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伊達政宗について調べたのですが、18歳の時に家督をついで23歳のときの版図は150万石あるそうです。(家督を継いだときはどのぐらいかはわかりませんが、150万石のうちの90万石は総無事令以降の3年間で拡大した領土・・だと思います。)
一方、織田信長は伊達政宗と同じく18歳の時に家督をついで31年かけて800万石もの版図を築いた人です。あと数年あれば天下統一もできたのではないでしょうか。ただ、伊達政宗と同じ23歳のときには150万石ところか唯の”うつけもの”で27歳の時の桶挟間の戦いまでは何もしていなく、天と地の差で負けていると思います。

優秀な大名NO1,NO2は間違いなくこの2人だと思うのですが、いったいどちらがすごいのでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

どちらともいえない、と思います。


信長も政宗も親の影響が大きいですし。

織田信長は桶狭間まで何もしていないわけではありません。
尾張内の織田家を取りまとめるため、各地で奮戦しています。
尾張統一が桶狭間の前後ですら微妙だったはずです。
織田家は元々、尾張守護の末端家老だったわけですから、それが尾張の主となろうとすれば当然阻止する人たちが出てくるわけです。

伊達政宗は一応、街道七家や相馬、佐竹などと敵対勢力に囲まれていたものの、古くからの大大名で領国は安定してました。
また、胤宗や晴宗の時代で大きく躍進しており、その余勢もあったかと思います。なので信長に比べ、領国外への進出は容易であったと考えられます。

このように、与えられた基盤が違うのですから、単純に比較はでき無いと思います。
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どちらが優秀かを判定するなら文句なしに織田信長です。


鉄砲の戦いに切り替えた先見性に加え、本能寺の変がなければ、天下統一は間違いなく成し遂げていました。
朝廷から右大臣に任じられ、死後に従1位が贈られています。
伊達政宗は1国の大名でしかありません。

どちらも親の代から大名です。引き継いだ禄高が全てを決めたわけですから、これだけでどちらが優秀と決めるのは無理があります。
むしろ、自分の力で一国を手に入れた斉藤道三の方が凄いです。
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当時の尾張の支配体制は, 守護は斯波氏, 守護代は織田氏で上四郡の岩倉織田家と下四郡の清洲織田家に分かれていました. 信長はこの守護代織田氏の傍系 (弾正忠家) で, 父信秀のころには今の津島のあたりを支配下においていました.


ということで, 信長が家督を継いだあと, 尾張一国を支配するまでにも
・弾正忠家内部の争い
・清洲織田家の討伐
・岩倉織田家の追放
・守護: 斯波氏の追放
といろいろやっています.
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 どちらがすごいと言うことは断定できませんが、東北の農業地帯が基盤であった伊達政宗に対して、尾張・近江・畿内という当時の商品経済・流通の活発な地域を運営する、領国を石高で見るのとはまったく別の視点を織田信長は持っていたと言うことは、忘れてはならないでしょう。



 伊達政宗が畿内の生まれであったら、当然身につけたと思われる才能で、生まれ育った地域の環境の結果だと思いますが、信長の方が幅広い領国統治能力が必要とされる環境で育ち、結果論として彼はそれを持つに至ったと思われます。
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無形の存在である人物の才能を評価するのは、


極めて困難というよりも不可能ですから
実績という点で評価するのが妥当でしょう。
要するに、潜在的にいかに優れた才能があっても、
発揮されなければ意味がないという考えで、
逆に才能が限られている、あるいは他よりも劣っていたとしても、
もてる力を存分に発揮して結果的には他よりも多くの実績を残したとしたら
効率的に才能を発揮したという点で、優れているといえるからです。

