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なぜ生きるのでしょうか?僕は、生きる意味はなく神が生かしているだけだと思います。神は正義ではありません。なぜなら、戦争をしたり、憎んだり、傷つけたり、苦しんだりするからです。神はなぜこの社会を作ったかはわかりませんが,サイコロを振って決めたのかもしれません。皆さんはどうお考えですか?

A 回答 (13件中1~10件)

なぜ死なないのか。

死ぬのが怖いから。周りの人たちを悲しませ、もう二度と会えないから。

自分で選ばなくとも、人間には死はいつかは必ずやってきます。これだけは唯一確実な予言です。

自分とは違うものを見ると恐怖を感じます。似ていることが見つけ出せたり、違っていても理解できれば、仲良くしたり、それなりに認め合うことは出来ます。理解できないと、闘うか逃げる準備をすることになります。人を理解しようとすること、また人に理解されるよう努力することで他人との争いを少なく出来ると思います。

神について、神は自然法則であり又人間も含む現象はその自然法則が具体化したものと考えた場合、この宇宙の全体であり、各一部分が神であることになります。あなたもわたしも目の前の小石も神が具体化されたものです。こんな神はいかがですか。神の名を高めるのはあなたしだいです。
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 神がこの社会を作られたのは、それによって自身も幸福を感じ、子供である人間にも幸福を感じてもらおうとされたためのようです。

ちょうど親が子を育てて行く過程で幸福を味わうように、自身の人格完成が一定程度完成された場合、次は他者を育むことで幸福が得られるようですし、また子供自身も神へと向上していくこと自体に幸福を感じるわけです。
 ではなぜ戦争等で苦しんだりするかというと、例えば教師が自分のクラスの生徒全員を愛し、皆各々が個性を輝かせてすばらしいクラスにして行きたいと熱心に励んだとしても、生徒各々の振る舞いの仕方は生徒各々の自由の範囲であるため、例えば1年生の文化祭では優秀賞をとれるほどまとまって感動を共有し合えたけど、体育祭では意見が対立しけんかになってしまって、苦い思い出となった、しかし2年生ではその失敗を生かして体育祭もすばらしい思い出を作ることができた、ということはありうるでしょう。このようにして、神の子である人間は、失敗を教訓にしながら、よりすばらしくなって行く過程に幸福を感じるわけで、そのために生きているらしいです。自身が神のような知恵と愛にあふれたすばらしい人格へと向上して行くこと自体が幸福ですし、他の人々も同様にすばらしい人格へと向上して行き、そうした人々とつくりあげる社会共有体験がすばらしいものになって行く、そこに幸福感が味わえるというわけで、そのために生きている、ということのようです。
 なお、例えばテレビ自体は壊れても、放送電波自体は存在継続しているように、肉体は死んでも心・魂存在は継続するようです。電波も心も火で焼失したりするような、目に見える形での「物体」ではないというだけのことです。心・魂とは、意思・思考・感情等を持った電気電波エネルギー体のようなもののようです。
 また、この世の地球とは、一つの学校のようなものでもあって、あの世からこの世の学校へみんなと一緒に時折出てきて、よりすばらしい人間になってよりすばらしい社会を作ってすばらしい体験をして行こう、としているようです。
 またこの世とは、一つの缶詰のようなものであって、あの世の心・魂の状態とは、気体のようなもので比重によって階層等がわかれていて、比重等の違う人々との交流はやや難しいようですが、この世の缶詰に入ると比重等の違う人々とも交流ができ、それが人格の向上や、新しい体験につながるようで、それによって自身の比重等も変化し、出てきたときよりもすばらしい世界へ戻っていけたりするようです。(逆もあるようですが、その場合でもその後またすばらしくなることはいくらでも可能のようです。)
 また、宇宙には、地球とは違ったレベルや価値観の星が多数あり、地球において一通りの人格を築けたら、別の星へ移動したりもするようです。
 このようにして、人格と社会の向上をなして行く過程に幸福増進を味わうために生きているようですし、神も熱心にその実現のために取り組んでおられるようです。もちろん、その過程自体は冒頭に記述しましたように、試行錯誤の連続でいいことも苦しいことも色々起きてくるでしょう。一時期後退することだってあるかもしれません。しかし、基本的に誰も苦は嫌ですから、苦をなくして幸福になりたい、という方向に動いて行くようになるのではないかとも思えます。もちろん、繰り返しで恐縮ですが、試行錯誤の連続でうまくいくこともいかないこともあるでしょうが、失敗の数だけ教訓になってもいるでしょうし、要はよりよくしていけばいいということでもあるでしょうか。
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「生きる」と「生きている」とは意味が違うと思います。

