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なぜ明は暗君が連発したのでしょうか?
やはり残酷さや好色に遺伝や家系的なものがあるのでしょうか?
それとも暗君を生み出す他の要因があったのでしょうか?

A 回答 (4件)

正史については、たしかに問題がある正史もあるのですが、基本的にはプロパガンダ的要素が薄いのが実態です。


そもそも、多くの正史は王朝滅亡後100年くらいたって、当事者が完全に死滅してから書いています。つまりもうプロパガンダをする必要性も無いくらい「過去」になってから書くのが理想なわけです(いまでもそうですが、集団自決があった無かったという話でも分かるように、当事者が生きている間は必ずすったもんだあるわけですよ)。
で、それを怠って当事者が生きているうちに書き上げたのが、モンゴル民族を駆逐した明が作った「元史」でして、文献のすり合わせもむちゃくちゃ(矛盾、齟齬が多発しています)、プロパガンダ的要素が強いため明側に明らかに視点が偏っていたりと、正史の中でも最悪のできとされています(できが悪いもうひとつの理由は、元が世界帝国であり、ペルシャ語の知識も必要であったこともひとつです。20世紀に編まれた新元史ではペルシャ語文献も反映されています)。
ほかに評判が悪いのは「晋書」があり、こちらもプロパガンダ色が強いのと、もうひとつ、戦乱の時代であったため資料の消失が激しかったためとされますね。あとは旧唐書も評判が悪いです。後に新唐書というものが作られています。
さて、肝心の明についてなのですが、実は正史の評判は非常に良いです(最高の出来とも言われます)。これは康熙帝が「正確に、公平に」と再三言っているためでもありますし、もうひとつ理由があります。
実は、明から清への移行はちょっと変わっているのですね。
明は清に滅ぼされたわけではありません。滅ぼしたのは李自成です。そのため、清はあくまで李自成を「討った」だけであり、明を滅ぼしたというそしりは避けられているのです。
ですので明に対する清の考え方は結構やわらかでして、強いプロパガンダがあったわけではないのです。

つまり、明は本当に暗君が多い時代だったのです。
はっきり言って暗君が連続するのは、運の面もあるのです。簡単に言えば明は最初の2代(本来は3代)が名君だったのですが、その後は多くの時間を暗君が在位することになってしまいました(洪熙帝は英明でしたがちょっと死ぬのが早かった)。もちろんその間に明君は登場したのですが、若くして死んでいるという、本当に不幸な結果に終わっています。
もうひとつ、明の暗君が目立つのは、皇帝独裁が強かったためでもあります。独裁というのはどこでもそうなのですが、はっきりいってトップのさじ加減ひとつです。トップが明るければそれは国全体にとってプラスであり、逆に暗ければ悲劇という話です(独裁制の不安定さがここにあります)。
それ以前の中国は、ほとんど官僚が政治を行っている形でした。科挙で優秀な官僚を育て、それらが政務を取り仕切るという形なわけで、皇帝は重大なことを対処するだけです。中国の歴史は、官僚が腐敗して政争で弱体化したことと、皇帝が無策だったことが重なって滅びるのがほとんどです。しかし、明の場合は完全に「皇帝がむちゃくちゃ」だったことが滅亡の原因ではあります。官僚は逆らうと殺されるので何もしません。何もしない官僚は有能でも無能でも関係ありません。こうなると明の滅亡でクローズアップされるのは、ほかの王朝末期にでてくるような奸臣ではなく、皇帝本人です。つまり皇帝が悪かったからあんなになったんだ、という話です(実際その通りですが、宦官の悪影響も無かったといえばうそにはなります。ただ、明の機構だと腐敗はある程度取り除けるのです。皇帝のさじ加減ひとつで人事は一新できますから)。ここに暗君がでやすくなる、注目されやすくなる下地があったといえます(それ以前の王朝なら、凡庸ですんだ程度の人が、暗君になってしまう)。
暗君が連発した理由については、運が無かったというのがやはり一番なのですが、朱元璋から続くその家系的な性質に求める向きもあります。朱元璋は晩年、やったらめたらに功臣や名臣を殺しているのですが、そういった残虐性が遺伝しているのではないかという向きもあります。もうひとつ、彼は結構天邪鬼な面がありまして、まあそれで殺された人も多いのですが、そういった困った一面が遺伝しているのではないかと考える人も、いることはいますね。
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 投稿欄をお借りします。


