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こんばんわ。

また、残虐で理不尽・不可解な事件が東京の秋葉原で起きてしまい
ました。

詳細はニュースで報じられていますからいまさら説明のしようもありませんが、このような残虐性・理不尽性の高い事件は(その程度に比例
するように)加害者の『責任能力』ということが裁判の焦点になるの
でしょう。(最近のトレンドですからね)

もしかしたらこの25歳のアンポンタンも『心身喪失状態』とか
なんとか理由つけられて無罪(減罪?)か?

法律には素人の私ですが、最近(裁判員制度も近づいていることもあり)裁判関係の簡単なマニュアル本を読みました。そこにあった文章の
中で『‘刑罰を受ける‘ということはその被告に‘刑罰を受ける責任能力が存在する‘ということが当然、前提条件になるのだから、その責任能力が無い以上、刑罰を与えることはできない』とありました。

なるほど、法律の世界の理論上の話としては理解はできますが、
私のような一井の庶民の感情としては全く理解できません。

だって『罰』って、被害を受けた側の『敵討ち』の側面だって当然
あると思うからです。それがないのだとしたら、何のための罰なの?

私は死刑廃止論者(あるいは厳罰化反対論者)の意見を本やTVやその他
色々、どれだけ聞いても全く賛同できません。意味がわかりません。

それでも(今回のような事件の)犯罪者でも人権は擁護すべきですか?

*蛇足ですが今回の加害者も『世の中が嫌になった』『誰でも良かった』とほざいています。でもこういうやつに限って無差別殺人の対象
は自分より弱い、何の関係もない人たちです。

自分の『孤独感』『苦痛感』を『世の中のせい』にする認識力があるのなら、そして『誰でも良かった』のなら、国会議事堂か自衛隊か警察庁かヤクザの事務所にでも殴り込めばよいのに、結局は自分より弱い人たちへのテロ殺人。

情けない。

こういう輩は絶対に厳罰(極刑)にすべきです。

A 回答 (16件中1~10件)

こんにちは。



自分は学生の頃にかじったほどの理解力しかないけれど、
一言。
人権とは、そもそも国と個人の関係で生まれたものだと理解しています。
それに、人権はあまり広げるべきものではない、
もし過度に広げると、なんでもかんでも人権と言って強弁が成り立つもの…、と理解しています。

もちろん、その社会の進展の具合を見ながら、人権の範囲として広げるべきものは広げるものだとおもいますが。


もしこの出来事を起こした人が裁判で刑事事件として被告として裁判の場に立つとしたら、
もちろん現行のシステム上は問題のない範囲で、人権は保障されるし、
犯罪の認定とその認定からいたる刑の執行には問題はないだろうとおもいます。

むしろ、この事件で自分が怒りがこみ上げてくるのは、
憲法論や法律論でいえる必要最低限で語り得る以外の、
もっと広範囲で的を絞り切れない、漠然とした領域です。
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この回答へのお礼

こんばんわ。
早速のご回答ありがとうございます。

>人権とは、そもそも国と個人の関係で生まれたものだと理解しています。

そうですよね。私は素人ですが『人権』という発想は同時に民主主義や
個人の権利が保障されておらず、国家の権力が圧倒的に強大であった時代の発想だと思います。それを今の時代にそのまま、全ての刑事事件に当てはめるのは乱暴な発想であると思います。

>むしろ、この事件で自分が怒りがこみ上げてくるのは、
憲法論や法律論でいえる必要最低限で語り得る以外の、
もっと広範囲で的を絞り切れない、漠然とした領域です。

それはもちろん、私も感じます。私も何も『一部の狂人はすぐさま社会から抹殺してしまえ』と言いたいわけではありません。

矛盾するようですが、

このような事件が生まれる(憲法論や法律論では語れない)もっと
深い、社会の闇・病理というのはあるのだとは思います。

ただ、『~社会の闇・病理ですよねえ』と評論家然とした言い方をして
終われないだろう、こんな事件が起きたら、とリアルに思いませんか?

今日だって、帰宅途中の道とか怖かったですよ。僕。(そんな人、
結構、全国に多かったのでは)

もう観念的な話をしているレベルじゃあないんじゃないか、この国
の治安は、とも思うわけです。

即効性のある警察力の強化・現実に即した法体系の整備。

これをすぐさま実施してくれ。そう思います。

でなきゃあ、安心して暮らせません。

お礼日時:2008/06/09 00:28

死刑反対論者が死刑=人権侵害としているので、


犯罪者の人権を守るために、死刑に反対するのは当然ですね。

犯罪者の人権を守るというのは、極悪犯にも弁護士をつけて
裁判(控訴・上告も可)するだけです。
その結果、死刑であればそれまで。人権侵害でもなく、国家を死刑囚殺人で訴えることもできません。