で、実績という点において、
織田信長の右に出る者はいません。彼の部下であった秀吉を除けば、
戦国時代のすべての大名よりも優れていたといえます。
完全に畿内を制圧し、天下布武を実現可能なものとできたのは
唯一、信長だけです。他の誰もなしえてません。
しかも信長の驚異的なところは、尾張という弱小勢力に属しならが
同族を統合し、国を平定して、領土を瞬く間に拡大しただけでなく、
隣接する強豪(今川、斉藤、武田、浅井、朝倉、一向衆など)を尽く倒しています。
信長が当主を継いだ時点では、非常に困難な情勢だったにもかかわらず、
天下人まで上り詰めたのは、信長が比類なき才能の人物である
明白な証拠といえます。このようなことができたのはほかにいないわけですから。

対して、伊達政宗ですが、この人の場合、祖父晴宗、父親の輝宗が
伊達家の基盤のほとんどを作っており、奥州で有利な状況にあるときに
これを相続しただけでした。
にもかかわらず、彼は奥州の制圧にすら、成功してません。
秀吉が介入しなくても、おそらく10年後でも奥州の制覇は成し遂げられなかったでしょう。
東北には天下を狙うような大名が存在しないにもかかわらず、
それですから、政宗は大きな実績を残しているとは言いがたいです。
彼は才気のある人物でしたが、東北にはそもそも天下を統一できるような
基盤がなく、インフラも発達しておらず、冬は雪に閉ざされるわけで、
大きな実績を残せるはずもありません。

また伊達政宗の31歳の時の石高は58万石にすぎません。
幕藩体制になった最終的にも62万石です。
150万石などを領したことはないです。
これは織田信長が尾張を統一した頃の石高程度です。
伊達政宗は優秀な大名の一番手と考えるのは、
東北にはほかにめぼしい戦国大名がいないからに他なりません。
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まず、織田信長と伊達政宗を戦国時代の優秀な大名の一、二と考えるのは贔屓でしょうね(^^ゞ



織田信長は尾張という商工業の発展した地域に生まれ、斯波氏の守護代の一族でその内の一つの家の家老を代々続けてきた家柄です。父親の信秀時代に尾張国内の津島も押え、実質上守護代と同等の力をつけていました。だから、織田信秀は美濃や三河に出兵し隣国の戦国大名と争うことができたのです。そういう土台の上に織田信長の実力が形成されます。相続の時に弟と争っていますが、事が大きくなる前に弟を降伏させていますので、信秀のときの実力をほぼ引き継いだものと思われます。
そのうえ、斉藤道三の娘との婚姻により、初期には美濃との争いはなく、道三没後は道三の勢力の一部も取り込むことができました。
また、松平元康との同盟で三河方面での戦闘も無くなり、斉藤義竜、竜興との戦闘のために力をつけることができました。

伊達政宗は曽祖父植宗、祖父晴宗の内部対立で衰退した伊達家を父輝宗が治め、これからといううちに政宗に譲りましたが、当時は伊達家の周りは親戚だらけでありながら、それぞれに名門意識があり伊達家を中心にまとまるような状態ではないです。そういう中を親戚を取り崩し討ち滅ぼしながら領地を拡大していきます。ただ最大の勢力時でも150万石にはなっていないですね。150万石は秀吉時代の蒲生氏郷と伊達政宗の勢力の足し算でしょうが、政宗は会津、米沢を手放すときに変わって、他の土地を得ていますので、単純に足し算してはいけません。
なお、政宗が伊達家を継いだのは織田信長がほぼ最大勢力を作り上げたあとであり、全国的にも戦国時代の終焉がはっきりしてきた時代でありますので、無理してでも領地を拡大しておかないと天下統一又は仙道統一はできないことになります。

なお、織田信長、伊達政宗くらいの大名ならば、徳川(松平)、毛利、島津など何人か数えることができると思います。それぞれの時代背景や父祖の実力により最大勢力は変わってきますし、子孫の実力で実際の評価も変わってきます。

この回答への補足

そういう見方もできるでしょうね。一般的に東大生は東北大生より頭がいいと言われているけど,受験の際の家庭とか学校とかの周りを取り巻く環境,その時の精神状態も影響しての受験だから、実はそうとは言い切れないのではないか、という考え方も出来ますからね。

