのは
非常に困難です。
たとえば、100の事例があって、そのうち99が誤りだったとしても
現象が不確かで誤りと断定できないものが一つあったら
存在しないことを証明しきれないからです。
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神の存在だけを唯一の教義とする宗教はありませんし、既存の有神宗教も全体としてひとつの宗教というわけではありませんので、無神論も単独

で宗教とみるよりはカテゴリと見た方がいいのではないでしょうか?
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