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関ヶ原の戦いの後、家康によって豊臣家の領土・勢力は大きく削がれますよね?
一応、徳川方の言い分としては、忠臣家康が奸臣三成一派を成敗した・・・というものであったはず。
だから主君である豊臣家が徳川方の大名達に、恩賞を与えなくてはならない
という名目は分からないでもないのですが・・・
だからといって、豊臣家の身をあそこまで急激に削らせるのは、
いくら秀頼が幼いといっても豊臣家または豊臣恩顧の大名から異論や抵抗はなかったのでしょうか?
あまりにもあっさりと家康が豊臣家の勢力削減に成功したように見えて不思議です。
家康はどのような手段を使ったのでしょうか。

A 回答 (9件)

 徳川家康による恣意的としか思えない領土変更は、関ヶ原の戦いの前から行われています。

豊臣秀吉は遺言で豊臣秀頼成人までの政務を任せており、豊臣家が大名に預けていた蔵入地を他大名に与えること(このことも関ヶ原の戦い以前からありました)程度は、職務権限に入っていたという認識が豊臣家にもあったのではないでしょうか(もっとも厳密には秀吉の別の遺言で禁じられていたのですが、(家康を除く)5大老・5奉行より家康が政治力に勝り、が押し通してしまっています)。
 
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この回答へのお礼

関ヶ原以前に行われていたとは・・・
家康ほどの実力さえあれば、何とでもできるということでしょうか。
家康という強大な存在を残したまま亡くなった秀吉は、さぞ気を揉んでいたでしょうね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 23:23

>家康はどのような手段を使ったのでしょうか。


戦う前に勝利していたのです。

敵の筆頭大名の毛利の親族、吉川広家は、
兵を動かさなければ毛利本家に咎めは及ばない。
こう言う約束をしていました。
親族の、小早川も味方すると約束しています。

吉川軍が動かないと、毛利、長曽我部も動けません。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/05/Se …

小早川家は、
毛利家の領地削減や周囲の改易に対し、姫路城を与えたのは「明らかに」おかしいです。

動かないと言う内通から、すぐに兵を動かしてくれと言う頼みに応じた可能性もあります。

後はでけーのは宇喜田秀家のみで、これを片を付ければ後はどのような咎めも出来そうです。(上杉家他など。)

もちろん、一番大きいのは軍議を無視した三成の采配で、
これで不信を抱いたり、怒り、動かなかった大名もおり、

徳川が来る前に総攻めしていれば勝てた。
野戦をすればよかった。

わざわざ夜中に走って引き返して関が原に行く馬鹿がいるか。
そのまま戦をさせる馬鹿がいるか。

何故わざわざ大阪城と徳川軍の間に「夜中に走って」入りに行くのか?
はさまれる位置に行く馬鹿も珍しい。
逆に、巨大な大阪城と、豊臣軍で挟み撃ちにし、相手の背後を脅かす戦をするのが常識。

きっぱり、
付いて行けません。
疲れます。
「筋がまるで通っていないのです。」

既に関が原ではシラケてしまった大名もいるようです。

これに味方「してしまった」た大名の咎めは止む無し(当たり前)
と言う空気が流れたのではないでしょうか?
言葉を返せば、豊臣に恩のある大名全員に連帯責任がある。
この咎めは止む無しになります。
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この回答へのお礼

大名間のそういった「空気」が豊臣家衰退の黙認に
つながったということですね。石田三成は戦下手なんて言われてますが、
edw-19さんもそう思われますか。家康はそこまで計算してたんですかね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 23:29

 幼くはないでしょう。

享年23才ですから。
15才を元服としても、それから8年。「坊や、一体何を教わって来たの?」
と言う感じですね。
 
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この回答へのお礼

さすがに当時の秀頼が政務を執るとは考えられませんが、
関ヶ原直前の家康の影響力・政治力は強大だったんでしょうね。
末期の豊臣家というと、淀殿や側近たちの影響力を思い浮かべますが、
関ヶ原戦当時はまだそういう時期ではなかったようですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 23:17

関が原前夜豊臣家の所領は直轄領の摂津,河内,和泉三国65万国の他に播磨,近江,紀伊等の上方圏を中心に130万石ほどを所有しており、それらは所領の近隣の大名の代官地となっていました。



例えば石田三成は本領の近江佐和山19万石のほかに近江国伊香郡,浅井郡等に5万石ほどの代官地を管理していましたし、関が原合戦前に親家康派の大名に豊臣領の内から徳川家康が筆頭大老の名目で領地を与えたりしています。

これらの代官地を管理していた大名が改易されたり、加増されて国替えされ、代官地の所有があいまいになって、結果的に豊臣家の所領が直轄領の三国だけになったのだと思います。
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この回答へのお礼

天下人の割には領地が少ないような感じですよね。あっさりと凋落が始まったのは、豊臣家のシステムに問題があった上に、
ドサクサにまぎれた家康のしたたかさってとこですかね。回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 23:05

秀吉が晩年に、必要も無いのに大量虐殺したので家臣の心は半分は見限られてましたよ。



普通に今の企業でもよくあることですね。
老人がいきなり人が変ったようにリストラ解雇の嵐。

これでは混乱は無理からぬことです。
乱心のとばっちりで落ち度も無い大名がお家断絶になる始末。
それに、元々秀吉家臣は近江長浜城主の前後の家臣とで分裂していましたしね。
双方の間に居たのが竹中半兵衛と異母弟・秀長という行動はえげつないが権力欲は無かった二人だったらしいです。

