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江戸時代(それ以前も)は年貢は物納だったのでしょうか。
百姓が納めるときはコメだったかもしれませんが、
それを中央に送るとなると、お米だと運搬が大変です。

たとえば薩摩から江戸までお金を払うとき、
まさかコメではないですよね。では千両箱? それも苦しいです。
誰かが証文のようなものを発行したのでしょうか。
米問屋か何かが。

中世にはお金はあまり流通してないですよね。
でもいくら何でも米を運んだとは思えません。
どのように経済活動をしていたのでしょうか。

江戸幕府に1000石分のお金を収めるとしたら、どうやっていたのでしょう。
具体的に教えていただけると幸いです。

A 回答 (10件)

> でもいくら何でも米を運んだとは思えません。



米を運んでいたようです。 薩摩藩の
https://www.japanserve.com/bakumatsu/spt-edo-019 … 図の左下隅の「薩州」は薩摩藩蔵屋敷
https://wheatbaku.exblog.jp/30522227/
薩摩藩蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜でした。薩摩藩の国元より船で送られてくる米などが陸揚げされ蔵屋敷に保管されていました。
その米を現金化するのが基本の考えですが、実際には、現金と米を交換するのではないです。
日々に薩摩藩の藩邸や江戸で薩摩藩の人が購入するほとんどは、「つけ」で、帳面上の借金です。 
もっと大金のいる軍艦を購入するときには手付金2万ドルを払い、残金は1年に5万ドルづつ支払うことで合意を取り付けています。両払うのではなくドルで払うことにしています。その支払時期のたびにカネをかき集めドルを貸してくれるところに交換してしてもらうのです。
現金通貨での交換とは限らないのが大事です。 江戸時代には、庶民も多くの場合、「つけ」で購入し、晦日に決済の現金通貨を用意して払いました。 
農家・農民でも、庄屋や役所から帳面上の貸し借りで、取引や調達、販売をします。 
個別の取引毎に現金通貨を使うのは、相手を問わない旅客相手とかの場合で、多くの取引は信用貸しの「つけ」です。決済をつける日には現金通貨が必要ですが、普段は帳面上の「つけ」だけです。大名屋敷の建築修理、植木庭木の手入れ、食物や衣服の購入、すべて「つけ」です。お抱えの武士には手形を渡し、武士はこの手形と交換に米を受け取るのが建前ですが、実際にはこの手形を現金通貨に交換してもらうのです。手形を売り買いしていると思えば良いのです。
https://ameblo.jp/croon-yuuki/image-12409530923- … 江戸時代には、現金通貨も実にたくさんの種類があるので、現金通貨の交換をするにも、売り買い相場で日々に交換レートが違います。看板では、「両替」とか、「寛永通宝小売」とかもあったのです。
https://kotobank.jp/word/%E9%8A%AD%E4%B8%A1%E6%9 …
晦日(毎月の月末など)には「つけ」完済するのが建前ですが、実際には一部しか通貨を用意できないということも多く、つけを数ヶ月溜め込んで行くとか、利息相当を払ってつけの支払先延ばしをするということが多いのです。
各藩にしても事情は同様で、藩の名義で借用証を書き、カネを借り、返済期限が来たら利息の一部を払って、借金額を増額するのです。
藩や武士や町人や百姓、職人などに貸し続けると、貸主の方の貸付残高は増えますが、それだけでは貸主のメリットがないので、諸藩の特産品の商いの独占権や流通の中間に入って利ざやを稼ぐ権利を受けて、経済的地位を強固にしていきます。 「貸した金が返済されないで利息だけでまた貸すことになる」可能性が高い場合は、利息はかなり高いものにして、利息収入で充分に貸付業を成功できるようにするので、貸し付ける方は問題がないのです。「両替」とか、「寛永通宝小売」とかも、その手数料、利ざやで稼げれば問題はないのです。

> どのように経済活動をしていたのでしょうか。

南で採れた砂糖、農村で採れた米、大根、蕎麦、菜、醤油、酒、北海道などで採れた昆布、有名産地の焼き物陶磁器、瓦、糸、織物、綿、塗り物、紙、墨、工芸品、炭や木材、刃物、魚でも、手形や信用証書では役に立たない、現物こそが重要なものは、陸路や海路で運ぶしかないのです。 水であれば高低差を利用して水路や河で利用地に導くことはできますが、醤油、酒は樽に入れ、陸路水運で運びます。 便所の大小便も購入して、樽に入れ、陸路水運で農地に運びます。 大量に遠距離を運搬する必要があるものは、だいたい水運を利用します。
http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/referen …
https://www.jstage.jst.go.jp/article/logisticsso …
https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_u …
運搬料は必要です。馬、舟、荷役人も各種施設も必要ですから。でも運搬料をもらってから運ぶ場合もあったでしょうが、大口の継続取引の場合は信用貸しで後日精算方式です。 そような取引方法をとることで独占的地位を獲得したり、大きな取引を獲得したりできることが大事です。 信用貸しが可能な範囲で、できるだけ多くの取引を自分のものとし、経済的地位を確固としたものにするのです。 信用貸しをすることで、現金通貨の量に縛られないで、取引量と経済取引での地位を上げることができるのです。

