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有名な源氏物語の冒頭

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、
いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

この文章は、「いづれの(帝の)御時にか」「すぐれて時めきたまふ(方が)ありけり。」
という具合に( )の中が省かれています。
これに限らず昔の文章は主語や述語が省かれる頻度が多いように思います。
現代語ならば( )の部分も表記されます。
もちろんこの場合敬意表現の使い方や前後の文脈で、誰を指しているか
分かりますが、
もっと分かりにくい文章もあります。
慣れていない人にとって古文が難しいのは、言葉の違いや表現の違いもありますが、
こういう省略が多い事も一因だと思います。
どうして昔の文章は主語述語が省略されるのでしょうか?

A 回答 (5件)

現在でも、日本人である我々の会話には主語、述語は省かれていますよね。

英語などを学習するといちいち「I、my、me、you、your」等の語句の挿入が必要で日本語とは大きく相違するのがわかります。
ですから日本語の会話はもともとそういうものであって、古文に見られるような文章は商業的に「だれでもわかりやすく」という制約もないのですから、あえてそういう「顧客としての第三者」「お客さん」という「疎外感」は発生していないのですから主語、述語は不要ということではないでしょうか。ですから「省略した」のではなく、生活に即しているだけであって、主語述語を「わざわざ挿入」するほうが近代的、西欧的であって、「日本的」でないわけです。現代でも日本語の文章には英語の文章に比べれば主語、述語はまだまだ少ない(古文よりは多くなっているでしょうが)と思います。なにも「昔」に限ってのことではないと思います。
そこに「日本的馴れ合い」とか「村意識」とか、西欧との文化的差異があるわけです。
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交換日記かどうかは?ですが、No3さんのおっしゃるとおりでしょう。



このころの文章は不特定多数の読者を想定していません。せいぜい数人が想定されていた読者の範囲でしょう。この範囲で書かなくてもわかることは書かない、それだけです。
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日本語には本来、主語述語の概念がないからです。


主語は、人称による動詞の活用から従属するものであります。日本語には人称自体がはっっきりしていません。しかもインドヨーロッパ語と異なり、文に必ずしも動詞を必要としません。
また当時は音読が当たり前で、読む速度が遅く、読んでいる最中にある程度想像が出来てしまうことも、大きな要因と考えられます。
尚、当時も書き言葉と話し言葉には違いがありましたので、書き言葉を読むことが出来ることは、教養の一部と考えられていたのでしょう。
以上、簡単に答えました。
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知り合い同士の交換日記だったから。



古文が想定しているのは、氏素性のわからない不特定の読者ではなく、顔を知っている相手、あるいは自分の子孫(●●日記などはそうなる)あるいは、自分への備忘録です。
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紙が貴重品だからではないでしょうか。


また書物を読む人も限定されていると思います。
赤の他人の私たちに読ませようと書いたものではないです。
ある程度の知人知識人なので判るのではないでしょうか。
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