アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

哲学のカテゴリーで、このタイトルの質問をしているので、再度ここで質問させてください。
皆様の回答に接していたら、意識できる記憶と出来ない、あるいはしなくて良い記憶、について知りたくなりました。前回、回答していただいた方、また他の方の知識がいただけたらうれしく思います。
ruehasさんの回答に、意識する記憶としない、あるいはできない記憶についての記事がありましたが、具体的な例など挙げて説明してただけると良いのですが。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (12件中1~10件)

こんにちは。


#9です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。

>一回目の回答に、感覚と記憶についてありましたが、感覚を通して記憶が発生する。という受け止め方でよろしいでしょうか。

前回にご説明致しました通り、記憶とは「入力情報に判定を下すための基準」として用いられるものです。
我々の脳内の情報処理といいますのは、
「入力―中枢処理―結果出力」
という経路で行われます。
ですから、中枢系が「外部入力」に対して判定を行う場合は必ずや何らかの「内部情報」が照会されなければなりません。このために再生される情報が「学習記憶」です。
我々の脳内で「記憶の検索」といいますのは「神経回路の選択的反応特性」によって行われます。
「記憶回路」とは同じ対象から同時入力された並列信号によって一塊の神経細胞同士の「横の繋がり」が強化・固定されたものです。このため、学習記憶回路といいますのは必ずや「過去に入力された並列信号」と類似する特定のパターンに対してだけ活性化するという「反応特性」を持っています。
我々の脳内で無数に保持されている情報の検索といいますのはこの記憶回路の反応特性によって行われるものです。従いまして、学習記憶の再生といいますのは、原則的には感覚情報などの外部入力に伴って発生するものと考えて頂いて構わないと思います。

>一回目の回答の中で、基準という言葉を使っていますが、‘比較する’という要素がこの言葉にはあるように思います。比較という作業は理性の分野かと思えるので、要素と言う表現の方がより適当ではないでしょうか。些細なことですが。

我々はしばしば判断や行動の結果に対して理性的・道徳的といった評価を行います。ですが、ここで理性とは「比較・判断」の作業であるというのは、これは明らかに誤った解釈です。
国語辞典を引いてちゃんと確認して下さい。
「理性とは情動の作用を受けない判断」
と定義されています。
我々の脳内で「情報の比較」とは「中枢神経回路の選択的反応特性」によって行われるものであり、解剖学的には以下のような三系統に分かれています。
「本能行動(生命中枢)」
「情動行動(大脳辺縁系)」
「理性行動(大脳皮質)」
このように、比較・判定という作業は特に理性行動のために行われているというわけではありません。これらの中枢が入力情報に対して判定を下すということは、ここではそれぞれの有する選択的反応特性による情報の選別が行われているということです。
では、ここで「それは情動反応を介さない判定である」という国語辞典の定義を適用しますならば、理性行動とは即ち大脳皮質の司る「計画行動(意識行動)」というのが生理学的な解釈ということになります。ならば、その結果が理性的であるかどうかというのはその社会の文化的価値観が決定することであり、それを科学的に分類するということはできません。我々が入力情報に対して善悪の判断を下すことができるのは、それは飽くまでこの社会の価値観(判定基準)を学習したからに過ぎません。ということですので、学習記憶というのは要素ではなく、それは後天的に獲得された「判定の基準である」というのが最も適切な表現と思われます。