ところで、「ただ最大の勢力時でも150万石にはなっていないですね。150万石は秀吉時代の蒲生氏郷と伊達政宗の勢力の足し算でしょうが、政宗は会津、米沢を手放すときに変わって、他の土地を得ていますので、単純に足し算してはいけません。」そういわれる根拠はあるのでしょうか?150万石と書いてあるサイトもけっこうあるので、すぐにhazu01_01さんの言われることを信じるわけにはいかないのですが。

補足日時:2007/11/03 06:10
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その時代の常識にとらわれない行動ができたかどうかで判断するならば、信長が桁違いでしょう



信玄にしても謙信にしても 戦は、収穫が終わってから、種をまくまでの間しかできませんでした
土地からの収穫を当てにし土地の呪縛から逃れませんでした
ですから 川中島の合戦が 何回やっても決着が付かなかったのです
このことの重要性を どう評価するかです

信長以外は 領地にこだわり続けました ですから隣国を占領しても 部下をそこへ配置することは困難でした
また 主君のいる場所に常時家臣がいることもありませんでした(それぞれの領地から離れられませんでした) ですから 「いざ鎌倉」なのです
何か起これば(主君のいる)鎌倉にはせ参じることが常識であったのです

他にも多々ありますが、信長以前にはこれを改革しようとの発想はありませんでした

謙信は信長より早く上洛していますが 表敬訪問だけで 常駐することなど考えていませんし、できませんでした

信長以降は 領地換えは常識になりましたが、その後 信長以上の改革を発想した武将はいません(できるような状況では無かったとの意見もあるでしょうが)

質問者も 領地にこだわっていて、信長以前の呪縛から抜け出せていません

この回答への補足

すみません。
全体的に理解できなかったのですが、領地を拡大することが戦国大名の仕事というか使命だったのではないでしょうか?織田信長も自身の領地拡大と対抗勢力の領地拡大を阻もうとする姿勢がはっきりとわかるし、領地の呪縛にとらわれているのではないでしょうか?

それと、織田信長が常識にとらわれない思考ができたことはわかりますが、伊達政宗にそれができなかったという根拠はありませんよね。
それに、戦国時代が終わったとはいえ伊達政宗もローマに支倉常長なる使者を送るなど面白い試みをしていますよね。

補足日時:2007/11/01 17:59
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「伊達政宗は優秀な大名の一番手と考えるのは、東北にはほかにめぼしい戦国大名がいないからに他なりません」



政宗の伯父に当たる最上義光を忘れないで下さい。義光は妹の嫁ぎ先である伊達家とも戦いと和睦を繰返し、中央権力とも上手く連携して、関ヶ原の合戦の後には伊達政宗と概ね同等の領地を確保しています。

※ 関ヶ原の合戦の後の状態で、領地据え置きの伊達政宗と大幅加増の最上義光は表高は共に約60万石、実高は共に100万石程度だったと言われています。稲の品種改良が進んでいない当時は特に、日本海側の方が夏が高温になり安定した稲作が期待できます。庄内地方を上杉家から獲得した最上は日本海の海運拠点も手に入れていますから、最上の方が恵まれた領地を得ていたといえるでしょう。当時、東北の太平洋側の海運などはなきに等しい状態です。

義光の死後、10年もせずに最上家が改易されてしまい、最上藩の史料は多くが散逸してしまいました。そのため、最上義光の事績もcaesar-x2さんのような識者にすら忘れられてしまっているのは残念なことです。
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この回答へのお礼

>伊達政宗は優秀な大名の一番手と考えるのは、東北にはほかにめぼしい戦国大名がいないからに

それをいってしまったら、織田信長だって近畿圏に弱い大名しかいなかったからともいえますよね。各地方に強い大名が1名しかいないというのは当然の成り行きというか・・
それと、関ヶ原の戦い後に徳川家康が勝ったこと自体予測不可能で、ある意味運だと思うのですが・・
最上義光についてはほぼ知りませんが、信長の野望でわりと有能だったのは覚えています。

