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昔から疑問でした。
学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。

貧乏で生活するだけで必死なら文化なんて生まれないんじゃないですかね?

各地の郷土料理。祭りもあるし?
死ぬ前に一度は伊勢参り?
茶屋だってあるし?

巡業だってあったでしょう?

村の寄り合い?に遅れたら駆けつけ3杯?お酒のんでるじゃないですか?

江戸で白米ばっか食べてた町民よりはよっぽどいい食事をしてたのでは?

そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?

A 回答 (11件中1~10件)

救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。


きっかけは小生の生まれたところ。村高250石、殿様への年貢が200石、免(年貢率)は何と8割。ですが酷税に泣かされたといった悲惨な伝説はありません。寺も神社もあるし酒も飲んでいました。伊勢参りの記録は確認していませんが四国遍路の記録はあります。

なぜ免が異常に高いか
村高は豊臣秀吉が各地の領主に命じて調べさせたのが最初。しかし領主が役人を派遣して調査したのはごく少ないようで一般的にはやり方を説明して各村々にやらせ報告書を提出させた。これを「差出検地」といいます。村高が決まると年貢が決まる。村人は年貢は少なくしたい。ならば貧乏村にしてしまえ、というわけで過少申告した村があった。でもすぐにばれる。ばれると正しい年貢に増量されますが村高は訂正されなかったので免だけが異常に高くなった。
その後領主が変わるなどして再検地があると村高は訂正されることもあったようです。しかし小生の故郷は江戸時代を通じて領主の交代はなかったので再検地もなかったようです。

小生が知る範囲で最も重税なのは備中羽山村。村高58.5石、年貢が93.8石、免は160.3%(万治3年、1660年)。年貢の量が村高の1.6倍。年貢の常識論では有り得ない値。
この村、2年後には村高は128石余に増えている。農民の負担が増えた、村は苦しんだなどと言った史家先生がいたのではないかと思うが年貢の量は94.1石とほぼ変化なし。免が73.5%と何とか常識的な値に下がっているのだ。
史家の多くは村高基準で年貢制度を語っているようですがまちがい。年貢の絶対量を基準にしないと農民の負担はわからない。余計なことですが史家は算数ができないのかと疑いたくなることがよくある。

領主に納めた年貢の量を村の人口で割って1人あたりの年貢の量を調べたことがある。備中の20数か村でやったのですがどこの村も3斗5升から4斗とほぼ一定になった。小生の故郷も 年貢200石÷人口500人=0.4石 となる。村高や免の値とはほぼ無関係にこうなる。ただし宿場町や漁村は例外。さらに5才程度以下の子供は人口として数えられていないことがあるので要注意。上の羽山村は人口のデータが見つからないので計算できず。
1人あたり食糧が米1石、年貢0.4石、衣料費など雑費が最低1石必要と考えれば2.5石程度が1年間生活するために最低限必要な経費ということになる。村の数字の記録がどうであろうと1人あたり2.5石(米換算で)の生産があったということになる。当然冬の生産も含まれる。村高は夏の生産だけしか考えていないのでこのことも注意が必要。
逆に言えば人口がわかれば村の生産量が推定できるということになる。

農民はアワやヒエばかり食べていたか
年貢は土地(一般に田、畑、屋敷)に対してかかります。何を栽培しようと、逆に何も作らなくても年貢の額は変わりません(変えた領主もいたようですが)。米を作ろうとヒエを作ろうと年貢は変わりませんから誰でも最も高価な米を作ろうとしたはず。何故アワやヒエだったか、その理由は気候風土の問題で米が作れなかったのです。
関東地方などでは丘陵が多く水が乏しかったため水田は少なく、多くが畑。少ない水で育つ作物でないとダメだったのです。しかし畑の年貢も米で納めるのが基本。僅かに取れた米は全部年貢に。それでも足りないと他所から買ってきて年貢に充てました。それを見た、恐らく西日本出身の人が「米が食えない貧乏村」と言ったのでしょう。
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この回答へのお礼

西日本は貧しかったのでしょうか?
各地に特産品はあるし、暖かい地方のほうが食料生産は容易な印象があります。

>救いようがない程の貧乏村はゼロではなかったでしょうが平均的な言い方をすれば普通に生活をしていたというのが小生の考えです。
これが一番しっくりくるイメージです。

お礼日時:2017/04/09 12:45

その通り。

飢饉や、経済危機の時を除けば、決行平和で、豊かな時代だったと思いますよ。作ったコメは全部取られて、自分たちで食べられない・・・なんて全部作られたイメージです。全国の石高を、当時の支配階級武士だけでは、絶対に消費できるはずはなく、一人あたりに計算すると、ちゃんと全国民に行き渡っていた・・・・っていうのが、今のまともな説です。だって、年貢としてどんなにためても、現金とは違ってコメは腐っちゃうから、1年で消費しなきゃならんでしょう・・・・・そういう常識が、いわゆる歴史学者にかけてて、局所的な厳しさから、貧農のイメージが作られたっていうのが、事実かと思います。
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この回答へのお礼