>二つ目は二回目の回答のなかで、利益、不利益というと言う表現をされています。これは損、得というイメージが強いので、理性の働きではないかと思えてしまうのです。

これを質問者さんの個人的なイメージで解釈してはいけないです。
まず、脳内には「理性の働き」といった機能は存在しません。
我々の脳が判定を下すことのできる入力情報といいますのは、
「報酬刺激」と
「嫌悪刺激」
この二種類しかなく、そして、この判定は「生物学的利益」に従って行われるものであるというのが生物学の一般的な認識です。
只今述べました通り、それが理性的であるかどうかというのは価値観に基づく結果の評価でしかありません。では、我々の脳内で実際に下されるのはその結果に対する「利益・不利益」の判定です。
我々動物はこの判定が下されることにより、
「報酬刺激:接近行動」
「嫌悪刺激:回避行動」
この二種類の行動選択が可能になります。
ここで、ちょっと意外に思われるかもしれませんが、実は大脳皮質にはこの利益・不利益の判定を下す機能というものがありません。これがどういうことかといいますと、我々の脳内では大脳皮質には行動選択の決定権というものは一切与えられていんないということです。
これに対しまして、本能行動と情動行動では利益・不利益の判定基準が予め決まっています。ですから、基本的には我々動物はこの判定に従って全ての行動を選択しているわけですが、ここでは入力がありさえすれば直ちに反応が発生してしまいますので結果の良し悪しを事前に判定することができません。
では、大脳皮質の役割とは過去の学習記憶を基に未来の結果を予測するということです。そして、ここには価値判断の機能というものがありませんので、予測された未来報酬に利益という判定を下すのは大脳皮質ではなく、大脳辺縁系の情動反応です。この判定が下されることにより、我々は初めてより価値の高い未来の結果を選択することが可能となります。
このように、我々の脳内に「理性の働き」という判定基準はありません。脳が判定を行うのは飽くまで自分にとっての利益・不利益です。そして、ここで過去の学習体験を基に未来の結果を予測することができるのは唯一大脳皮質の「理性行動(計画行動)」だけということになります。

>感情は好きか、嫌いかといった事、自分にとって都合がよければ受け入れられる(受容)、都合が悪ければ受け入れられない(拒否)という反応はあるでしょうが、それを損得という言葉には置き換えにくいように思えるのです。

只今述べました通り、自分にとって都合が良い、悪い、この結果を学習し、利益・不利益の判定を下しているのは大脳辺縁系の情動反応です。そして、我々はこれに従って「接近行動」か「回避行動」の何れかを選択しているわけですが、この判定基準といいますのは「生物学的利益の獲得」という大前提に従って獲得されるものであるため、利益と不利益が逆様に学習されてしまうということはまずありません。同時に、我々が動物である以上、ひとたび不利益と判定されたならばそれに対して接近行動が選択されるということは間違ってもありません。
このように、我々動物の脳といいますのは生物学的利益に反する行動は選択できないように作られています。では、このような基本的な判定基準が何も与えられていなかったとしますならばいったいどうなるでしょうか。利益・不利益の判定に従うならば動物は必ずや生き延びようとします。ですが、ここに善悪や損得といった異なる判定基準を持ち込むならば、あろうことか自殺の決行もまた可能ということになります。
このような用語は生物学でも心理学でも一般に用いられるものであり、これまでにご説明致しましたのが概ねその捕らえ方です。そして、この「生物学的利益」という判定基準が存在するために、果たして我々の行動には一貫した秩序が保たれています。

この回答への補足

私の頭が至らないので、あと数回読んでみることにします。前回よりは理解が進んできました。丁寧な回答ありがとうございました。これで質問は終了したいと思います。

補足日時:2008/07/19 21:50
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。何度も何度も読み返してみます。理解できたかどうかは、後ほど。本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/07/01 20:06

概ねそういうことなんですが、え~と、「時間」がうまく伝わっていないようです。



現存する世界を意識が認識した時には既にその世界は過去でありどこにもないのです。現存する世界は恐ろしく狭いのです。
現存する世界に時間を残しているものはないのです。過去はないのです。

時間を認識するのは意識(記憶)のなせる技なのです。
0.1秒前の画像をイメージ(記憶)しつつ現在の画像を認識しているのは意識なのです。
「りんご」という音声の「ご」を聞いているとき「りん」を覚えているのは意識だけなのです。すでに鼓膜は振動し終わっていて現象としてどこにも残っていません。「りん」を記憶と呼ばすしてなんと呼ぶのでしょう。