刑法に死刑が規定されてる以上、死刑は憲法の範囲内、つまり人権侵害ではありません。
もし、死刑が人権侵害なら、憲法を超える範囲の「人権保護」を求めているわけで、憲法を改正しなければならないけど、
たいがいこういう人たちは憲法改正反対な人たちです。
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権利って本当は生まれながらにして持っているものではないんですよね。


どんな権利も何かの義務を果たして持つことが出来るんですよね。

で、人権を持つための義務とは何か。
他人の人権を尊重して犯さないことです。
犯罪者は他人の人権を尊重せず犯している人が多いわけですから、
犯罪者の多くは人権を自分放棄したようなものなんですよね。

しかしマスコミは、義務に関してはなんも語らないで権利だけ訴えているんですよね。
いい加減、マスコミも義務に関してもっと言っていかない時代になっているんですけどね・・・
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真っ当に生きることができない人は精神的弱者です。

当然、やくざ等は弱者です。これと逆の言い方をすれば、真っ当に生きられる善良な市民は、精神的強者です。
これが世に跋扈する人権屋(※人権主義者ではない)の論法です。
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それとなく、テレビを


見ていましたら、

2001年に、県内トップクラスの進学高校を卒業。
日本で著名な音楽家 等の芸術家の母校でもあり、
東大を始めとした難関大学合格者を生み出すことでも
知られているそうです。

 ただ、どうも父親の借金&暴力癖がすさまじく、
高校卒業の2001年頃には、父親の起こした交通事故
(詳細は不明だが、任意保険等に加入していなかったのか)
の自車のローン返済、家賃滞納がかさみ(父親が失業中だった
のかもしれません)、大学進学希望の夢をあきらめ、
半ば実家から逃げるような形で派遣会社登録し、
派遣会社の用意したアパートで生活するようになった
そうです。本人としては著名な大学に行きたい夢があったらしい
のですが、家の事情で強制的に打ち切られたそうです。
(奨学金等 他ルートの入学手段については別論)

 で、新生活が始まった矢先の2001年6月8日以降に
附属池田小事件の宅間守の人物像をニュースで
知り、進学コースのレールから脱線した事情に
共感し、徐々に宅間信奉者になっていった
(ある意味、ヒトラー崇拝のナチス党員みたいな)
という説もあるようです。本来であれば、難関大学
を卒業して、どこかの一流企業に勤めていた可能性も
あるわけですから、今の派遣社員という身分とのギャップ
で相当苦しんでいたらしいです(確かに、ある意味
宅間守と境遇が似ています)。宅間守の信奉者で
あるならば、宅間のように死刑を熱望するのが最終目標
であるはずで、死刑に匹敵する犯罪といえば、大量殺人
を想起したんでしょうね。

犯行直前まで、ネットで細かに実況中継しており、
その「ネット痕跡」についても本人が自供しているわけですから、
計画的確信犯に違いなく、宅間以上に、「責任能力」の
欠如が争点になったとしても、認められる可能性はないでしょう。

危ぶむまでもなく、間違いなく死刑でしょうね。
ただ、弁護側は当然のごとく「責任能力」「過去の家庭環境」
について主張してくるでしょうが、ここまでくれば
それも無意味でしょう。

被害者のご冥福をお祈り致します。
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一応、人権は尊重されるべきです。


生きている間…例えば、死刑になるまでの拘置期間も、一部の制限はあってもモノ扱いされていいと言うものではないとなっています。(憲法における基本的人権はそれを保障されるっていう奴で)

ただ、コレまで、被害者の人権は「亡き者」であるがゆえに軽んじてこられすぎたと思います。
加害者である犯人はまだ生きているので人権を主張していられるが、被害者はすでに死んでしまっているために、人権の保護を受けられない…。
それではあまりに理不尽でありすぎる…と言うのは、山口県光市の母子殺害事件でクローズアップされはじめたばかりの事だと思います。

責任能力が無い!と言う事と、被害にあった方の人権を無視すると言うのは、まるっきり別次元ですよね。裁判では弁護側はよく主張しますけど刑罰については主張しますけど、それでは、被害者の人権はどう被告側の弁護士は考えているのか…実に興味深いです、20人の大弁護団の面々。

刑罰の有無と被害にあった方への保証とは別とはいえ、殺人事件には自動車事故のような保険がある訳では無いので…しかも故意だし…被害者遺族の金銭的な補償というのは犯人には無理でしょうね(よっぽどの資産があれば別でしょうけどそんな感じの犯人って私は知りません)。
であるので、その補償という意味での刑罰はありでもいいのではないか?とは思います。
例えば、飲酒運転で検挙され、罰金が払えないと言うのであれば作業で払うというシステムと同じように1日幾ら!ということで被害者への補償額を日割りで懲役とする…のようにね。当然、補償額分懲役で働かないと仮釈放もなしな訳で…事実上の終身刑以上の年月が課されると思いますけど。