生きるというのは生きていることが前提になっていると思います。生きているというのは物理学などの概念で定義できるようです。また生きるというのは人間だけについての概念でしょうか。結局物質や宇宙の起源と同じ種類の問いになってしまうようにも思います。
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なぜ生きるかというと、生まれてしまったからです。



地上に落ちた花の種はやがて芽を出し、重力に(わざわざ)逆らって天に向かって伸びようとします。
伸びようとする力が生きる力、ということになります。
生きるということは、単純に、草花の茎が天に向かって伸びていくようなものです。
実に単純な生物学的現象にすぎません。

人間は、その(生きるという)現象を客観視できるだけに考えてしまうわけですが、何も考えなくても生きていける。
このことが、生きるとは実に単純な生物学的現象であることの証明です。

では、なぜ生きるか、と問うことは不毛かというとそういうことにはなりません。
このように問うことの目的は、自分自身で納得した生を生きたいからでしょう。
つまり、
「なぜ生きるか」という問いは、
「どのように考えれば自分は納得できるだろうか」
と問うているのと同じことになります。

人それぞれの生きる意味があっていいということになります。
生きる意味は「ある」ものではなく「創造するもの」と言うことができます。
ただし、「納得できる」のが自分だけであっては、社会という集団の中で生きている以上、本当の意味で納得することはできないでしょう。
納得したいのは誰も彼も同じです。
どのようにバランスをとり、どのように共生していくか、という視点抜きにして自分自身の「生きる意味」を考えることはできません。

「>戦争をしたり、憎んだり、傷つけたり、苦しんだりする」のは、人間が愚かだからです。
しかし、人間が愚かだからといって、ha5050さんまで真似する必要はありません。
愚かでない道を模索してください。
どなたかもおっしゃっていましたが、そのために(もしいるならば)神は人間に意志を与えたのですから。
神は正義を与える立場にはいません。
(もしあるとすれば)正義を選択する能力を与えているだけです。
神に生かされているとしても、人間が適切な選択をしていないだけという可能性のほうが高いように思います。

蛇足ですが、サイコロを振ったのではなく、罰ゲームだったんじゃないかな、という気がします。
 
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生きる意味に限らず、すべての事象に、本来持った意味などないのです。


すべての事象の意味は、主観の定義するところからはじまる。

つまり、それに「どういう意味を付け加えるか」はそれをとらえる人の
考え方次第です。
我々一人一人が、現実という意味不明な時空に生かされているのでなく
我々一人一人が現実の事象に「意味づけ」を行なうことで現実が
変化しているのです。

なぜ、生きるかと問う前に、どう生きるかが問われている。


なぜなら、腹が減るのに「どうしておなかが減るのかな?」と考えても
はじまらない。
だからと言って、空腹には意味はない。神が勝手に空腹を作り出している。
と言っていても最後は餓死するか、あるいは空腹に耐え切れず何かを食うだろう。