お礼日時:2007/11/01 17:53

ダーウインの進化論によると、異種との戦いよりも同種同士の戦いが、生き残りのために最も壮絶な戦いをするそうです。

イギリスという小さな島国で壮絶な戦いに生き残った雑草が偶然オーストラリアに運ばれて、そこで既に壮大な領土で繁茂していた土着の雑草を、イギリスの雑草が一気の駆逐した事の原因を論じています。そして、その分析によりダーウインは、進化論の方が神による創造説よりもより真実に近いものと確信を持ったと「種の起原」に書いてあります。

今手もとには有りませんので正確な年と著者の名前は覚えておりませんが、太平洋戦争直前頃、陸軍大学校の教授で中将だった方が、ナポレオンと信長と秀吉の戦い方を分析していた書物を、早稲田大学のそばの古本屋で10年以上前に見付けました。

それによると、信長は家督を相続してから桶狭間のデビューまで、狭い土地の中、身内で壮絶な主導権争いをしていたそうです。その狭い土地を平定する間、信長は日本史に出て来る余裕すらなかった。しかし、その間に信長はあらゆる戦法を習得したと言うのがその中将の意見でした。それはちょうどイギリスの雑草が生き残りのために狭い領域であらゆる戦法を学んだのと同じです。だから、広大といえどもオーストラリアの雑草など敵ではなく、瞬く間にその雑草を駆逐できたのです。

その中将によると、同じように信長が桶狭間で日本にデビューした時に、広大な今川雑草大名などを一気に駆逐できたとの主張でした。ですから、伊達政宗のように親から広大な財産を貰ったということは、本物の実力には一切関わりがないということを、日本の歴史は教えてくれているようです。

学問の領域も同じで、昨日まで権勢の誇っていた学派が、信長のような片田舎の実力者に一気にその座を奪われて来たのが、その歴史のようです。例えば、量子力学のコペンハーゲン派を見て下さい。それまでの、ドイツ,フランス,イギリスの学派はデンマークンの田舎者に、こてんぱにやられてしまいました。

小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、石原など、親がかりの力など、昔の田中角栄のような自らの実力で成り上がって来た者が出てくればオーストラリアの雑草のようにひとたまりもなく駆逐されてしまうと思います。

伊達家は、うまく立ち回って辛うじて生き残ったオーストラリアの雑草だと思います。生き残っていさえすれば、何とか覇権を手に入れる可能性もあったのですが、結局、薩長にそれをも盗られてしまいました。
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最上義光は忘れていませんが、


最上も伊達も両方とも、天下を目指すに値しない
地方大名に過ぎないというのが私の意見です。

伊達政宗も最上義光も両方とも
私は織田信長と並べられるような実績がないと
断言できると思います。

この質問の場合、
比較対象が信長なのでこういうことなんです。

それからよく実高は○○だったというような表現をしますが
それを言うなら、信長や秀吉の場合も、金銭による収入はもっと莫大で
それを米換算したら、圧倒的な桁違いのものになります。
比較する場合は、実高で考えるなら、すべての対象大名を
実高で評価しないとダメです。基準がおかしくなりますから。
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この回答へのお礼

最上義光はともかく、伊達政宗の場合は基盤が織田信長のときよりも
しっかりしていたとはいえ、実績が破格ですよね。
15歳で初陣して、父と共に合戦に参加したり作戦を立てるなどしてるうちに父に武将としての将来性を見込まれ、18歳(1584年)で家督をついで,何度かの合戦を経て東北の伝統があるだけの1大名から23歳(1589年)のころにはには150万石(?)の大名ですから。で、翌年豊臣秀吉に降伏して総無事令以降の3年間に獲得した90万国は減封されて58万石。
これだけの一国が手中に入った状態からこれだけのスピードで領土を拡大した武将は織田信長も含めて1人もいませんよね。
私は伊達政宗なら十分に天下を狙えたと思います。織田信長以上の短期間でとれた可能性もあるのではないかとさえ思っています。

実高で評価しないとだめというのは同感です。
ただ、それがわからないのなら石高で評価するしかないですね。
というか、信長の800万国というのはそういう金銭収入の換算はしていなかったのでしょうか?

お礼日時:2007/11/01 17:46

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