当たり前のこととはいえ、これこそが意識の驚愕すべき奇跡なのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
時間については、同様な受け止め方をしているように思えたので、あえて触れませんでした。
大それた表現をして見ます。
存在=時間
哲学好きの方なら、すでに考えていることかと思いますが。
これからもよろしくお願いいたします。

お礼日時:2008/06/29 18:51

>No4です



絵に描いた意識はあり得ない

これは意識は変化することを必然として成り立っているから、絵画のような変化することのない、物事が停止したところには意識は存在しないということです。ある瞬間の意識を絵に描いたり写真をとることでそれ自体を切り出すことは出来ないと言うことでもあります。

 記憶とかメモリーが変化(移動)して織りなしているものが原意識であって、意識がさらに無意識との相互作用によって、あるいは、ご質問者様の言われる「意識する記憶」を操作して、いわば多重のループ回路が形成され、記憶が自己増殖し始める幻想世界が意識の正体なのです。
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この回答へのお礼

脳の中に、記憶する装置があって、意識の上に出せる記憶と、引き出せない記憶がある。そして意識した事柄は、引き出せる記憶と、引き出せない記憶が、相互作用している。意識した事柄は引き出せる記憶からだけで作られるものではない。
こんな風に受け止めてみました。間違い(勘違い)がありましたら、指摘して下さるとありがたいです。バナナサンドさん、ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/28 15:58

こんにちは。


#5です。回答をお読みいただき、ありがとうございます。

>反射神経について、お伺いしてみたいです。

「反射神経と学習記憶の関係」で宜しいでしょうか。
まず、我々動物の神末梢神経といいますのは、
「感覚神経系」
「運動神経系」
「自律神経系」
に分かれており、「反射神経系」という解剖学的分類は特にありません。
では、「反射神経」とは何かといいますと、それは特定の神経組織の名称ではなく、与えられた入力に対して何らかの反応を発生させるための「神経系の働き」を指す言葉です。
車のクラクションを鳴らされて身をかわす、我々は良く、このような「咄嗟の反応」を反射神経と呼びます。ですが、本来「反射とは」、「刺激入力に対する神経系の反応」と定義されるものです。ですから、ここでは入力がありさえすれば反応は待った無し必ず発生してしまうのですから、特に咄嗟の場合だけを反射と呼ぶ必要はないわけです。
そしてこれには、
「無条件反射」と
「条件反射」があります。

「無条件反射」とは通常「反射」と呼ばれているものであり、本能行動といいますのはこの「無条件反射の組み合わせ」によって実現されるものです。そして、ここで用いられる「反応の基準」といいますのは遺伝情報として予め定められているものですから、これによって選択される本能行動といいますのは全人類に共通であり、それを作り変えるということは生涯に渡って絶対にできません。
これに対しまして、「条件反射」といいますのは生後の個人体験を基に後天的に獲得される反応基準に従って発生するものであり、この条件反射によって選択されるものは全て「学習行動」ということになります。そして、前回答でご説明致しました「情動行動(大脳辺縁系)」と「熟練運動(小脳・大脳基底核)」といいますのは、広い意味では共に「条件反射」という解釈が当てはまります。

最初に申し上げました通り、我々の身体には「反射神経」と分類される特定の組織はありません。最も基本的な構造は「脊髄反射」に見られ、狭義ではこの辺りを指す場合もありますが、「広い意味では」といいますのは、
我々の脳内で「反射・反応」といいますのは、
「入力―中継組織―出力」
という構造を持つものは全てこれに含まれるということです。
但し、大脳皮質を中継組織とするものは、これだけはちょっと「反射・反応」とは呼びません。
本能行動を司る「無条件反射」といいますのは、入力に対する判定結果が生まれる前から遺伝的に定められているものです。これに対しまして、「条件反射」といいますのは生後学習によって後天的に獲得される反応基準に従って発生するものです。

