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ユング心理学のめざすところのひとつである、
コンプレックスを認識、対決を経て自我と統合するっていうところなんですけど、
いまいちピンときません。

認識までは理解できるのですが
対決、統合ってのはどういうことなんでしょう。

コンプレックスの概念とか影響とかよく説明されるのに
肝心の解消方法についてすっぽりと具体性が抜け落ちてるきがするんですけど。

対決とあるところを見ると手放しに諦めて受け入れろってのも違うきがしますし、でもだからといって否定もするなってことも言ってる気がします。

統合されて自我の一部になることで、どうして肥大化したコンプレックスの弊害を消すことができるのでしょう?

A 回答 (4件)

#2です。


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>コンプレックスを認識、対決を経て自我と統合する
:というのは、コンプレックスの源泉である過去の自分の精神的成り立ちを認識し、コンプレックスの要素となっているものを分析することで対決し、自らの責任において解決すべき自我の問題として取り込む。
というように私見では解釈します。
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#2でこのように述べたわけですが、「統合して自我の問題として取り組む」とはどういうことか、という点についてもう少し補足させてください。
コムプレックスの要因となっているものの本質は抑圧です。
禁制と言ってもよく、親の躾などが典型です。
一般的に言って、親にしてみれば抑圧しているという自覚は殆んど無いものです。
善悪を教えることにより、超自我性を育もうとする意識が働いているだけでしょう。
つまり、抑圧によってしか善悪などの超自我性は育まれないという点が、この問題の難しいところです。

適度な抑圧が必要とされているわけですが、過剰になると将来的なコムプレックスの芽となります。
ですから、これを解決しようとすれば、理性で本能を押さえ込もうとするのではなく、全く逆で、「超自我(=理性)によって抑圧されている自我なりエス(本能)なり」を解放してやらなければなりません。

端的に言うと、いい子であることをやめる勇気を持つことがコムプレックスから解放される基本的な姿勢ということができるでしょう。
だれに対してのいい子かというと、無論、自分の親に対してです。
これが清算できていないと、その矛先はコムプレックス、つまり錯綜の対象としての他人を求めて理不尽な発露をすることになるでしょう。
 
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こんにちは。


この場合の「認識」とはコンプレックスの原因を自覚するということですね。
「コンプレックス」といいますのは、基本的には自分とって不利益な体験から学習された「情動反応」であり、このような過去の忌まわしい体験を拒否しようとするのが「防衛抑制」です。ですが、仮に大脳皮質がそのような記憶を忘れるなり改変するなりしたとしましても、我々の脳内にはそれが「大脳辺縁系の情動反応」として記録されていますので、類似する刺激入力がありますと本人の意に反して反応は発生してしまいます。
「コンプレックスの肥大化」といいますのは、このような本人の意志の及ばない学習が繰り返されることによって起こるものであり、それはやがて自我との統合を乱すことになります。これは無意識行動として選択される反応でありますから、これに対処するためにはどうしても大脳皮質がその原因を自覚する必要があります。ですが、それは本人にとっては「忌まわしい記憶」、あるいは「認めたくない事実」であるため、この体験を受け入れようとしますと必ずや「対立」が発生することになります。従いまして、コンプレックスの克服とは「過去との対立を経て自我の統合を取り戻す」ということであり、このためには必ずや原因の自覚・認識が必要となります。

因みにユングやフロイトの時代ではまだ脳の生理学的構造というものがきちんと解明されていませんでしたので、古典心理学ではこのような現象を「コンプレックス」や「自我」といった概念で分類する必要がありました。ですから、我々の脳内には「自我」などというものは存在しませんし、それが「コンプレックス(情動反応)」と統合されるといった現象が実際に起っているわけではありません。
それは大脳皮質における原因と結果の自覚によって「理性行動」を選択し、大脳辺縁系の情動行動を抑制するということであり、現在「コンプレックス」や「心的外傷(トラウマ)」などのカウンセリングでは専らこのような手法が用いられています。
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心理学にもユングにも詳しいわけではありませんが、私の理解している範囲で述べてみたいと思います。



