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京都の千本通がかつての平安京・朱雀大路であったことは有名ですが、元来の朱雀大路は、朱雀門のあった二条から北にはありませんでした。

これが北伸して、南北に長い現在の千本通になったのはいつ頃でしょうか?またその典拠は何でしょうか?

明治時代の『京都坊目誌』という地誌には、鎌倉時代の承久年間にそういう記録があるとありますが、この記録はいったい何をさすのか、よくわかりませんので、これもわかれば教えていただきたいと存じます。

よろしくお願いいたします。

A 回答 (1件)

歴史は門外漢なので見当違いでしたらお許しください。


うろ覚えですが、高校の時に使っていた教科書に載っていた平安京の地図では、二条以北は御所(内裏)だったような気がしたので、検索してみたらやっぱりそうでした。
http://kyoto.nan.co.jp/knowledge/heianmap.html

鎌倉時代嘉禄3年西暦1227年の火事で御所が移転したため道路が出来たということらしいです。
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%AC% …
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この回答へのお礼

kishn_anさん

ご回答ありがとうございます。

そうですね。平安京の大内裏が衰亡したからこそ、朱雀大路が二条以北の大内裏の中まで延伸したのだと思います。そして、嘉禄3年の大火事が直接のきっかけになって、大内裏が衰亡したこともご指摘の通りです。

ですから、この時以降に千本通が「開通」したのだろうという予測はつくのですが、それを示すはっきりとした記録が見つからないんですよ。極端にいえば、鎌倉時代から安土桃山時代までのどこかで「開通」したということしか、今の私にはよくわかりません(笑)。

取り急ぎで失礼ですが、まずは深く御礼申し上げます。

お礼日時:2008/06/23 15:59

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