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太平記を読んでいると、比叡山の延暦寺や三井寺などが政争に巻き込まれて、
僧たちが武器を持って武士たちと戦ったりします。
その中には「俺こそが世に聞こえた怪力無双の○○法師だ!」みたいな悪僧が出てきて活躍したりします。

普通の僧は、いつもは寺で静かに仏教の修行をしていると思うんですが、
こういう力自慢・喧嘩自慢の悪僧たちも、
やっぱり普段は真面目に仏教の修行に勤しんでいたんでしょうか?
それとも、寺院の側からは僧侶としての期待はされていなくて、
何か起きた時のために雇われている傭兵的なものだったんでしょうか?

比叡山の衆徒三千人という表現が出てくるので、
三千人もいれば喧嘩の強い人もいるのかな・・とは思うのですが、
でもそんな戦いが好きな人なら最初から出家せずに武士に雇ってもらって
戦場を駆け巡った方がいいように思えます。

もしかして延暦寺などの組織構成が、普通の修行をする一般部門と、
戦い専門の体力部門に分かれていたのかな・・などとも思ったのですが、
実際のところ、どうだったのでしょうか?

A 回答 (3件)

補足です。


大きな寺には学侶と大衆という2つの階層がありました。
このうち学侶というのが寺で学問をしたりする今の概念で考える僧侶で、大衆というのはその修行をささえたり寺の日常業務の執行を手助けする人々でした。
この大衆が武装したものかいわゆる僧兵ですが、場合によっては本来学侶であるはずの階層出身者がそういう大衆といっしょになって彼らを指揮したりすることもありました。
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この回答へのお礼

なるほど、ちゃんと組織が分かれていたんですね。
言われてみれば、大きな寺を維持していくには、全員が学問に没頭してては
運営していけないから、下働きのような人も沢山必要なわけですね。
でその人たちが、戦さがあれば僧兵になったりしたと。
力自慢の悪僧たちは、なにも、悟りを開くために出家して
寺にいる訳ではなかったんですね。
納得しました。

お礼日時:2007/10/07 23:41

私の身分は○○です。


と、一つに言い切れるようになったのは、近世以降、兵農分離などが進められたためです。逆に言うと、兵農分離されていなかったから、織豊政権時代に兵農分離が進められた。太平記の時代は、兵であり農であり商である、一人数役が当たり前の時代でした。

上位の権威に、自己の権限(耕作権であったり、徴税権であったり、商業権であったり、いろいろ)それらを個別に承認してもらうシステムが、中世のシステムです。その上位の権威が、源氏の棟梁だったり、摂関家だったり、天皇家だったり、ばらばらであります。
源氏の棟梁に権限を承認してもらうシステムが、(在地武装農民としての)御家人=将軍システムとなります。
同様なシステムが、中世的権威として、大寺社にはあり、将軍に権限を承認してもらった人が御家人であるように、寺院に権限を承認してもらった人が、僧兵となります。神社なら神人(じにん)となります。

現在の企業でも、普通の会社は「株式会社」と名乗っていますが、保険会社では「相互会社」と名乗っています。が、実態は同様な営利追求企業として、ビルを建てて賃貸にして収益を取ったり、株式投資をしたりしています。

たぶん、中世の人の感覚での僧兵と武士は、現代人の○○生命社員と、□□株式会社社員との違い程度ではなかったでしょうか。
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この回答へのお礼

「僧兵」「神人」「御家人」などを字面でイメージすると、
まったく違う身分で考え方もまるで違う人々みたいな感じがするのですが、
本人がどうこうではなくて、どういう権威のもとに活動しているかで
呼ばれ方が変わってくるんですね。

会社の喩えは分かりやすかったです。
僧兵と武士では、本人的には「雇い主の違い」ぐらいの感覚しか
なかったのかも知れないですね。

お礼日時:2007/10/08 00:54

彼らは僧の身なりはしていますが、一般の修行僧ではなく僧侶の日常業務を支えたりするのが仕事でした。


別に戦闘だけに従事していたわけではありませんが、なにかあれば武装して戦うのもしょっちゅうでした。
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