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江戸時代の宿場で大名や旗本、幕府役人などを宿泊施設である本陣ですが、
金銭的にもうかっていたのでしょうか?
本陣の経済事情を教えてください。

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

#1の方のご回答のとおりだと思います。



もともと本陣は、参勤交代の制度を確立させる必要から、諸侯が宿泊・休息するための公認の宿として土地の資産家や有力者の居宅を宿としたのが始まりです。

本陣職を仰せつかったということ自体「名誉」であり、営利を目的としていませんから規定料金なるものはなく、客の懐具合で決まる「祝儀」を頂くというものでしたから、幕府から多少の補助金が出ているとはいえ、構造的に経営は成り立たないと思います。

山陽道矢掛本陣(岡山県)を見学したときのメモですが、安永年間の記録によれば、宿泊は広島藩浅野家で銀5枚、浜田藩松平家で銀2枚だそうです。
公卿の祝儀は、ときには白扇か色紙や短冊だったそうです。
大名家がしょっちゅう宿泊するのであれば儲かるでしょうが、宿泊した大名は年平均14回だったと、パンフレットにあります。
宿泊できるのは大小名の他は、勅使、院使、宮家、御門跡、公卿など特権階級だけと決まっていましたから、空いているときには一般客を泊めるという企業努力もできませんね。

大名の場合は、食事は持参の鍋釜でお付きの料理人がしますから、本陣としては原則、座敷と台所を貸すだけで使用料として「祝儀」を頂くということですね。
祝儀の金額は、分限によらずその家の「品格」によると何かの本で読んだことがあります。
少ない祝儀で威張る大家の家臣もおれば、小藩の家臣は人遣いにも心配りが行き届いているといった内容でした。
本陣の経営が苦しくなるひどい例が「東海道袋井宿跡の説明文」の中にあります。

http://www.d3.dion.ne.jp/~nagai_m/waki/fukuroi1. …

こんなにひどいことをされるのですから、大名が泊まる上段の間以外は、質素に拵えておかねばならないという事情が分かります。
その本陣を定宿としている大名家ではこのようなことをしないと思いますが・・。

三島宿本陣家史料集(12)は、信頼できる史料だと思いますのでご紹介します。

http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/kyoud …

この史料は、安永5年(1776)より、天明6年(1786)の江戸中期10ヶ年の記録ですが、
「本陣の運営は安定で楽なものではなく、本書の中でも普請時の費用の寄付方を要請していることが数多く見られるのである。」と書いてあります。

なお、脇本陣は、大名の宿泊・休息がない場合には一般人も宿泊できましたから、経営は本陣と比べて安定していました。
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私の家は本陣でした。

屋敷は千坪もあり近郷近在(三十六郷)で最大級です。しかし金銭的には本陣の収入だけではやっていけなかったと思われます。沢山の副業をもってました。(酒蔵、田畑や山林貸付、神官、風呂や料理の提供、用水開発など)。一方、当時先祖が寄進した石碑、祠、石仏などは町内に沢山現存します。また石塔もかなり立派です。将軍へ着物を献上した記録もいくつかあります。それらを考えると、そこそこの余裕もあったようにも思えます。
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本陣はそんなに頻繁に泊り客があるわけでもなく、また大名や幕府の役人が泊まっても宿泊料が高額なわけでもないのに、格式は高いので見栄えは立派な普請をしなければならず、とうてい本陣だけではやっていけないのでほとんどが本業を別に持っていて、そちらで食べていました。


特に時代が下るにつれて宿泊客の大名は懐具合が苦しくなってけちになってできるだけ安く上げようとそれまで本陣で取っていた昼食をもっと安いところにしたり、献上を断って下賜金を減らしたりでますます本陣の経営は苦しかったようで、多くの本陣は見かけは立派でも安普請というのが多かったようです。
それでも本陣を経営していたのは本陣の主ともなればステータスが高かったからです。
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