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こんにちは。
NYの大学で勉強しているものですが日本人の村意識と言うものを教授と議論していたのですが、自分ひとりでは納得させる事が出来ませんでした。
村意識というものをもう一度定義していただきたいです。よろしくお願いします。
日本語で結構です。

A 回答 (11件中1~10件)

そもそも質問者さん自身が「村意識」をどういう定義で使っているのですか?


そして、それを日本の地形的特徴とどの様に関連づけたいのか・・・

この回答への補足

説明不足でした、ごめんなさい。

自分としては共同体、いわゆるコミュニティでのムラ意識と国家間での村意識を説明しようとしていました。

大学で受けた授業の中で「島国の人は大陸の人に比べて村意識を持ちやすい傾向がある」と言うのを思い出しまして・・・

個人的には大学で受けた受身的な授業と、しきりの文化論(誰が書いたかは忘れました、何せ高校時代に読んだので)から得た知識と言うか、もはや「覚えていること」で説明しようとしていましたので無理があったかもしれません。

よろしくお願いします。

補足日時:2007/11/27 11:25
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「村意識」という用語に固執すると話が進展しないので


「村意識」を(対 「外」との関係で)「閉鎖主義」と
表現しなおしてみましょう。

 更に「閉鎖主義」にはミクロ→マクロ的に
三段階に分けて捉えると分かりやすいです。

1)個人レベル
2)地域・共同体レベル
3)国・民族レベル

「1)個人レベル」
これは、「他人を受け入れない内気・頑固な人」とでも言えば
わかりやすいでしょうか。

「2)地域・共同体レベル」
これは、ある共同体全体の意識ベクトルを表しています。
一般的に「村意識」というのは、この次元を表象している
ケースが多いです。
 ただ、「共同体」とはいえ、
「宗教団体」等~特定の「地方自治体」、個人の集合体の数に
よって規模が異なります。
 また、このレベルでは特に、いわゆる「問題」とも
蜜にかかわってくるので以前の当方の回答のNoを参照
してください。
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3521448.html

「3)国・民族レベル」
この規模が最大級のものですので、このレベルが主眼点
だと思います。
 江戸後期~敗戦までの間に「国体論」の名で、
鎖国主義→国粋主義に進展してきた事はご存知かと思いますが、
更に、この「国体論」が偏狭な民族主義や侵略戦争の
思想的源泉となったこともご存知かと思います。

 ただ、戦後とはいえ日本人の中に「閉鎖主義」が消えた
わけではなく、本来的「等質的な」民族であるがゆえに
(個人レベルでいう「体質」「性格」)今後も民族性質が
根本的に解消されることはないでしょう。
 この事を如実に表すのが、「日本人の訴訟嫌い」です。
思うに日本人は、親類・知り合い・同窓生・会社の
関係者・同郷人など、何らかの「縁」ある人との関係を
大切にし、その反面「縁もゆかりもない他人」には
気を許さず、冷淡で冷酷に振る舞う傾向があるようです。
 従って、裁判官に紛争の解決を委ねず、知人に不利な
証言をすることを嫌がり、知り合いの第三者の調停を
好むのではないでしょうか。
 その事の根底にあるのが、
従来日本人は「よそ者」に対しては、自分より上位と
見なせば一応礼儀正しいが最後まで気を許さず、下位と見なせば
過酷で差別的な態度をとる(異質なものを受け入れない)
「等質な民族性」に起因すると思います。
***その点、ナチ時代のユダヤ人排斥運動と酷似している点からも
ドイツ人と日本人との間にはかなりの類似点があります。

 そして、「等質な民族性」を更に掘り下げてみると
「等質社会」を崩される恐怖感から「異質なもの」を本質的に
拒絶しているのでしょう。

 以上を私的に結論づけるに
「島国日本の村意識」を定義すると
(対 「外」との関係で)
「等質社会」を崩される恐怖感から「異質なもの」を
生理的に嫌悪する差別的民族性とでもいえましょうか。
もちろん、その反動で
(「内」との関係で)は、身内を大切にする意味で
団結力が強い ともいえるでしょう。

 ただ、アメリカも「異質なもの」を受け入れるかといえば、
いささか疑問です。
 アメリカ国内でも、移民大国でありながらも、
一時期、ユダヤ人&イタリア人 等差別は現に行われていま
したし、特に黒人差別に関しては、過去の歴史が
物語っていたでしょう。

 適切な回答になっていたか自信がありませんが、
何かのご参考までに。
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一概に島国であることが、村意識を高めたとはいえません。


確かにこの国が島国であることは
この国の歴史を語る上で重要なポイントではありますが
そのことと村意識は無関係とまでは言いませんが
直接関係があることには思えません。