なぜそんなイメージを歴史学者が植え付けるのでしょうか。。

>その通り。飢饉や、経済危機の時を除けば、決行平和で、豊かな時代だったと思いますよ
この印象です。歴史学者という人達が何をどう思っているのかはわかりませんが、教科書はちょっとおかしいなぁと思います。

お礼日時:2017/04/09 12:52

たぶん、感覚はかなり違うと思います。

例えば今の農家なんかは化学肥料なんかやなんやで、かなり収穫高が多いんです。数割どころじゃなく数倍なんです。なので今の農家を見て昔の農家も~などと想像すると間違えます。
米以外の五穀なんて私は食べたことの記憶がないのですが、江戸時代の農家は米だけのご飯なんて食べられませんでした。郷土料理なんてのも、昔ながらのはそれほど豪華でも美味しくもないものが多いです。今風に豪華にしてるのもありますが。
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この回答へのお礼

収穫高の話ではなく、ましてや現代との比較の話でもないです。

当時として普通に生活していたのではないか、という話です。
比較するのなら「当時」の武士や町民と比べて、そんなに苦しい生活だったのか。貧しかったのか疑問です。

お礼日時:2017/04/09 12:49

>そこそこ普通に生活してたんじゃないですか?



そうですよ。江戸時代の農民は結構豊かでしたよ。
一番の理由は兵役が無くなったことです。
武士の時代で最も農民を苦しめたのは兵役です。したがってかつての武将たちは
戦をするときは農繁期を避けました。それでも戦で夫が死んだ家族など、悲惨でした。
江戸時代の直前の秀吉の刀狩は有名です。これで農民一揆を抑え込む意図はありましたが
農民にとって、これで戦に駆り出されなくて済むというメリットは計り知れませんでした。
それが江戸時代に受け継がれます。

指摘の通り、村祭り、縁日、伊勢参り、郷土料理などの定着したのは江戸時代からです。
左巻の歴史家や教師は為政者が農民を搾取・弾圧し、苦しめた側面ばかり強調しますけれど
日本の伝統の文化と言われる多くのものは、江戸時代から発展したものです。
煮ても焼いても食えない金魚を売る人間のいたのも江戸時代ですし
丸くて上部にひだのある金魚鉢の普及したのも江戸時代です。

江戸時代の約300年間戦もなく、農民たちにとって本当に幸せな時代だったでしょう。
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この回答へのお礼

豊かな原因はわかりませんが。
江戸時代の文化は今もあるし、農民が総じて貧乏だったとはとても思えないです。

お礼日時:2017/04/09 12:47

マルクスは経済学ですが、哲学で唯物論それから唯物史観とつけたらしいが、誰かは不明カールマルクスは未来の経済には説明してますが、過去

それも日本の過去農業経済には一言も触れていない、だつて!
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マルクス資本論は英国産業革命を破綻する経済システムで日本の江戸時代にあてはめるには無理がある。

らしいナンセンス!
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遅く成りすみません。

国立大学経済学部の先輩にこのやり取りを見てもらいましたが、tarizou2さんのマルクス史観が、大ウケで初めて聞いた、この子経済学のレベル高校生以下て!
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私はマルクス資本論が難しく四文の一も読んでいないのだが、tanzou2さんはあのような面倒くさい本を読み理解したのか、天才だな!

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昔から疑問でした。


学校では農民は苦しい生活とか習いましたが、感覚と一致しないです。
     ↑
現代からみれば、貧しいのは疑いありませんが
学校で習ったよりは豊かでした。

これはマルクス史観の影響です。
マルクス史観によれば、過去に遡れば遡るほど
ヒドイ社会だった、ということになります。

しかし、これは実証研究の結果ではありません。
観念的に、そうであるに違いない、という
だけです。

近年、実証研究が進み、江戸時代などの農民は
思っていたより豊かな生活をしていたことが
判明しています。
(NHK高校講座 日本史「村と百姓~四季の暮らし~」 )

これは農業の生産性が上がったからです。
年貢も、当初は5公5民などが多かったのですが、
生産性が上がったため、実質4公6民、3公7民
場所によっては2公8民なんてところも
出現しました。

武士は増税したかったのですが、百姓の力が
強く、増税は難しかったのです。
そのため、下級武士の方が、農民よりも貧しい
なんて逆転現象も生じたりしています。

当時、農民は政治的にもかなりの力を持っており、
農民の同意が得られないと何も出来ない、という
古文書なども多数発見されています。
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この回答へのお礼

すみません。マルクス史観というのはわからないです。
年々生産性が上がる場合、相対的にコメの価値は下がって給料が下がる?武士よりは
物がある農民のほうが、段々豊かになるのはなんとなくわかります。

お礼日時:2017/04/09 12:43

農民が貧しかったから飢饉で餓死する者が出たのです。

女の子を売って(女郎になる)生活する農民もいたのです。
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この回答へのお礼

飢饉で餓死というのは一般的に普通にあったとは思えません。
現在でも時折餓死者が出ますが、極論では。

お礼日時:2017/04/09 12:38

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