有名なところでは「パブロフの犬の実験」があります。ここで餌を与える度にベルを鳴らすことを「条件付け」といいます。
「ヨダレ」といいますのは視覚や味覚からの入力に対して摂食中枢に発生する「無条件反射(本能行動)」ですから、犬の脳内には聴覚入力に反応する反射神経というものは元々ありませんでした。では、ここに「ベルの音」という条件付けが行われることによって「聴覚入力による条件反射」という新たな学習行動が獲得されます。
これと同様に、「食べ物の好き嫌い」といいますのは「情動学習によって獲得される条件反射」です。
我々の生命中枢には、食べられるものに対する拒否反応といいますのは元々プログラムされていません。ですから、それは必ずや生後に学習されるものであり、特定の条件に基づいて大脳辺縁系に獲得された情動反応による食べ物の選り好みが即ち我々の「偏食」です。

このように、本能行動を司る「無条件反射」ではなく、大脳辺縁系や小脳・大脳基底核といった学習機能を持つ中枢を中継組織として発生する反応はみな「条件反射」ということになります。
「熟練運動」といいますのは小脳や大脳基底核に学習される「運動記憶」によって補正されるとご説明致しました。大脳皮質からの運動命令はここで発生する「運動記憶を規準とする反応」によって補正されるわけですから、これもやはり条件反射の一種です。
ですが、我々の身体の運動といいますのは、何時も版で押したような反応が発生して終わりというわけではありません。何故かといいますと、例えば小脳といいますのはただ過去の学習通りに反応を発生させるというだけではなく、ここにはそのときの感覚入力に対応した適切な修正を加えるという高度な機能が備わっているからです。
小脳には大脳皮質からの運動命令だけではなく、身体の各感覚器官から様々な入力があり、ここではその情報をリアルタイムに処理し、筋肉への運動命令にフィードバックしています。
例えば、飛んで来たボールを受け取るとき、
「ボールの速さ、距離・角度(視覚入力)」
「自分の身体の位置や向き(三半規管感覚)」
「腕や関節の角度(臓器感覚)」
小脳ではこのような情報を一瞬のうちに処理し、手足の筋肉に適切な命令を伝達します。これができなければ我々にキャッチ・ボールなど無理です。そして、練習や訓練が積み重ねられるならば、このような運動系全体の学習効果がそれだけ高くなりますので、
「あの選手は中々反射神経が良い」
ということになるわけです。
以上が概ね「反射神経」という概念の捕らえ方であり、このうち、条件反射といいますものは必ずや我々の学習記憶と関係を結んでします。

この回答への補足

一回目の回答に、感覚と記憶についてありましたが、感覚を通して記憶が発生する。という受け止め方でよろしいでしょうか。
またかと思われるかも知れませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

補足日時:2008/06/29 23:26
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この回答へのお礼

この回答へのお礼は‥‥、いやお礼なら付けられます。ありがとうございました。でもコメントはちょっと待ってください。まだよく読んでいません。
前回、前々回の回答はある程度は読み込んでみたつもりです。そして色々と思いついたことや、新たに聞いてみたいことなどいくつか発生いたしました。丁寧な回答を下さるruehas様なら新たな疑問にも回答をいただけるかと思っていますが、その前に、まことに失礼ですが、‘揚げ足取り’を二点させてください。
一回目の回答の中で、基準という言葉を使っていますが、‘比較する’という要素がこの言葉にはあるように思います。比較という作業は理性の分野かと思えるので、要素と言う表現の方がより適当ではないでしょうか。些細なことですが。
二つ目は二回目の回答のなかで、利益、不利益というと言う表現をされています。これは損、得というイメージが強いので、理性の働きではないかと思えてしまうのです。感情は好きか、嫌いかといった事、自分にとって都合がよければ受け入れられる(受容)、都合が悪ければ受け入れられない(拒否)という反応はあるでしょうが、それを損得という言葉には置き換えにくいように思えるのです。
更に正確に理解を深めたいが為の揚げ足取りですが、聞いていただけますでしょうか。