「結」とか「もやい」とかという言葉を知ってますか?
「結」「もやい」は簡単に言えば助け合いのことで
助け合いは今でも地方に行けば残っているところもあります。
こういったものは
「惣」とか「惣村」とか呼ばれるものが形成されていった歴史と大きく関係してくるものなので一言で言うのは難しいですが
そういう自治組織内で形成されていった仲間内での取り決めは現在も残っているものもあれば
全く姿を消してしまったものもあります。
たとえば
「惣」に似たようなもので
「講」というのがあります。
これは宗教的・経済的なつながりのなかで形成されたものです。
「無礼講」とか聞いたことありますよね?
あれは「講」から派生した言葉です。
これも形成されていった歴史は一言では語れないので、ご自分で調べてみてください。ネットで検索すればそれらしいのがあると思います。

それから江戸時代に「五人組」というシステムがありましたが、こういったものも少なからず現在の村落には影響があると思いますし
ここのあたり出てきた言葉で
「村八分」という言葉もあります。
「村掟」を破ったら「村八分」という処分を下されるわけですが
この言葉も形を変えて現在も使われている所があったりします。

こういったものは
島国ということだけに起因するのではなく
封建制度やら何やら日本の歴史の流れの中で出てきたものなので
なかなかどれだという定義はしにくいかと思います。

ちなみに
社会心理学という学問の領域で研究されてる方もおられるようです。
http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%83%E3%81%A7%E3%81 …
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 No.1 さんの言うとおり、回答するためのご質問とはなっていなくて。


 日本人性というものはたくさん、お話がありますが、村意識というのをどういう意味でここに出され、且つ、教授と議論された側面とはどんなのだったのかが、判りませんで、どうか補足をお願いしたいのですが。

この回答への補足

皆さんがこんなに真剣に回答していただいてるのに質問の際にてきとうに書いてしまったのが恥ずかしいです。ごめんなさい。

具体例を挙げれば、ブックカバーとかいかがでしょう?日本の人は中身を見られないためにブックカバーをしますが、それは理解されないみたいです。何か悪いことするために本を読んでいるのか?とか思ってしまうみたいです。最近ではおしゃれでカバーをする人も日本で出てきたとは思いますが・・・
要するに自分の「しきり」を作ろうとしてるじゃないですか?個人レベルではこのような会話をしていました。

なお自分の専門外ですのでそこまで深い議論はしていません。

補足日時:2007/12/03 07:10
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 キー・ワードは自他との間での、自己保護的な“境界的壁”や“蔽い(おおい)”ということでしょうかね。


 そうなると“村意識”ということばの内容とはずいぶん異なりますね。
 欧米の方、特にアメリカの多くの方は、一応“ざっくばらん”というか、“あけすけ”のところがありますね。そういう方が確かに多いですね。
 日本人でもそういうことについては、個人差があるのではないですか。“もじもじ”とか“引っ込み思案”とか、遠慮とか、いろいろな心性と連繋し、且つ、まじりあっているのではないですか?
 欧米人の“ざっくばらん”や“あけすけ”に不慣れであるからといって、それを特有的な“村意識”ということばで表現は出来ません。そういうことばで謂われても、何をいっているのかわかりません。
 互いに、関係のない二つのことばではないですか?
 隔てとか、自分を囲っているとかいうことなのでしょうか?
 でもそれはそのように見える面もあるだけではないでしょうか。
 心は、“ざっくばらん”や“あけすけ”の方々以上に、開き、受け入れ、見せているし、入らせています。
 挙措や対応、態度の外容が電燈やネオンでひかっていなくても、日本人は、開き、受け入れ、共にやっていくつもりの人たちです。
 こういうことは人間たる存在の根本的資質ではないですか。
 仰せのタームやカテゴリーでは、欧米人に対照される日本人の外に見える態度の特質の問題を説明する手がかりにはなりえない。
 つまり、どうも何かご質問がわからないのです。
 もう一度、何の事をご質問されるのかを分析整理してくださいませんでしょうか?ご質問の意味が受け取れないのです。 
 
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 私自身も、会話力だけではなく、欧米人との付き合いや対応の際に苦労することは、そして、彼我の自己表現の違いで困ることは、あぁいうふうな態度、挙措の真似ができない。


