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廃刀令、戦乱の皆無(に近い)、仏教的な肉食の禁止、農耕中心主義(農民の割合の多さ)などから、現在の日本人性が生じた流れはありますか?もし、ヨーロッパのように地続きで戦乱が絶えず、かつ肉食が一般的で庶民も銃で狩をしたりするのが一般的であれば、もっと、西欧的民族になったものでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

 まずは聖徳太子の時代に和を以て尊しとなすといのが日本における和の精神の始まりといえます。

また仏教伝来自体がこの時代なので殺生の忌避もこの時代に生まれたと言ってもいいでしょう。あまり意識しませんがものを大切にするという心はアミニスム的な考えもこの当時に生まれていたと思われます。江戸時代における一番大きな変化は官学として朱子学が採用されたことによる儒教的な教えの浸透でしょう。会社への忠誠心など高度経済成長を支えた人間性はこの当時に確立したものであると思います。西洋的になる家のといに関しては支那はヨーロッパほどの規模の地域で言語も同じように多様ですが西洋化はしていなかったところを見るとあまり西洋化のではと思います。
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この回答へのお礼

和の精神はずいぶんと伝統あるものです。アニムズム、儒教もろもろのものが今のわれわれにもまだ続いている実感はあります。

お礼日時:2008/02/16 20:33

こんにちは


日本人の和の精神は「和をもって尊しとなす」との聖徳太子から始まったと、どこかで誰かが言っていましたよ。
私はこれに納得しました。国際社会に通用しにくい日本人の始まりはここにあったのかと思いました。「話せば分かる」が日本人のDNAに刷り込まれているのです。現総理も「日本人の一つ覚え」に言っていますよね、「話せば分かる」と。これが外国に通用するなら戦争は起こりませんね。
和の精神は大事であると思いますが、島国の中の話ですね。残念ながら。
日本が大陸と陸続きであったとしても西欧的な民族にはならないと思いますね。私が思うだけですが、日本人性の成り立ちは環境すなわち四季の存在によるところが大きいと思います。辛い冬の寒さも三月辛抱すれば春がやって来る。春が来ればまた食べ物も作られる。もう少しがまんすれば夜が明けることが分かっているから希望を繋げたのだと。一冬分を蓄えれば生き延びることができると分かっていたから勤勉さが備わったのだと。蓄えの残り分は繰り越し利益として年々溜めていきここまで豊かになったのだと。
もう一つはやはり外からの侵略を受けることがなかったことが大きいのではないでしょうかね。
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この回答へのお礼

確かに4季とうものは人の精神に深く影響します。しかし、同じ四季がある国でもやはりずいぶんと人間性は違う。共通のものもあるのかもしれないが、もっと大きな要素にとかしこまれてしまっているようでうす。やはり島国、アジアの辺境等いろいろ絡み合ったようですね。

お礼日時:2008/02/16 20:35

 「和」が重要なコンセプトであることが文書で確認できるのは、十七条憲法からです。


 しかも、それが別に聖徳太子の発明であるわけではなく、既存の倫理観を文書化したと考えられますから、更に以前からほぼ確立していたと言えるでしょう。

 また、戦乱が耐えなかったのは、実のところ平安中期からです。その後は、一時期、鎌倉幕府などの強力な軍事力を持ったトップが実力も備えていた時期は、比較的平和なこともありましたが、家康が国内を固めるまで、基本的に中央政府による秩序維持なんてものは期待できるものではありませんでした。

 また、江戸時代でも肉食が一般的でなかったわけではありません。鶏は普通に食べられていましたし、猪・馬・兎・鯨なども、特に珍しいものでもありませんでした。肉食禁止は僧侶の戒律であってそれ以外を縛るものではありません。しかも、僧侶でもこの戒律をまじめに守った僧侶は明恵くらいの少数派で、特に親鸞以後の真宗では、肉食妻帯は公然です。

 更に、庶民が武器を持たなくなったのは、明治の廃刀令からではなく秀吉の刀狩以後です。

 基本的に、あなたの想定は、それぞれ別の話過ぎて、不確定要素の大きすぎる IF です。IF を思考実験として考えるにしても、実験条件を揃えましょう。

 結論として、「~流れはありますか?」に対しては、「そう考えるのは無理がありすぎるし、事実に反している点も多々ある」です。
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この回答へのお礼