コムプレックスは通常「病根」「引け目」などのような意味合いで使われることが多いと思います。
結果として同じことなので間違いではありませんが、元々は「錯綜」とか「複合」といったような意味を持っています。
錯綜がどのようにもたらされるかというと、本質的には幼児期の親子関係にその端を発していると考えるのが自然と思われます。

自我の目覚めはおよそ一歳半ぐらいからですが、ある程度の自我が確立するまでには両親との間で非常に多くの、そして多岐多様な心理の交感がなされることになります。
良いにしろそうでないにしろ、いわゆる幼児期の両親に対する心理的痕跡とでもいいますか、そういったものが大人になっても抜けきれず、周囲の他人に対して、ほんのわずかな共通点を以ってして両親と(精神的に)「錯綜」してしまうこと。
基本的にはこれをコンプレックスと呼んで良いと思います。

自我の確立とは、(両親から)庇護されるべき自分を脱して、『自らが責任をもつ「我」』という認識を確立することと言って良いと思います。
つまり、錯綜があるうちは完全に自我の確立はなされていない、ということになるでしょう。
無論、程度問題であって、完全に脱することは不可能なわけですが、「自我に不当な影響を受けない程度」には脱することが好ましいと言えるでしょう。

以上のことから、
>コンプレックスを認識、対決を経て自我と統合する
:というのは、コンプレックスの源泉である過去の自分の精神的成り立ちを認識し、コンプレックスの要素となっているものを分析することで対決し、自らの責任において解決すべき自我の問題として取り込む。
というように私見では解釈します。

ポピュラーな例に適用してみますと、マザーコンプレックスというものがあります。
これではない男性は世に存在しないと私は思いますが、先に触れたように程度の問題になります。
過保護で育つ男性は程度の強いマザコンになりやすいと思われます。
幼児期の母親からの愛情が(異常な程度に)忘れられず、長じてからの恋人、あるいは妻に対して、母親と同じような愛情を求めてしまう。
つまり、恋人や妻を母親と錯綜してしまうわけです。

母親との錯綜である、という認識することさえ出来ない男性は多いものです。
このような認識ができれば、次は、自我の確立をも阻害するほどの「過剰な愛」を与え続けた母親との対決、あるいは対峙が可能になります。
こういう母親は、大体は息子が結婚してからでも色々とその家庭に口を出しては嫁を悩ませるものです。
また、息子をかわいがりこそすれ、人間としての個を認めていない場合が多く、息子が対決するのはまさにこの点であると言えるでしょう。

この対決があって初めて、息子は母親から受け続けた過剰な重荷としての愛情から逃れることが可能になり、本当の自我の確立につながっていきます。
この結果、自分の妻は、母親の代替物として自分を守ってくれる者ではなくて、逆に自らが守っていくべき存在である、という認識に至ることでしょう。

ユング心理学というものも詳しくは知らない一素人の私見につき、学問的根拠はありませんので、その点はご了承いただきたいと思います。
 
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人が生きていくと、色々な場面に遭遇します。

自我が最初からそうした場面をうまく処理できるわけではありません。

その場で処理できなかったものは、無意識のなかにその人の将来の宿題として沈潜していきコンプレックスが形成されるでしょう。
ところで、新しい現実の問題が発生したとしても、それは過去の未解決な問題の再来かもしれません。無意識の側からすると、現在の問題は、過去に生じたこの事じゃないの?とメッセージを自我に送ってきます。

自我の態度が問題から逃げようとしていれば、そうしたメッセージは忌まわしい化け物のように感じるでしょう。だから、自我は逃げずに、現在の問題に現れた過去の問題に対決しなければなりません。そうした問題が解決できるようになれば、その課題を自我が統合したといえるでしょう。

夏休みの宿題をやらずに逃げまくっていたら、新学期になるとき、肥大化した課題でパニックと化すでしょう。
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