> 江戸幕府に1000石分のお金を収めるとしたら、どうやっていたのでしょう。

貸付証文とか、手形とかを渡せば良いのです。 米の現物は必要であっても、米だけ大量にあっても保管も大変だし、諸費用を払う・俸給を払うにも米のママでは不便なので、信用が連鎖するだけの方がイイのです。 もちろん、小判の通貨も大事ですが、必要な量の小判を作る(鋳造する)こともできないのです。 量が少ない小判を集めてしまったら、市場経済が麻痺する危険が高いので、そんなことはできないのです。
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百姓は物納。

中央に送るのは、商人の仕事。千石船と言う言葉が残ってるぐらいですから、主に海上輸送でした。西日本は、瀬戸内海を主ルートにして大阪まで。
薩摩に関しては、コメがあまり採れないので、それ以外の産物(サトウキビ)を売ってお金にしていました。密貿易とはいわないけど。
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この回答へのお礼

とてもややこしいですが、
なるほどつけ、手形などを使ったのですね。
みなさんのおかげでぼんやりわかってきました。
さらに勉強します。
ありがとうございました。

お礼日時:2022/07/30 19:15

いまの紙幣のような物がありました。

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複数の回答者が回答してます様に、江戸時代は両替商が役割を


担っていました、両替商は大阪と江戸に多くいました。
両替商にも色々形態が有り、記載すると本一冊分になります、
グーグル先生に訪ねて、WiKiなどで検索するのが、宜しいかと。

明治維新政府の廃藩置県で両替商は大名の借金をチャラに、
させられ、大損した事を付記します。
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日本で貨幣が本格的に流通したのは平安末期。

平清盛が主導した日宋貿易により大量の宋銭が輸入されてからです。
便利な貨幣の使用はたちまち広まります。
しかし、保守的な公家たちは銭の使用を渋って禁止令など出しますが、貨幣経済はあっという間に広まり、鎌倉時代になると荘園の貢納は現物ではなく銭納が状態化します。
さらに、遠隔地とのやりとりで手形も用いられるようになりました。
室町幕府が衰退すると、中国から貨幣が入って来なくなり、過度に使用され擦り減ったり、模鋳された質が悪い鐚銭ばかり流通するようになり、貨幣に対する信用度が低くなって現物納に回帰します。
また貨幣経済に復帰したのは、江戸幕府が良質の寛永通宝を大量に鋳造するようになってからです。
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具体的に説明すると、重要な役割を果たしていたのは両替商と米問屋です。



そして米の現金化には2段階ありました。
①地元での現金化
②大量消費地での現金化
です。

①地元での現金化
まず、年貢はその年の秋から年内いっぱいで藩に納められます。
年貢として納められた米は地元の藩内で藩財政用の米と役人(武士)への給料としての米が現金化されます。給料分は地元の米問屋などが買い取って現金を渡すのですが、藩財政の予算となる現金は少々複雑な動きをし、それが②につながります。

ただ、藩としては年が明けてから翌年の4月の新年度前までに現金が欲しいので米問屋とか両替商を通じて現金を受け取ります。そしてこの現金を作る米問屋や両替商が②を行うのです。

②大量消費地での現金化
どこの藩でも天領でも、米は現地で消費される量よりも多く取れます。なので、藩は江戸・大阪・長崎などの大量消費地に米を輸送して、そこで消費してくれる人たちに売らないと現金が手に入りません。

なので実は《地元で消費する分以外はすべて都市(ほとんどが大坂と江戸)に送る》ことになります。
 この時、使われたのが廻船で船をつかって大坂と江戸に米が集まり、都市に住む藩士や町民などが米を消費することで現金が生まれるのです。

で、船を使った輸送はものすごく時間がかかります。日本海側の藩で年貢を集め終わると雪が降るような場所では、雪解けを待って船に乗せるので、そもそも出荷自体が4月を超えてしまいます。でも藩財政上、4月前には予算を組んで現金が欲しい、それを実現しているのが両替商です。

大坂には全国から米商人が集まります。その年の年貢米を給料として受け取った役人たちから米を買い集めているので、米そのものはまだ到着しなくても「どのくらいの量で品質がどの程度か」は商人の情報として、先に大坂に到着し買い付けに回されるのです。