鎌倉が滅びてしまうと、中央政権もなくなり、政治的にもモラル的にもずいぶんと荒れたあるいは自由闊達な雰囲気が流れたようです。いろいろと複雑に絡んでいるのでしょうね。

お礼日時:2008/02/16 20:37

中国やインドも植民地にされたんですから、あまり変わらなかったんじゃないかなあ。

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一般人として個人的に感じていたのは、聖徳太子の発した和の精神がどの時代に実際の日本人の生活における精神になったのか、に関心がありました。


つまり競い戦う中でもどこかで協調し、打開策・解決策を見つけ、必要であれば人を立て・推すなどして、よい結果を導き出すという精神や考え方ですが、私は北条時宗時代の元が攻めてきたおりには、すでにあったのではと考えていました。
この時代はそれ以前の平氏の時代から守護などを各地に置き、鎌倉時代には幕府という形ができ、日本全土にネットワークができていった時代だと思います。

元寇においては、鎌倉からはるか離れた九州の地での、人々は2度目の襲来に備えて沿岸の防備に取り組んだり、武将(御家人)たちも所領・恩賞狙いというのはあったと思いますが、実際の戦いでも、個々の御家人が連携して動いた印象があります。
これは中国にありがちな、上からの命令でやった、みたいなイメージと異なり、この時代からすでに個々の人がアイデアを出し協調する姿勢はあったと感じていました。

しかし昨年末に見たNHKの「そのとき歴史が動いた」で、継体天皇の話題がテーマになったとき、もっと古い時代にも和の精神があったのでは?と、見方が変わりました。
彼の時代(6世紀初頭、聖徳太子より前)、ヤマト政権は皇位継承など豪族たちの争いで混乱していました。そのとき後の継体天皇となる人は、国政や人の動きがある中心地ではなく、福井県あたりにすんでいました(NHKでは、国の中心からわざと離れる形で、そこに住んでいたという描き方だったと思います)。ヤマトの豪族たちは、中心になる人物が見つからず、わざわざ福井まで人を送って、継体天皇に王となることを依頼します。すると彼は「あなたたちだけではなく、他の豪族たちも私がその地位につくことに同意させるなら」やりましょう、と今でいう事前の「根回し的」なものと、あとでノーとはいわせない「確約をとる」やり方を見せていました。そしてその後、25年の治世を行いました。
この当時この地域とのネットワークがあったことも驚きでしたが、その後の政治においても、国家統一のための大陸の知識を導入するなど、その後の大陸に日本が向かう基盤のようなものを、この時代に感じます。

http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2007_11.html#03
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この回答へのお礼

伝統的な土着的な「民族性」というものなのかもしれませんね。しかし元寇でそれが現れているというお考え、なるほどという感じです。これほど辺境の出来事でありながら、日本全国ネットワーク化されているがごときの動きといっていいかもしれません。

お礼日時:2008/02/16 20:39

>現在の日本人性が生じた流れはありますか?



これは戦後の平和憲法の影響が一番強いのでは?

江戸と現在の間に、大日本帝国という西欧を手本にした好戦的な時代がありましたよねぇ?
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>日本人性(和の精神?)は徳川300年からか?


同感です。

聖徳太子の言葉の影響は、大昔過ぎると思います。そして下々までその思想が伝わっていたのか疑問が残ります。その後現在まで戦乱などいろいろとありましたので、聖徳太子の言葉とされるものが文書で残っている、という程度だと思います。

「和の精神」といえば恰好がつきますが、むしろ「長いものに巻かれろ」の方が当たっているんじゃないでしょうか。
江戸時代の300年の泰平の中で「A.長いものに巻かれろ」と「B.義理人情」の考え方が生まれてきました。

「B.義理人情」は忠臣蔵やいろいろな読み物、芝居で流行りました。みんなこの手のものは好きです。他人が義理人情で命を落とすのには喝采を送りますが、いざ自分のこととなると、100人中99人が「A.長いものに巻かれろ」を採用します。

徳川幕府、諸藩の長い支配体制の中で、どのようにして生き延びていくことが、自分にとって一番得かということを武士も百姓も学びました。その結果が「A.長いものに巻かれろ」です。
幕末に薩長が力を持って、武力でも幕府を圧倒するようになりました。そうすると、諸藩は雪崩をうって官軍側につきました。義理で幕府側についたのは僅かです。

