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どんなに悪い人でも自分の行った行為を正当化しますが、正当化という意味において、自分は正しいことをしたと思っているということだと思います。
そう考えると、悪人も悪人らしいやり方で善を行っているという事になるでしょうか。

A 回答 (3件)

まず「善」「悪」とは相対的なものであるとか、そもそも絶対の悪人というものが存在するのかといった問題があがってくるでしょう。



私個人は不本意ながら、いわゆる「悪い人」と分類されてしかるべきような人に、これまで比較的多く接してきているほうかと思っておりますが、それにしてもスッパリと「悪人」と一括りにできないものだなということは常々感じております。

仮に何か「悪い事」をした――それは他者に対して不利や損害をもたらすものだとは予想もせずにやってしまうこともあるわけですし、心底では分かっていても敢えて、そこから目をそらして、しかも「目をそらしている」ということ自体にすら目をそらして、行為に及ぶこともあるわけです。
もちろん、すべて承知のうえでやることもあります。

尚且つ、事後になっても、その事を認めない、「正当化」という行為においても、「気がつかずにやってしまった」「良かれと思ってやってしまった」等と言い訳する場合でも、自身の本心から目をそらしていることもありますし、「目をそらしている」ことから目をそらしている、ということにすら気がつかないでいるということもあります。
或いは、「悪い事」と承知してはいたものの、それをやることが自分や自分にとって大事なものを守ることになるからやったのだ、という正当化もあります。本人にとっては「正当防衛」である、という主張でしょうか。

私は身近の者で、悪辣極まりない事をやっておきながら
「ああ、そうさ、やりたいからやったのさ、私は、こういう気性なんだよ、それがどうした、お前がそういう星のもとに生まれたことを嘆くんだね」
と言い放った者も実際知っております。
ですが、その同じ人物が、重大な悪意を与えた者の娘である私自身に対しては周囲が驚くほどに可愛がってくれたという事実もあるのです。
人間の心理というものは一筋縄ではいかないものだと思いました。

さて私自身は、善悪が所詮、相対的なものであるとして、それでも実際のところ、どこかで線引きをしなければならないとしたら、それは他者の最低限のテリトリーを、差し迫った理由や必要なく犯した場合、これを「悪」と見なして対処に及びます。

しかし、それにしても、何が「最低限」で、何が「差し迫った理由」で、何が「要不要」であるかの線引きも、これまた個人個人によって差があるようですから、自分にとって最低限のテリトリーを犯してきたと思ったら、なるべく早い段階でハッキリとした意志を表明します。また図らずも知らず知らず自分が他者のテリトリーを犯していたと気づけば、その時点で何らかの対処をします。
それについて相手側が異議を申し立ててくれば、じゅうぶんな話し合いを持つ心構えも持っておりますが、こちらの意思表明に対して何ら当を得た対応もなく、問題行為が継続される場合には、いわゆる「悪」であると見なします。

以下は私が、かねてから参考にしているものです。

「…殺しを行わなければならないときには、それに伴う苦痛や苦悩を真正面から受けとめるべきである。さもないと、われわれ人間全体が、自分を自分の行動から隔離することによって邪悪なものになってしまう。なぜなら悪というものは、自分自身の罪の意識を拒否することから生じるものだからである。」

この「自分自身の罪の意識を拒否する」このことは一つのカギを含んでいる、それは先述しましたように「目をそらす」ということにもかかわっていることだと思います。

「…善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって「善」とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている。これはとりもなおさず虚偽であり、私が彼らを「虚偽の人々」と呼ぶゆえんもここにある。虚偽とは、実際には、他人を欺くよりも自分自身を欺くことである。彼らは自己批判や自責の念といったものに耐えることができないし、また耐えようともしない。・・・我々が嘘をつくのは、正しくないと自分で気づいている何ごとかを隠すために他ならない。嘘をつくという行為の前に、何らかの良心が基本的なかたちで介在するのである。」
―『平気で嘘をつく人たち』M・スコット・ペック 森英明 訳 草思社―

「いじめが深刻な問題となっているとき、単純に矛盾なしに考えれば、悪意を持った悪い人間がいじめをすると考えることができるだろう。これが正しいものであれば、その悪意を指導して善に導くということがいじめの解決になる。このこと自体は難しいことかもしれないが、方針が決まれば何かやりようはあるだろう。しかし、この方針で深刻ないじめを解決した学校はないのではないかと思う。」
「いじめという深刻な問題は、矛盾なしにそれを考えては、現象的な理解にとどまり本質がつかめないのではないかと思う。板倉さんは、「いじめは正義から起こる」という逆説的な発想でこのことを考えた。いじめをする人間、特に深刻ないじめをする人間は、悪意のある悪い人間であるよりも、むしろ善の意識の強い正義の人である場合が多いというのがその発想だ。この矛盾した本質がいじめの解決を難しくしていると考えたようだ。」
「この発想は、いじめ問題の専門家である内藤朝雄さんの考え方などとも通じているように見える。内藤さんは、いじめに関して個人の資質よりも中間集団全体主義という環境のほうを、より大きな要素として考えていた。これは、その集団の存立条件を正義だと考えるなら、その正義を守ろうと強く意識する人間こそが全体主義を強めて深刻ないじめに走ると考えられるだろう。」
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/509400 …