お礼日時:2008/06/28 17:53

お邪魔します。


記憶に関する質問が続いていて、興味深く拝見させていただいています。
今回、回答させていただく内容は、ご質問の意図から外れるかもしれませんが、私の考えている記憶に関する問題点を整理するのが目的です、結果的にはご質問者様の関心を逆転させているかもしれませんが、違う意見が参考になればと、整理してみます。

記憶の問題点を三つの場合で考えてみます。
1)生命の本質のなかに「自己保存」と「自己複製」と言う機能が認められますが、ここで「自己」の問題を一先ず棚上げして「保存」と「複製」に注目すると、この両者はとりもなおさず、記憶力のなせる作用ではないのでしょうか、とすれば、単細胞生物にしても、既に記憶を持っている、と言っても間違ってはいないのではないでしょうか。
2)植物の種子が、一定の環境に置いて、発芽する、植物の種類ごとに一定の順序で、葉を出し、花をつけ、実をつける。これも記憶力に依存しているのではないでしょうか、つまり、遺伝も記憶だと言ってしまっても良いのではないでしょうか。
3)人間の意識に関する点です、意識に先立って記憶があるという仮説です、少し判り難いかもしれません。
自律神経と言われるものは、通常、作用と反作用の繰返しですが、作用に対する反作用が一定であるということは記憶されていると同義ではないでしょうか、心臓の動き目の動きから二足歩行する身体のバランスを保持したり、自分自身が動くことによって目の位置が変化しても地面が揺れる事がない、こういった事柄も、記憶力の存在を抜きに考えることは出来ません。これとは別に、ある作用に対してその反応を遅らせる事や、反応の選択が可能になることが有ります、これが意識の始まりだと考えます。
つまり、記憶と意識の順序を逆転させてみたのですが、如何でしょうか。

ベルクソンは『物質と記憶』の中で、こんな意味深な表現を使います「記憶がどうして物質の中に住むようになったかは知らないが、『物質がわれわれの内に忘却を置く』ということは、私たちにはよくわかるのである。」白水社・田島節夫訳
記憶がどうして物質の中に住むようになったか・・・これが問題ですね。

あと蛇足ですが、記憶がどこにあるのかといった存在論は、困難になります。おそらく記憶は物質のような存在の仕方はしていないのではないでしょうか、いずれにしても、難解ゆえに興味深い問題ですね。一方的な私見の書き込みで、ご迷惑かもしれませんが、寛容の精神でお許しいただければ、幸いです。失礼致しました。
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この回答へのお礼

この回答を受け入れるならば、生物の自己保存は記憶という財産に依存している、といった受け止め方で良いかと思いますが。
ベルグソンの言葉は、意味不明です。
物質の中に、と言うのではなく、生命の中に、と言ったほうがより正確ではないでしょうか。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/22 22:31

 出る幕もなさそうなのですが笑、気になる点だけ回答します。

(そのため少しわかりにくい文章かもしれません。あしからず。)

 学習によって得られた体験、快・不快に結びつく体験が意識できる記憶に含まれるのは容易に理解できることだと思います。ポイントは、(1)快・不快のどちらにも結びついてないはずなのになぜか覚えていること。そして、(2)著しく不快に結びついているなのになぜか忘れていること。

 (1)は、小さなころ何気なく見た花の色とか。立ちションしてた事とか。 (2)は、虐待されていたときの記憶とか。

 (2)については、無意識的な防衛本能が働いているからなどといわれています。参考URLのっけときます。
 (1)については、二通りの考え方が出来ます。ひとつめは、快・不快に直接結びついていないが、頭の中で記憶を反芻しているうちに学習されたものだと言う考え方。いわゆる、刷り込みってやつですね。ふたつめは、実は快・不快に結びついているが、そのことを忘れたしまっているだという考え方。この考え方では、過去の時点では快・不快に結びついているんだけど、記憶を呼び出した時点では快・不快に結びついていないと考える。例えば“小さなころ何気なく見た花の色の例”に関して説明すると・・・
 