先の敗戦でも、あれだけ鬼畜米英といっていたのが、敗戦を境に進駐軍にぺこぺこしだしました。ゲリラやレジスタンスなどは起こりませんでした。ヨーロッパやアラブとはエライ違いです。

なんだかんだと、みんな偉そうに理屈をこねていますが、結局「長いものに巻かれろ」の精神!に従って、サラリーマン人生を送っているんじゃないでしょうか。

狩とか肉食の関係はわかりません。
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この回答へのお礼

たいへん納得できました。
今形に残っているものは、やはり割と新しい時代様式が大きいに違いないです。江戸時代の地域政治、戦乱の皆無、文書社会それらが多分に影響しているでしょうね。

お礼日時:2008/02/16 20:41

#7の人の「長いものに巻かれろ」の精神、鋭いところをついているなと思いました。


江戸時代の300年間、外部(外国、他藩など)との接触をたたれて、移動の禁止や五人組などという連帯責任制が幅を利かせているとそうなるでしょうね。
日本の場合、十分に農業ができ、武士の給与も米の価値が基になるので農耕中心主義は当然ですね。こういう人がいないと江戸、大坂の町民も生活ができなくなるでしょうね。
肉食の禁止はどうでしょう。実際のところ、江戸時代の人も肉食はしていたと思いますよ。精進料理の発展、地方のいろいろな肉の名物料理などを考えると明治以降に発展したとは思えません。
実際に猟師、漁師という職業はありました。

そう考えると、刀狩、五人組、移動の禁止、宗教選択の制限、宗教を利用した庶民管理などはその後の日本人に大きな影響を与えているのでしょうね。(日本人の宗教観のなさを含めてです)
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この回答へのお礼

宗教のあり方かもしれませんね。講など土着的なつながりというものが「個」というものを尊重しないということにもなりえます。
考えてみると、やはり、江戸時代の基本的な生活様式統治機構が大きいと思います。

お礼日時:2008/02/16 20:42

下の方々が仰っている通り、和が明文化されたのは、聖徳太子の時代ですから、当然その前から「和」の価値観はありました。


ご存知かと思いますが、縄文人と呼ばれる原日本人は、シベリアや東南アジア、ポリネシアなどからきた人々の混血です。極東という地勢的な条件もあったのでしょうが、他の地域に比べても人種の坩堝だった可能性があります。ちなみに現在の日本人には、16グループに分類できます。
天皇家が各地を統一するまでは、蝦夷や熊襲、隼人などたくさんの部族がありました。
そのような状況のため、他の地域よりも、「協調性」というものが必要であった可能性は充分あります。
ですから、原始的な価値観として、既に「和」の精神が生まれたという説があります。
ちなみに、仏教は、中国や、韓国の例を見てもわかりますが、すごく幅があって勝手に解釈できるものなので、あまり影響を受けていません。むしろ、日本人の価値観に合わせた、有効に利用したという程度で考えていただいても間違いないと思います。
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この回答へのお礼

原始的にも決して荒くはなかったんでしょうね。やはり島国ということは大きいのでしょう。混血が盛んだった地域だとは知りませんでした。協調性は警戒よりもよりポピュラーだったんでしょうかね。

お礼日時:2008/02/16 20:44

決定的なところは、矢張り徳川時代にあったと思います。


当時の施政者(幕府・各藩大名)は、相当有能であったと思われます。
 農村における「村社会」の形成、都市部における「町名主的構成」を土台に諸外国には例を見ない統制は強かったが、比較的に民主的で、庶民にも受け容れられた体制を作りあげたことにあるのではないでしょうか。 また、当時(江戸時代)では、諸外国と較べて農民・庶民の生活も豊かだったことも大きな要因のひとつになっているようです。
 神道や日本人にあった構造変化を遂げた仏教も、前記の要因の相乗効果を加速する効果をもたらし、協調性や奥ゆかしさといった高度な文化・風俗を育て上げたものと思われます。 なんだかんだといっても、その流れは現代にも受け継がれているはずです。
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この回答へのお礼

仏教は「個」ではないですからね。特に日本の政治機構的な宗教は、結局民意を反映して、あるいは幕藩体制の統治機構を反映して「個」を抑えるということなのでしょう。

お礼日時:2008/02/16 20:46

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