結局、どの地点から「悪」に相当する行為になってしまうのかを判断する能力の問題や、自分自身の内面性と正面から向き合う努力ができるかどうかということが問われてくるのではないかと考えております。
恐らく自分自身の内面と対峙する能力に欠ける人は他者に対しても、そうであるだろうと思います。

蛇足ながら私個人の感覚を申し添えれば、自ら、「悪」をなした事を堂々認める者よりも、少なくとも「良からぬ事である」くらいは気づいていながら、露見した頃になって、あれやこれやと正当化のための言い訳をする者のほうが尚いっそう見苦しく感じます。
言い訳をしたり正当化に汲々とするということ自体、単なる小心者であり、ホンモノの「悪人」とは言えないのかもしれません。

本当に「悪」そのものを愛するのであれば、言い訳も正当化も無用なはずです。もし、こうした人が存在するならば、彼らにとっては「悪」そのものが「善」に他ならないのですから「悪」を「善」に見せかける必要すら感じないでしょう。とは言え、こうした人は、まず周囲のほぼ全員から精神の異常を疑われるでしょうから、やはり「小心」から生み出される「悪」が一番タチが悪いというのが実際のところかもしれません。

参考URL:http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/509400 …
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この回答へのお礼

少し哲学的な話になるかもしれませんが、私という存在は、他人や社会、それらを含む地球の自然全体との関係において発現しているのではないだろうかと思います。関係こそが私そのものじゃないだろうかと思うのです。もし、生まれたときから一人きりなら私という自我は生まれないだろうと思います。
そして、この善悪も関係の上に存在しているのではないだろうかと思います。他人がいない世界で善悪は存在し得ないだろうと思うからです。
一般的に悪とは他人に危害を加えたり、権利を侵害したりする行為をさしますが、それは他人との関係を破壊する行為と見ることができるのではないでしょうか。
前述のとおり、関係そのものが私とするなら、関係を破壊することは私を破壊するのと同義と思われます。ゆえにどんなに悪を働いたとしても人は正当化や自己弁護という方法で何らかの関係維持を企てるのではないでしょうか。関係維持はイコール自分自身の維持でもあるわけですから。そういう意味で人は本物の悪にはなれないのだと思います。

結果だけを見て善悪を判断することはできないと思うのは、結果が関係においてどう働くかによって善悪の評価は違ってくると思うからです。
また、関係は相対の中にありますが、関係を破壊するという一点において悪は絶対であると思います。
今のところですが。

お礼日時:2007/10/10 09:19

善が何かを定義するのが難しい事だと思います。

善とは何かは、人や場所、時代によって異なるからです。本人の世界観では善でも、他人の世界観では悪ということもあるでしょう。悪人が行為を正当化する時、本当は悪いと思っていても正当化する場合と、本気で正義だと思っている場合と二つ考えられるでしょうし・・・。

例えば戦国時代、下克上で主君を倒し、国盗りをした人たちは「無能な人間が国を治めるより有能な自分が国を治めたほうがいい」という正義で自分の行為を正しいと思っていたでしょう。しかし秩序や伝統を重んじる様な人から見ればそれは悪だからです。

善や悪というものは絶対的なものではなく、時代の支配者や社会を構成する人の意思によってきまるという事です。

社会学で逸脱行為(犯罪など)について言われている事ですが・・・
「悪はそれが悪であるから悪であるのではなく、社会や人々が悪だと考えるから悪である」ということです
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この回答へのお礼

相対的な善悪というものがあるんでしょうか。

お礼日時:2007/10/09 22:51

正当化には本当に正しいと思っている場合と正しくないと思っていても自分を守るためと2つの場面が考えられると思います。


正当化と善悪とでは意味が違います。
正当化は善悪に関係なく正にしようとすること。
ソクラテスの時代のゴルギアスのような弁論家なら善悪に関係なく正にしてしまうでしょう。
善悪は意見や状況などまったく無意味で客観的な結果により決定すること。
人を殺せばどのような理由があっても殺人と言うその行いについては悪となります。
善悪の判断は国や民族・その他により変わってきますがその国に生きている以上はその国の法律や人道上などの観点から善悪はきまります。
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この回答へのお礼

>結果により決定すること
これだけで決められるときついですね。

お礼日時:2007/10/09 22:49

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