 ANo.3回答さまは、なべて固定化して考えていた、正史に関する固定観念の反省になります。たいへんありがたい知見であります。
 その固定観念の一つとなっているかとも存じますが、日本の正史では思い浮かぶのが、言うまでもない、日本書紀です。
 これは詔から編纂と奏上までに長期の日月があるとされています。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …では、720年(養老4年)に完成としか記述がなく、奏上や発表なのか、詔はいつなのかが記述されていないようです。
 そのことでのあるところでの講義の内容としては、多くの伝承文献の始末がされた。詳細を知る多くの人物の物故を待って、完成という形をとったのだ、という話を聞いたことがあります。
 そのための日月に、多くの時間が費やされ、一種のプロパガンダの下地準備がなされた。というものです。
 そのことが本当なら、時間をおいての編纂も必ずしも、事の真相記述の確保とばかりはならないのではないでしょうか。

 明についてですが、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90% …(鄭 成功)の記述では、どうもご回答からの実態とは別の面もあったのかな、とも感じてられてまいります。
 歴史の多様性と、認識形成の難しさもありましょうが、ご回答に大きく頷きながら、鄭 成功のこの話から作り上げられるイメージとの差も感じられてきます。鄭 成功の話も入れ込んで、お話を伺えるととても嬉しく存じました。もうしわけありません。
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王朝が変わるときに、王朝が起こることに貢献した人物は、王朝よりで編纂された史書では持ち上げられて書かれたり、小説並みに作り話しされて描かれていたりもします。

他に残存する史書に、同じ人物の愚政や庶民に対してのひどい振る舞いが書かれていてもです。

また儒学の孟子も認めるように、中国では易姓革命によるリーダー交代・王朝交代が起きてきた国です。易姓革命とは、新しいリーダーの名(姓)のもとにそのルールも交換される(易、貿易の易)という意味です。過去の都合の悪い部分は否定され、燃やされます。これは、秦がやった焚書坑儒の時代から、その国民性があったというか、同じような前恐れ否定する考え方をする傾向があったのかもしれません(この時代より前の歴史の多様性がないので、私はいまの中国古代史をそのまま信じない)。

ですので、海外の人が気軽によめるような歴史書では、ひどい部分がクローズアップされ、逆に表に出ない個々の歴史書では、ばかだとおもわれていた政治家や将軍がやった、よいところが読めたりします。

現代の四川大地震でも、日本の大地震への対応を調べたり、日本が持つ設備(最新鋭の重機や行方不明者を2酸化炭素の有無から捜索する機器など)についてをネットで読んだ中国人が、中国政府の対応を避難しているとテレビのコメンテーターが言っていましたが、他のよい例が庶民に見られるのを恐れる体質なのかもしれません。

明のあとには清がきますが、清の歴史書を書いた人はいますが、国家としての正史を現代中国はまだまとめていません。台湾の中華民国の編纂は、たしかに清朝のあとの国家編纂ですが、正史とされていません。
これから書かれるものは、満州語がよめるシボ族の助けをかりた、満州の文献を紐解いたものが期待されるとおもいます。
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中国では、天命を受けて前の王朝を打倒した王朝が、前の王朝の正史を書くことになっています。


で、24史となるのですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2
あら不思議、明で終わっています。

正史を書く理由は、正史を書いている王朝、つまり打倒した側が「俺たちが今 正統なのは、前の王朝がこうだったから」というプロパガンダです。
そういう状況ですので、言い方を変えると 暗君列伝となります。

暗君として書かれているというのが、実情だと思います。
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