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3月10日以外の4月13日夜半5月24,26日にの空襲について。
投下弾量は310とあまり変わらなかったのではないでしょうか。
そらなのに被害が少なかったのは地域的な差があったのでしょうか。あるいは防火体制が強化されていたか。それから、310で一部池袋あたりが被弾していますが、これはなんででしょうか?

そして、310だけしか一般に知られないのは、マスコミ体質、皮相的一般的体質のせいでしょうか?

A 回答 (4件)

この辺の事情について、私のバーさんに聞いたことがあります。

当時バーさんは50歳前後(1895年生まれ)、住まいは東京の飯田橋で亀戸(の某石鹸会社)に勤めに行っていました。
・何しろ一回目の3月10日で人口密集地の家屋はほとんど焼けてしまい、次からはその辺りで焼ける物が無くなっていた。つまり防火体制が強化というより、燃えるもの?が無かったのでしょうね。
・被害者についていえば、3月に焼け出された人たちで、それ以降も東京に住んだ人は、お堀っ端や河っぷちに防空壕を掘って住んでいた。平地の(庭の)防空壕が空襲で何の役にも立たないことを知ったので、水のある場所の斜めになった所に横穴式の壕を作るようになった。そのため被害が減った。
・2回目以降の空襲は山の手が襲われたけど、山の手は家が広いし、緑も多いからあまり実害が多くはなかった。私の記憶でも新宿西口の高層ビル街なんて戦後も浄水場以外何もなかったですから。
・3月の空襲で分かったことは、火を消そうとしても無駄で、とにかく身軽に逃げる、それしかない。つまり日頃やってること(消火訓練)なんかをやる馬鹿や家財を持ち出そうとする欲ボケは死ぬ。まぁ、そういう教訓はバーさん以外にもみんな分かったでしょうね。
とのことです。私が子供の頃(昭和30年代前半)は、お堀の横穴に住んでいる家族もまだいましたね。
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この回答へのお礼

生き証人の言葉は参考度が高いですね。
310の教訓と、被害地の住宅密集度、そういう要因らしいですか。

お礼日時:2007/10/27 11:17

空爆による被害は目標地域、爆撃方法、その日の気象条件などにより、変わります。

3・10, 4・13、 5・23、 5・25の投下弾量はそれぞれ、2000、 2100、 3600、 3200トンと伝えられ 、3・10の空襲はこの中では規模が小さいものです。
しかし目標が古い木造家屋が密集した下町地区(町工場も密集し兵器部品工場もあった)で周囲に焼夷弾を落とし火災を発生させると、手が付けられず火の海になる地区でした。   気象条件も運悪く大火災になり、面積でも最大、人的被害は想像を絶するものになりました。
他の爆撃は山手地区など郊外で、面積ではかなりのものでしたが、5・25がやや大きかったほか、人的被害はそれほどではありませんでした。
4・13は赤羽の造兵廠を目標にしたもので、池袋はとばっちりを受けました。
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この回答へのお礼

やはり、規模は同程度のものが繰り返されていたようですね。そのが一番知りたかった点です。そう考えると、住居密集度とか防火体制、そういうものが被害を極端に増大させたり縮小したりする例なのではないでしょうか。

お礼日時:2007/10/27 11:19

当時の東京の人口分布は現在よりもだいぶ東に寄っていました。

新宿や渋谷は「新開地」で、今のつくばエクスプレスの駅のようなイメージです。では信じられないことですが、渋谷より上野が都会とされていました。渋谷で育った作家の宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」を読むと分かります。

3月10日の空襲は、上野駅より東の地域を完全に灰にすることを狙ったものでした。まず周辺部に投弾して火災を起こさせ、次いで中のほうに順次投弾して全体を火災で覆い、最初の投弾による火災で逃げ場を失った民間人を焼き殺すという、それまで日本への空襲では取られなかった手法が取られました。

さらに、東京のこの地域は水路が網の目のように存在して、片方は海ですから逃げ場が限定されます。焼夷弾が落ちても延焼しにくい広い緑地(例えば新宿御苑)も皆無に近い状態です。「周りを先ず火事にして、次いで中の人間を全て焼き殺す」には最適の地形です。

当時、米軍が「都市住民を焼き殺すためだけの大空襲」を行うとは日本側が考えていず、有効な避難が出来なかったのも、極度に大きな被害がでた理由です。

10万人分の焼死体といえば、関東大震災による死者行方不明者に匹敵しますが、想像を絶する量の死体が一夜にして発生したことになります。しかも、この方法による「低高度で焼夷弾を投弾する都市夜間無差別空襲」は3月10日が初めてでした。「3月10日の大空襲」が特筆されるのは、他の空襲に比べて一桁か二桁多い死者数から言っておかしくないと考えますが。

「310で一部池袋あたりが被弾しています」
道に迷ったB29が適当に投弾したのが池袋の上空だったのでしょう。深く考えないで下さい。
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この回答へのお礼

参禅の東京は、山手線の東半分が主な繁華街だったことは承知しています。しかし、思いのほか、西は広々としていたんでしょう。その差がもろに出たという認識でよろしいのかと思います。
310のやり方は最初だったので、しかも被害が甚大であるので特筆されるということでしょうね。

お礼日時:2007/10/27 11:22

参加する航空機の数からすると、はっきりとした投弾量はわかりませんがそれほどの大きい差はなかったかもしれませんね。

被害の差ですが、3/10の空襲で東京の1/3以上が焼け野原になっています。もうそんなに大きな被害が出るほどの場所が残っていなかったのではないでしょうか。特に5/25(5/24)の空襲は山の手が中心です。下町に比べれば住宅も密集していないですし、人口もそれほどではありません。3/10の空襲を目の当たりにして疎開した人も結構いたと思います。

>そして、310だけしか一般に知られないのは、マスコミ体質、皮相的一般的体質のせいでしょうか?

そりゃ、考えすぎ。なんでもかんでもマスコミが悪いって思うのもある種の思考停止です。日本人でメジャーリーグに初めて挑戦した人といえばマッシー村上あるいは野茂英雄とほとんどの人が答えられるでしょう。でも、野茂の次は誰かと聞かれると即答できる人はほとんどいないと思います。ワールドカップの第二回優勝国とか、第二回オリンピックが開催された場所なんてのも答えられないですよね。つまり、最初はみんな覚えても、次ってインパクトに残らないんですよ。
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この回答へのお礼

どうやら、同規模だったようです。
山の手の住宅密集度はだいぶ下町と違ったのでしょう。その差がもろに出る、言い換えると、下町というのは焼夷弾攻撃にとってまったく脆弱であるということなのでしょう。
たしかに最初というのはインパクトが違います。

お礼日時:2007/10/27 11:20

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