 目に付くもの、手に触れるもの全てを新鮮に感じる、好奇心旺盛な子供は、わくわくしながら物言わぬ花を見つめます。ですが、大人になってからは花自体に興味がわかないため、意識から除外されます。

 意識しない記憶のうちでも、成長が進むにつれ意識する記憶から意識しない記憶に変わっていくこともあるんだろうなって思います。


 

参考URL:http://kidukiiro.blog112.fc2.com/blog-entry-118. …
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この回答へのお礼

lio2008さんへ。
参考URL拝見しました。
(2)は体験されたことを仰っているのでしょうか。
よろしければコメントもう一度いただけるとありがたいです。
お願いいたします。

お礼日時:2008/06/21 00:41

意識する記憶としない、あるいはできない記憶



意識する記憶とは、よい記憶、あるいは自分が「これは良い記憶だから
覚えておこう」と決めた記憶。
例えば、人に褒められた。表彰された。成績がよかった。学級委員だった。
人から尊敬された。部下がたくさんいてみんながちやほやしてくれた。
高い給料をもらっていた。
お歳暮がたくさん届いた。高級住宅に住んでいた。子供が成績優秀だった。
奥さんが美人だった。あるいは恋人がセクシーで魅力的だった。
高いワインを飲んだら美味かった。高級レストランでうまい料理を食った。
ブランド物を身につけていたら会社の女の子から趣味がいいわねと言われた。
好きだった彼女と最初に過ごした夜の思い出
(要するに、幾度も反芻するから忘れない)

記憶しない記憶とは
とるに足らないと思っている記憶。消去したい記憶。
犬が今朝したウンコの形
机の上の書類の順番と内容
会社の隣の部門の社員の名前
別れた彼女を口説くときに使ったセリフ
はじめていったホテルの部屋の様子、ホテル代金
ぼられた飲み屋の代金
パチンコの負けの累計額
買って下がった株の銘柄
横断報道の縞の数
今日歩いた道順
昨日履いたパンツの柄

アンケートと間違えてる?>俺
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この回答へのお礼

ANo.6うまいワイン呑みたいさんへ。
覚えておこうと思っても、覚えていないことがよくあります。記憶力が弱いということでしょうね。
覚えようと努力しなくても、いつまでも忘れないこともあります。
自分にとってうれしいことや、反対に忘れたいほど不快なことが。いわゆる印象深いといったことは、いつまでも忘れないですね。
印象深い、といったことは他の何かと無意識に結びつけて(連想して)いるから記憶されるのでしょうか。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/20 20:39

こんにちは。


前回は回答をお読み頂き、ありがとうございました。

我々が通常「学習記憶」と呼んでいるのは大脳皮質に保持されているものですが、脳内で学習を行うのは大脳皮質だけではありません。我々の脳内には大脳皮質以外にも学習機能を持つ中枢があり、学習結果は記憶情報として保持され、しかるべき目的に応じて様々に運用されています。ですが、意識を司るのは大脳皮質だけですから、それ以外の中枢の記憶情報が意識の中に再生され、我々がそれを自覚するということは、脳の構造上、間違ってもありません。