残虐な犯罪に対して、残虐をもって償わせないというのが現代社会の主流になっていますが、今年になってからの「死刑になりたかった」から「犯罪を犯した」という事が増えつつある事を考えると、残虐な見せしめ的な死刑と言うのもありなのかも…と思ってしまいます。
残虐刑であるはずの死刑を望む人が犯罪を犯す!では、死刑に犯罪抑止力があるとは思えないですし、ましてや、死刑にならないと言うのであれば「生活保護」がわりに重大犯罪を犯すっていうのさえ考えられますし(実際、社会に出ても適応できないので再犯=刑務所に入れば3食は保証ですし)ので、死刑は私は廃止すべきではないと思いますし、必要に応じて、物凄い苦痛を味わうような執行方法が有ってもいいのかもしれないと思いました。
公開はすべきではないでしょうけどね。

絞首刑や銃殺刑やギロチンなんていう、本人があまり長い間苦しまないと思われるような方法ではなく、それこそ拷問に近い股裂きだとか、釜茹でだとか、たけ鋸引きとか…。
ただ、その様な事を検討しなければならない社会状況が悲しいですね。
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少し誤解なさっているように思います。




> 『罰』って、被害を受けた側の『敵討ち』の側面だって当然あると思うからです。それがないのだとしたら、何のための罰なの?

そういう側面は、現行刑事法の背景にきちんと存在しています。

私刑を許すと世の中が混乱するおそれが高いため、現行刑事法では、国家に刑罰権を与えることで、国家に『敵討ち』をしてもらうこととしています。殺人罪の刑罰に死刑が含まれているのは、その表れといえます。

しかし、刑罰は、『敵討ち』の側面だけではありません。例えば、再び犯罪を犯さないようにすべく、教育を施す側面なども有しています(一定の教育効果のあることは、実証されています:書籍等をお読みください)。

『敵討ち』以外にも複数の側面のあることは、HK1496さんご自身も、「~の側面だって当然あると思う」という表現によって、自認なさっているのではないでしょうか。

後は、どの側面を強調するのかにより、考え方が異なってくる場合があることになります。


> それでも(今回のような事件の)犯罪者でも人権は擁護すべきですか?

刑罰がどのような側面を有しているのかという問題と、犯罪者の人権問題とは、直接の関連性がありません。また、責任能力が無い場合に刑罰を課すかどうかの問題と、犯罪者の人権問題とも、直接の関連性がありません。

犯罪者の人権問題は、刑事手続の中で登場します。すなわち、刑事訴訟法などの手続法の問題です。他方、刑罰の側面や責任能力に関する問題は、刑法などの実体法の問題です。

問題となる場面が異なるので、残念ながら、そもそも問題提起として成り立っていないのです。

言い換えると、犯罪者の人権問題と、刑罰の側面や責任能力に関する問題とは、切り分けて考えるべきものです。ここを混同してしまうと、問題点が見えなくなってしまいます。
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この回答へのお礼

こんばんわ。

法律には全くの素人なので、意味がわからない点があります。
できれば再度、ご説明ください。

>刑罰がどのような側面を有しているのかという問題と、犯罪者の人権問題とは、直接の関連性がありません。また、責任能力が無い場合に刑罰を課すかどうかの問題と、犯罪者の人権問題とも、直接の関連性がありません。

刑罰の目的性(私刑の代行、犯罪者の更正教育)、犯罪者の責任能力
と犯罪者の人権問題に直接の関連性が無いのなら、今回のような凶悪
犯罪を犯したものを即死刑にすることに何の問題があるのですか?
(例え加害者が心身喪失状態であり、あるいは更正の可能性があった
としても)

だって関係ないんでしょ?

死刑制度や厳罰化に反対する人たちは
犯罪者の人権(ex:犯罪者の更正・社会復帰の可能性あるいは精神病理者に対する偏見への懸念)が大事だから、『被害者側の仇討ち』的側面の強い厳罰化に反対しているのだと思っていました。違うのですか?

何を理由に反対しているのですか?

