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近衛兵について
亡くなった祖父は大正生まれで、戦時中は皇居を警護する近衛兵でした(他には満州などにも行ったそうですが)当時皇太子の天皇陛下とお話をしたこともあったそうです。
しかし分からないことがいくつかあります。
①祖父は北海道出身の北海道育ちで当時も北海道にいましたが、それぞれの都道府県から選抜のようなものがあったのですか?
②近衛兵に選ばれる基準のようなものはあったのでしょうか?
お分かりの方がいましたら教えて頂きたいです。

A 回答 (2件)

ご指摘のように、通常の連隊(師団)は連隊区と言われる


特定地区からの徴兵で構成されました。
近衛師団は、各地区から品行方正・成績優秀なものが
選抜されました。このため、出身地区はバラバラですが、
装備は再新のものが最優先で配備されるなど
いろいろと特別扱いされていました。

1926年(大正15年)には、他の歩兵・騎兵連隊とは区別され、
比率に制限を設けないことが示されています。
「近衛歩騎兵聯隊兵卒進級に関する件」(P4)
(アジア歴史資料センター レファレンスコード:C02031269700)
  近歩兵、騎兵連隊の兵員は各師団より之を徴集し
  且他部隊の兵員に比し其の素質優良なる者を
  入隊せしめあるをもって同一編制定員の比率に
  極限するは妥当ならさるによる



さて、戦時中に皇居の守護をされたのなら
当時の近衛第一師団だと思います。
ちなみに、マレーに進出したのは当初は近衛師団でしたが
その後の改変でこの部隊は近衛第二師団になりました。
東京の留守部隊を基幹に新たに近衛第一師団が編成され、
その後、戦争後期には近衛第三師団まで編成されました。
近衛第二師団はそのまま進駐先のスマトラで終戦を迎え
近衛第三師団は本土決戦に備えて千葉に駐留していました。
皇居の警備はそのまま近衛第一師団が行いましたが、
宮城事件に巻き込まれ、師団長が殺害されました。
この辺りは「日本のいちばん長い日」で
映画化されています。

日中戦争時には、なかなか出動命令が出ないので
一部で「お飾り師団」と揶揄されていたため、
当時の師団長飯田貞固中将が天皇陛下に直訴して
南志那方面軍として広東に進駐しました。
また、2.26事件では天皇陛下自身が
「朕みずから近衛師団を率いて此れが鎮定に当たらん」
と発言したことでも有名です。

近衛師団に配属されるのは大変名誉なことなので、
地元で一目置かれるような優秀とされました。
選考基準には上がっていませんが、眉目秀麗と言われて
いくつも縁談の話が来たという逸話もあります。
優秀なおじいさまでよかったですね。
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この回答へのお礼

非常に参考になりました!ありがとうございます。

お礼日時:2017/11/29 23:57

①近衛兵は、明治維新の際各藩から提供された天皇直属の兵士が発祥です。

従って第二次大戦敗戦まで、全国から選抜されたのです。3個師団からなり、日清日露の戦役では、最精鋭師団との呼び声が高かったのですが、日中戦争への出陣は遅く「お飾り師団」との嘲り原因となりました。

②天皇直属の兵士なので、各地方の地主階級他、家柄のしっかりした家系から選抜されました。当然にも甲種合格ばかりで、健康で体力、運動神経に優れた兵士が選抜されました。

私の義父も近衛で太平洋戦争を戦いました。シンガポールでは山下軍団に所属し、敵前上陸に成功したものの、英軍の反撃で大打撃を受けて全滅寸前まで追い込まれたそうです。
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この回答へのお礼

非常に参考になりました!ありがとうございます。

お礼日時:2017/11/29 23:57

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