我々の脳の主だった記憶機能には以下のようなものがあります。
「学習記憶(一般に言われる):大脳皮質に保持され、認知・思考に用いられる」
「情動記憶:大脳辺縁系(偏桃体)で再生され、情動反応の判定に用いられる」
「運動記憶:小脳・大脳基底核に学習され、大脳皮質の運動命令を補正する」
他にも記憶情報として働くものは幾つかあり、解明のされていないものもあると思いますが、「学習・保持・再生」といったはっきりとした構造を持つのは概ねこの辺りです。
このうち、我々の意識の中に再生され、内容を自覚することができるのは大脳皮質の学習記憶だけです。では、どうして大脳皮質の学習記憶だけは意識することができるのかといいますと、そもそも意識といいますのは大脳皮質が認知作業を行うために発生するものであるからです
認知といいますのは、例えば「感覚入力(外部情報)」と「学習記憶(内部情報)」といった、連合野内に取り込まれた「複数の情報」を比較する作業です。ですから、このような複数の比較を行うためには、結果が出るまでの間、その情報は連合野内に一時保持されなければなりません。そして、大脳皮質がこの「情報の一時保持」を行うために必要なのが「意識」という状態です。ですから、意識が途絶えるならば連合野の情報は消えてしまいますので、もう一度情報を取り込んで意識を発生させなければ認知作業を行うことができなくなります。このため、我々の脳内では大脳皮質の学習記憶といいますのは唯一「意識に上る記憶」であり、逆にいいますならば、意識として再生されなければ我々はそれを使うことができないというわけです。
ならば、これに対しまして、片や「大脳辺縁系の情動記憶」といいますのは、こちらは「どうやっても意識することのできない記憶」とご説明することになります。

大脳辺縁系の情動記憶といいますのは環境からの入力に対して利益・不利益の判定を下し、情動反応を発生させるために学習される記憶です。入力に対する判定といいますのは、神経系の働きとしましては「認知的な作業」ということになりますが、大脳皮質の認知作業と異なる点は、情動反応では複数の情報を比較する必要がないということです。
何故かといいますと、ここでは過去に発生した反応に基づいて利益・不利益の判定結果そのもの学習されているからです。ですから、結果は既に決まっているわけですから情報を一時保持する必要はなく、入力がありさえすればYES・NOの判定は即座に下されてしまいます。そして、この反応の結果は大脳皮質には送られず、そのまま自律系や運動系に出力され、必要な行動や反応は待った無しで発生してしまいます。この無意識な反応を「情動性身体反応」といい、この反応の結果を我々は「感情」と呼びます。
このように、大脳辺縁系の情動反応といいますのは意識というものを通らずに再生されるものであり、そして、どちらに判定が下されるかは反応が発生するまで当人にも知ることができません。これが、我々が自分の意志で感情を操作することのできない理由です。

「運動記憶」といいますのは自転車やキャッチ・ボールなど身体で覚えた「熟練運動」の記録であり、ゴルフの腕前や楽器の演奏といった訓練の結果もここに学習されます。
この運動記憶を司る小脳と大脳基底核は、運動命令を出す大脳皮質と、それを実行する運動神経の間にあります。そして、ここでは過去の訓練結果に基づき、大脳皮質の運動命令に修正を加え、実際の筋肉の動きを木目細かにコントロールする働きを担っています。
例えば、「目玉焼きを作れ!」、命令を出すのは大脳皮質ですが、台所の角で生卵をコツンとやり、割れ目に指を当てて静かにフライパンに落とす、このような「手順」や「力加減」といいますのは全て小脳・基底核の方に学習されていることです。さもなくば、全身の筋肉の動きをいちいち大脳皮質で考えているのでは、我々は立ったり歩いたりという単純な動作さえ間に合いません。果たして、それは子供頃に「あんよは上手」で既に学習していることであり、大脳皮質が歩く度に「右!左!」と命令をしているのではないわけです。
このように、「運動記憶」といいますのは我々の身体を自動でコントロールするための情報であり、こちらは「わざわざ意識に上る必要のない記憶」ということになります。

我々自身が知り得る記憶といいますのは大脳皮質の学習記憶だけです。ですが、我々の行う生後学習といいますのはそれだけではありません。様々な情動体験を積み重ねれば豊かな心を持つことができますし、一生懸命に努力をすれは練習や訓練の結果は脳内にきちんと学習・記憶されます。

この回答への補足

この回答がすうーと頭に入るレベルにないので、ちょっと質問させてください。反射神経について、お伺いしてみたいです。
よろしくお願いいたします。

補足日時:2008/06/22 22:40
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この回答へのお礼