お礼日時:2008/06/09 19:11

もともと私は死刑廃止に賛成でしたが、


今回ばかりはそうも思いません。

そもそもこれは人ではありません。
人の形を借りているだけです。
名前を取り上げるべきです。
そして人ではないから、人としての体のみ利用した、
人体実験にさらされるべきですね。

凶悪な病原菌を移植し、治れば人のために役立ちます。
でその後も病原菌を移植し続け、死んだらそれで終り。。。
そのくらいしないと十分とはいえません。
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 犯罪者の人権擁護=罪を軽くする、という風に解釈せず、


 犯罪者の人権擁護=反省するまでは(あの世にだって)逃がさない

 と解釈するとつじつまがあうのでは、と思います。
 人権無視の結果、真相がわからぬまま、また本人が理解せぬまま勝手に死刑で楽になられても困ります。それよりは、自分のしたことの重大さを認識してもらって、生きていてもらうほうが本人にとっても苦痛になるのではないでしょうか(ここでは、一定期間その状態に置いた上で、本人を死刑に処すべきかについては議論を保留しておきます。ただ、私は死って自分が死ぬと社会活動が出来ないから困るけど、現代の死刑でやられているような方法ではそんなに苦痛じゃないんじゃないの?と思ってしまうタイプなので、社会的に抹殺されたような人間に対して意味があるのかなあ?と思ったりもします)。

 勿論、実際の事例では色々とゆがめられている側面が大きいので、是正を求めたい(反省もさせないで減刑・無罪は絶対に許さない)ところですが。
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No.7の者です。




> 刑罰の目的性(私刑の代行、犯罪者の更正教育)、犯罪者の責任能力
と犯罪者の人権問題に直接の関連性が無いのなら、今回のような凶悪
犯罪を犯したものを即死刑にすることに何の問題があるのですか?
(例え加害者が心身喪失状態であり、あるいは更正の可能性があった
としても)だって関係ないんでしょ?

「責任能力を欠く場合に刑罰を課すべきでない」という考え方には、「責任能力があれば刑罰に値する行為をしない選択肢を取り得るところ、そうしなかった、ということに対して刑罰を課すことが出来るのだ」という考え方(※)が背景にあります。現行刑法がこの立場に立っている以上、責任能力を欠く者に対しては、「即死刑」に出来ません。

もちろん、考え方を変えれば、HK1496さんの立場を採ることも出来ます。しかし、現行刑法はその立場を採用していないということです。

また、「更生可能性のある場合には考慮すべきだ」という考え方には、「刑罰には、犯罪者を教育し再発を防ぐ機能がある」という考え方(※)が背景にあります。現行刑法がこの立場に立っている以上、刑事手続において更生可能性を検討しなければならず、したがって「即死刑」に出来ません。

もちろん、この点についても考え方を変えれば、HK1496さんの立場を採ることも出来ます。しかし、現行刑法はその立場を採用していないということです。

※ いずれの考え方においても犯罪者の人権が前面に出てはいないことに、ご注目ください。


> 死刑制度や厳罰化に反対する人たちは犯罪者の人権(ex:犯罪者の更正・社会復帰の可能性あるいは精神病理者に対する偏見への懸念)が大事だから、『被害者側の仇討ち』的側面の強い厳罰化に反対しているのだと思っていました。違うのですか?

そうかもしれませんね。ただそれは「死刑制度や厳罰化」に関する議論であって、いまいる犯罪者をいかに罰するかの議論とは場面が異なりますよね。

議論の場面が異なりますから、切り分けて考える必要があるでしょうね。
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この回答へのお礼

こんばんわ。再回答ありがとうございます。

だけど・・・うーん。

>そうかもしれませんね。ただそれは「死刑制度や厳罰化」に関する議論であって、いまいる犯罪者をいかに罰するかの議論とは場面が異なりますよね。
議論の場面が異なりますから、切り分けて考える必要があるでしょうね

そうなのでしょうか?切り分けていいの?本当に?
犯罪者の責任能力問題も、更正可能性の問題も、根っこは憲法に保障されている『基本的人権』が土台にあるんじゃあないのですか。

つまり精神病理者は(少しややこしいですが生まれながらにして
基本的人権にハンディキャップを負っており)だから、このような
刑事事件についても責任能力についてはそのマイナス分を社会として
大目にみてやらなければならない。

犯罪者の‘更正可能性‘についても、一時的な過ちのみを見てその
犯罪者の人間可能性(つまり人権)を剥奪することはできない、
という観点から、更正可能性を検討するのではないのですか。

つまり回答者様のお話は『何故』の部分が根本的に欠けています。
『今の現行法がそうだから』の地点を超えていません。

しかし、その法律の根幹をなすのは日本国憲法です。
(憲法とは我が日本の土台となる哲学であり宗教です。一応)

回答者様のおっしゃることが正しいのなら、問題は法律の運用のレベルの話であり、問題があれば立法府で法律を改正すればいいことなのだから、そう難しいことではありません。

でも現実はそうではない。

それはつまり日本国憲法の三大原則の一つ、『基本的人権』の問題
が、死刑廃止論争や厳罰化論争の背景にあるからだと思います。

だからこの問題を論じるときには法律の枠内の体系や運用の視点だけでなく、『人権とは何か』『罪とは?罰とは?』『生きるとは?死ぬとは?』という大きな哲学的・宗教的観点が必要なのだと思います

お礼日時:2008/06/09 22:51

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