この二人無き時点で豊臣の崩壊は決定的になったのです。
家康はその亀裂をキレイに割っただけですよ。
組織の権力者が無意味に人を殺すことは没落の始まりだと言うコトに気付かないのでしょうかね。

現代の組織にも同じ事が言えます。
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この回答へのお礼

秀吉も晩年は色々と失策が目立ちましたが、それらをカバーできる身内が少なかった(いなかった?)のは
彼にとって不幸でしたね。豊臣政権崩壊は必然だったのでしょうか。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 22:59

関ヶ原の戦いというのは、豊臣政権のなかでの派閥争いです。



家康は、後日豊臣家を滅ぼしますが、当時は、豊臣家の五奉行の筆頭です。もちろん、この時点から家康の野心に気付いた人が何人いたかは、定かではありません。
福島政則も小説などでは、三成憎さだけで家康方についたというのが多いですね。
これも小説などですが、山内和豊などは、例の「ちよ」さんが、家康派についた方がよいと旦那の尻を叩いたようです。
また、清正は正妻の「ねね」の意見から、これからは家康派となった方がよいという忠告を受けています。

この時点では、三成か家康かという選択肢であり、決して豊臣家の勢力削減というように見せなかったのが、家康の家康たるゆえんでしょう。
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この回答へのお礼

徳川方についた大名達もあんな結果になるとは、予想してなかったのかもしれませんね。
よっぽど石田三成は人望がなかったようですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 22:54

こんにちは。



豊臣政権?は関が原以前に既に崩壊寸前でした。
福島正則、加藤清正などの武断政治派と、石田三成、小西行長らの文治政治派で対立が激化しており、いずれ衝突が避けられないような状況だったようです。

家康はそこに付け込み、三成グループを奸臣に仕立て上げたのでした。

石田三成に荷担した大谷吉継は、三成に相談された時、家康の策動を既に認識し、三成を押しとどめたと言われています。

そもそも加藤清正、福島正則が家康の謀略に気づいていれば荷担する訳がなく、家康の意見を真に受けて豊臣家臣団の分裂を決定的にした時に豊臣家の没落は決まったと言えるでしょう。

もし関が原に豊臣秀頼が出陣するような事になってれば、確実に立場はひっくり返ったでしょうね。

それが出来なかった秀頼、豊臣家臣団を分裂させた対立が豊臣をやせ細らせ、家康の台頭を許したといえると思います。
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この回答へのお礼

加藤や福島といった武断派の大名達が、懐柔されたとはいえ、
あっさりと豊臣の凋落を招いたことは彼らに見通しの甘さがあったんでしょうかね・・・。
福島正則などは、家康との融和が豊臣を救うと本気で考えていたみたいですね。回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 22:50

戦いの名手は、情報戦によって、戦う前から、勝ちを得ていたといいます。


真偽がわかれば、また、面白いと思いますが、このサイト内で、孫娘「千姫」を貶める噂を流したのは、家康ではないか?という回答を頂いたことがあります。
秀吉との体格の差から、「ほんとに秀吉の子かなぁ」との噂を流せば、豊臣恩顧の大名たちも、気を削がれる・・・。
ほんの推理です。
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この回答へのお礼

秀頼が秀吉の実子でないという説はありますが、当時も噂されていたん
でしょうか。秀頼はかなりの大男と伝わってますよね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 22:44

 こんにちわ。

愚見を申しますと関ヶ原の合戦後、豊臣家の領土、勢力が大きく削がれたとありますが、実際削がれたのは豊臣家の直領ではなく、西軍に加担した大名の領土の方がそういった対象となったのが実情ではないでしょうか。
 豊臣家というのは、支配者の割には直領が驚くほど少なかったと言われております。おそらく土地よりも貨幣や金銀などの経済面、堺や大阪などの経済発展地を面ではなく点で押さえていたんでしょう。
 上杉家、島津家、毛利家、長宗我部家など大大名と言われていた西軍加担の家は領土削減または取り潰しなどの憂き目にあっています。
 つまり関ヶ原は両者が名目として秀頼の代官として戦ったわけなので、東軍の諸大名も「これも秀頼様の御為」という大義名分の護符を持っていたわけとなります。なので良心の呵責というか、本当は利害関係において家康についたわけなんだけど、とりあえず彼らからしてみれば豊臣の為に戦ったんだという言い訳が立ち、心の整理はできたんだと思います。

 中には当然利害ではなく、家康の言う「秀頼公の為」を馬鹿正直に信じてしまった遠方の大小名もいたことでしょう。加藤家とか福島家とかですね。後にあっけなく取り潰しにあっていますが。この人達は愚直に家康が豊臣を守ってくれると信じていたんでしょうね。

>家康はどのような手段を使ったのでしょうか。

 世話になった人を裏切らせるのだから、その人の立場に立った、つまりうまい言い訳を考えてあげたんでしょう。家康に言わせると「これは裏切りじゃないよ、豊臣の為なのよん」って工作することで人心を収攬していったんでしょう。

 以上、専門的な回答ではまったくありませんがこんなんで如何でしょうか?
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この回答へのお礼

豊臣家ってのは意外と経済基盤は脆弱だったんでしょうかね。
他の大名に預けていた土地があったと聞いてはいましたが、
ずいぶんとそれの影響が強いみたいですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/21 22:42

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