このような《現物がないコメ取引》が、大坂に世界で初めての先物取引所が生まれるきっかけを作ったわけです。

そして大坂には各藩の蔵屋敷も立ち並び、米はここに収納されて米問屋に卸して現金化されます。
 各藩の財政を賄う現金はこのような形で調達されるのですが、米相場は上下するので、なるべく高い時に売りたいということで、現金化は常に遅くなる傾向がありました。

また、質問者様も書いておられるように「千両箱に金を入れて運ぶ」のはものすごく大変だったわけです。

この二つの要素、つまり「すぐに現金が欲しい藩財政・小判という通貨の輸送の大変さ」を解決したのが両替商で、両替商はこれらを見込んで年貢米が藩に収納され、現物を確認した後《藩にお金を先に渡す》のです。

これが両替商が「お金を藩に貸す」という、後々藩の財政事情が火の車になっていく原因になっていきます。

各藩にお金を先渡しする両替商は大阪にも拠点を持っていて、藩が蔵屋敷から米を現金化すると、先渡し分の現金を返してもらうわけです。

ここまでの動きは全部証文つまり現代で言う商業手形で行われていて、貨幣の現物はほとんど動きません。

後は大阪にある貨幣と各藩の両替商などがもっている貨幣を手形で引き出して各地で現金が回る、ということになっていたのです。

米が現金化される、という点では説明はここまでです。

で「各地に小判や銀貨などが流通するため」の問題は米とはちょっと話が違います。

また徳川幕府前と後、幕府も時代によって少し状態が違います。

徳川幕府以前は、各藩で金や銀の貨幣を作ることがあり、秀吉が統制する前はこのような形で各地に貨幣経済が流通していました。
 秀吉は引き締めをおこない、京都で鋳造する形にしましたが不十分で、徳川幕府になると貨幣鋳造は《幕府の独占業務》になりました。

この時点で各藩は「幕府から貨幣を買う(米などと引き換えに貨幣を手に入れる)」という形になったわけです。

江戸時代も初期は物流が発達していなかったので、長崎・大阪・京都・駿府・江戸などに銀座を置いて銀貨を鋳造して市中に流し、金座も初期は駿府・京都・佐渡に金座を置いて、貨幣鋳造を行いました。

また江戸初期までは各地で領内貨幣が作られており、日本の金銀は計量貨幣でもあったので、徳川幕府が鋳造権を握っても流通そのものは黙認されており(各藩による鋳造は禁止)、参勤交代で各藩が江戸に持ち込む滞在費用として各領内貨幣が江戸で幕府の貨幣と交換され、物流の発達とともにやがて幕府発行の通貨が日本全国に広がりました。

なので、米問屋や両替商が大坂で米を現金化しても手形で地元に送り、地元の両替商が備蓄している貨幣で手形と現金を引き換えることが可能であったわけです。

ただそれを続けているといずれ枯渇するので、初期は長崎や京都・佐渡など地元から近いところから幕府発行の通貨を調達し、のちに参勤交代によって街道が整備されたり、各地の港が整備されて廻船が比較的安全に運航できるようになると、江戸でのみ金貨・銀貨の鋳造がおこなれるようになりました。

これらの動きは米の買い付けとは平行して起きたことで、米の現金化としては「常に地元に貨幣があったので、大坂まで米は移動させても、現金化は手形を使って現地で行えた」ということになります。
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年貢は米で納めるのが原則ですが、一部を現金で納めさせることもありました。

米切手のような証文を使うこともありました。これらは藩御用達の掛屋(現在の銀行に相当)が為替にして江戸や大坂に送り、仲間の掛屋が現金化しました。
米は江戸や大坂などに送ります。町の人は米を作っていないので送らないと食糧がないのです。小判や切手は煮ても焼いても喰えませんから。また地元の造り酒屋などに売却することもありました。
余裕のある農民は米相場を見て有利な時に売却し米切手にします。年貢を米切手で納めたり、早期に納めると割り引かれることもあったようです。

幕府領の村々では米は江戸へ送ります。江戸に着くまでが農民の責任範囲で輸送費も農民の負担です。もし途中で船が事故を起こすと庄屋は切腹ものでした。
東京に蔵前という場所がありますが年貢米を受取る蔵が並んでいたのが名の由来です。
以上、だいたい江戸末期頃のようすです。
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両替商といわれるお店。

今で言う銀行みたいなもの。
他に大手の商人などでも為替・手形取引はしてくれた。
仕組みなどはここに書くと長いのでWikiでも調べて下さい。
江戸時代は藩の年貢は藩のもの。
幕府に上納はしない。
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大坂に両替商が有ります、

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この回答へのお礼

ですからもうちょっと詳しくお願いできますかね。
よろしくお願いいたします。

お礼日時:2022/07/12 22:32

為替ってのは江戸時代でもありました。

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この回答へのお礼

それは聞いたことがあるのですが、
もうちょっと詳しいとうれしいです。
誰がどうやっていたのでしょうね。

お礼日時:2022/07/12 22:30

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