もう小さい時から。小さい時はできたが、日本人として大人になり、老人になった今日(こんにち)あんな青空突き抜けの態度は出来ないですね。だから誤解やらなにやらあるのでしょうね。
 わたしは戦後の教育で、従来の日本人よりあけすけなのではありますが、それはやはり調子が合わないことがありますね、周囲と。それであわすようにしてきた結果、もう昔のあけすけには戻りにくいですね。
 私自身は東京、浅草に生まれ、育ち、日本人と日本文化を最高に評価しているので、今までも、これからも、西欧や欧米のことはあまり関心を持ちません。
 もちろん歴史や文化はそれなりに勉強はして、一応欧米の法律学や、思想史、哲学(カント、ラートブルッフですが)は原典に勉強はしましたが。一応ですよ。
 ヒンドゥや本邦の文化のものをやったら、もう欧米は全く文化としては魅力がありませんね。基督教も小さい時はたいへんよいと思いましたが、今も思ってはいますが、西欧の心理や思考で濾過しているものが多いのが欠点です。それを除去すると素晴しいと存じます。ゲルマン移動を経ている西欧文化の、ローマの国教化、それから十字軍、大航海時代と、キリスト教の辿った道は、変形の過程ではなかったのでしょうか。
 西欧にキリスト教は存在していますか。民俗・風習ではなく。
 ジーザス・クライストは、あそこでまた試練にお会いになっていませんでしょうか。
 そういう方々の、あけすけや、ざっくばらん。率直さ。
 それが場を決定する唯一にならないように、私達もよく理解してもらえるように、自分の成長に心がけていきたいと存じます。
 でも文化ではあまり学ぶことはなさそうですね。人間としての共通ということでは、共感をし、勉強になることはたくさんありますが。
  
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 欧米や西欧の一部から、或は日本人自身が、島国や狭い村の意識性を云々するのは軽率ではないでしょうか。


 そのようにいう広く、且つ、隔てもなく、自由という世界が欧米や西欧の築いてきている精神や交流、或は貿易関係などの世界、方式というのでは、異なる根源や歴史性のものの、広く、且つ、隔てもなく、自由という世界ではありません。
 両者はともにもっと相手を、お互いの違いを認め合い、シンパスィと尊重の世界を持つべきです。そういう中でお互いの共通の幹や根っこである、普遍というか、広く、且つ、隔てもなく、自由という世界というものを捜し求める、築きあうべきです。
 自分のことばや、態度、方式が広く、且つ、隔てもなく、自由という世界で、国際世界や異文化に物慣れないものを狭隘とか、閉鎖的とか、島国や村意識というのは間違いでしょう。
 十字軍や、大航海時代、植民地政策で東洋やアメリカ大陸をしんりゃくしてきた、欧米、西欧の国際性の根っこ、普遍的意味においては広く、且つ、隔てもなく、自由という世界では決してありません。
 西遊記の孫悟空が、釈尊の手のひらの世界を、世界や宇宙の果てと錯覚して、キントウン(きんと雲)で飛行し、落書きしているのとたいして変わりありません。
 無限のインフィニティと、創造界の取り留めないフラクタルとの違いもそういうことを示してはいませんでしょうか?

参考URL:http://www.yogananda-srf.org/
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誤植


 十字軍や、大航海時代、植民地政策で東洋やアメリカ大陸をしんりゃくしてきた⇒侵略してきた
欧米、西欧の国際性の根っこ、普遍的意味においては広く、且つ、隔てもなく、自由という世界では決してありません。⇒欧米、西欧の国際性の根っこは(はの挿入)、普遍的意味においては広く、且つ、隔てもなく、自由という世界では決してありません。
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 現代の地球は西欧的文化と方式が支配的に席巻しているが、それ自身としても、特に異なる文化系のものに対して、優秀性を主張しても必ずしも通用はしえない。

ただ支配的であるという事実があるだけである。
 支配的な外装があるので、それに則らなければならないということはいえない。お互いの根源と性格を尊重し合うことから開始して、より普遍なる原理を形成し合っていくことが、大事でしょう。一定の国や国民性を、島国的とか、村意識的というレッテルを貼付することはその国や国民自体にも許されない。
 現今、西欧、欧米の方が仮にもそういうお考えがあるとは思えない。
 この国に人類普遍の原理だからと、憲法案を提示した側の方々のはずだから。
 仮に動物界で、食肉のライオンさんや狼さんが、馬さんやウサギさんに、君達はなんと閉鎖的で、狭隘なんだ、防衛的、保護主義なんだ。
 もっと、巣や子ども達も解放しろ、自由に我々と交流し合え。
 我々のやり方の世界に入って来い。自分の枠ばかり大事にしないで、もっと我々をその中にいれろ。君達も我々の中に自由に入って来い。
 少しも遠慮はいらぬ。歓迎するよ。
 といわれても、馬さんもウサギさんもおいそれとは、その通りには出来ませんね。
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 私ばかりですみませんが、貴(女?)様も他人の質問に対面して、コメントを書き込んでいくうちに、自分の疑問が解決していく事もあります。


 http://kikitai.teacup.com/qa3572498.htmlを出しておきました。
 よろしかったらどうか何か、お話をお願い申しあげます。そうしていくうちにご自分の問題が氷解してくるかもしれません。

参考URL:http://kikitai.teacup.com/qa3572498.html
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