お礼の返事(感想)ちょっと待ってください。

お礼日時:2008/06/20 20:42

前回はうまく説明できずすいません。



映像の記憶を例にします。
たとえば、昨年夏の海水浴での目に焼き付いた海の思い出が、いわゆる記憶ですね。一方、今見ている海は、目に入ってきた光に視細胞が反応して、視神経が脳に伝えるのですが、このときの映像情報は、視細胞から信号が出力された時から記憶になります。既にその人の中にある情報なのです。視神経に流れる信号も記憶なのです。脳細胞に投影された記憶と形態は違いますが同質の信号であり、その人の中にあります。

次に意識です。
 意識には、時間が絶対必要です。絵に描いた意識はあり得ません。
意識しているというのは、記憶とか情報の流れのみによって形成されているのであって、記憶なくして意識は一瞬たりとも成立しないのです。
停止している意識と言うのはないのです。動き、変化して初めて意識であって、その動きは情報とか信号なのです。そして、人の中の情報とか信号はすべて記憶です。お気づきかもしれませんが、意識に実体はありません。海という実在に対して、意識された海は記憶が作り上げる幻想なのです。

意識しなくて良い記憶
 ということで人間の処理する総量のおそらく99%以上が意識しなくて良い記憶で成り立っています。映像、音、臭い等から内蔵機能、自律神経などなど、ほとんど全自動なのです。たとえば、映像信号を人間の意識にきちんと順序だてて投影させるという自動機能(意識しなくて良い記憶)は、顕在意識をおりなす機能よりも遙かに高度で高速なのです。おそらく100倍から1000倍の差はあるでしょう。
 で、この意識しなくて良い記憶の作用が顕在意識よりも遙かに高度だからこそ顕在意識はイライラせずに安心して生きていられます。フィルムが切れた映画のように、意識に届く映像が遅れるということで困るなんてことはないということです。
 
 蛇足で、意識する記憶としない、あるいはできない記憶の境界は意識側から見ると明白ですが全体から見るとどうしても曖昧ですね。
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この回答へのお礼

とても興味の湧く回答です。暫く自分の心を見つめてみたいと思います。一つだけ分かりにくかったのは、絵に描いた意識はあり得ない、という表現です。これの意味するところが分からないので、ご面倒かと思いますが、表現を変えて説明いただけるとありがたいです。調子に乗るな、と叱られてしまうそうですが、どうかよろしくお願いいたします。

お礼日時:2008/06/20 21:02

意識できる記憶:


最近起こったニュースとか、今日の予定の時間とか、電話番号、メールアドレス、自分の住所など意識できる記憶。
意識しなくて良い記憶:
車の乗り方、進むときはアクセルを止まる時はブレーキを無意識に踏んでいる。たまにアクセルとブレーキを踏み間違えて、突っ込んでしまう人がいますが、この記憶に問題を生じているのではないでしょうか。前へ進むという意識とそれに反応する所謂体が覚えている記憶。
外出の時にドアの鍵を無意識にかけている。2,3歩いて、鍵をかけたかの記憶が飛んでいることに気づいて戻って施錠を確認するという場合。
鍵をかけるという意識があり、それに続く行動の部分の記憶をしていない。
頭が命令をだして、習慣的動作は記憶がないことが多いでしょう。
習慣的動作になるまで、意識して記憶する。習慣的動作になると、意識する記憶がなくても勝手に体が動作を行う。
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この回答へのお礼

そういえば、お酒を飲んでプッツンして、気がついたら家に帰っていた、なんてことあります。その過程を覚えていないのです。ちゃんと道順を間違えずに、帰っているのだから、瞬間の意識はあるのでしょう。でもその瞬間を記憶していかないのですね。
犬や猫、のレベルだということでしょうか。
意識と記憶??。そして心の記憶と体の記憶、ということにまで興味が湧いてきてしまいました。
lexanblueさん、ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/20 21:25

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