そうなる前に、人は「空腹」になんらかの「意味」を与える。
曰く
空腹は栄養摂取のための信号
食欲は、快楽の一つだ
食事はコミュニケーションの手段

食べ物の美味い、まずいも人が付加する意味
なぜ、食うかという答えとして
「美味いから」
なぜ食わないかという答えとして
「不味いから」

それでは、なぜ生きるかという答えとして
「生きることは楽しいから」
もしくは、生きたくない答えに
「生きることは苦しいから」
という答えもある。

しかし、美味いが「食う」理由であっても
食うことの目的は「食うべきようにしむけられている」厳然たる
事実がある。
人は、なぜ餓死を自殺の手段に選ばないか。
ただ生きるだけで苦しいのに飢餓の苦しみまで味わいたくは
ないからだろう。

でも、生きることが楽しいという人は、美味い料理を食って
さらに楽しいと思う。

それは、生きるという行為の意味を自分が行程的定義し
積極的に享受しているからにほかならない。
確かに、美食が過ぎれば糖尿病で死期を早めるケースもあるが。
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 究極の自己を呼吸するため

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生きる意味というのがもしあったとしても、あなたがそれを理解できると思っているとしたら、それは傲慢です。


数学者が30秒で解ける10人を5つのペアに分ける場合の数、将棋の高段者が3秒で解ける7手詰め、あなたは何時間で解けますか?
有名なところでは、ロケットの後ろに軽量で無限の長さの紐をつけ、宇宙を巡った後地球に戻り、紐の両端を手繰った場合、引っかかるかどうか?(例えば宇宙がドーナッツ型なら50%の確率で引っかかる)ってことの証明も、誰かが解いてネットで発表して、世界のトップクラスの学者がその男の説明会を開いて、わかったことは、説明には明らかな矛盾はないがその説明は自分達には理解できないってこと。
こんな単純なことでさえそうなのだから、生きる意味っていうのが仮にあったとしてもあなたには(私にもですが)到底理解できないってことは、理解できますか?
頭悪くてもどうしても理解した言って言う人向けで、ポピュラーな方法は教祖様を信じるということ。おっしゃることを、それがやさしいことであれば理解するまで繰り返す。教祖様のおっしゃることだけが正しいのでそれ以外を捨てること。
そういうことが、お嫌いな場合は、傲慢さを捨て、理解できないってことを理解しましょう。
もし、正しい説明があったとすれば、その説明が正しければ正しいほどあなたは理解できません。
一度囲碁や将棋の棋聖戦名人戦の解説を聞いて見ましょう。正しい説明なんですが、まるっきりわからないでしょう。
あなたが理解できないからといって、それを根拠に、この説明は間違った説明って考えるのは間違いってわかりますよね。
また、その解説中には「この手の意味はわかりません」という言葉も時々聞かれることでしょう。囲碁の棋聖戦、将棋の名人戦はトップ2の戦いですから、それトップ3以下の人に理解不能の手があって当然なんです。
理解できないことが正しいということを理解しましょう。
あなたが神様であれば自身の存在意義を知らなければ神様失格です。私の感想なんですけど、バカな人ほど自分は神様だって思ってる傾向が強いです。あなたが神様でなく普通の人間なら生きる意味は一生わからなくて当然なことです。
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生きる意味は「自分の夢を実現すること」だと思います。



もし、「生きる意味はなく神が生かしているだけ」ならば、そもそも、神は、何故、「意識」などというものを作る必要があったのでしょうか? 
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自分の幸せを考えましょう。


今この時間にも、北朝鮮の収容所では拷問を受け
苦しみもがき、飢餓の不安におびえている人たち
がいるのです。
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1)なぜ生きるか?


宇宙を支配する摂理を神と呼びましょう。人は神の力によって、生かされています。それは、確かです。なぜなら、生きている人は、死に至る病気にかからないし、もしかしたら遭遇するかも知れない事故にも事件にも巻き込まれていないからです。その時がくるまで多分生かされ続けます。その時は、おっしゃるとおりサイコロ(偶然)によって決まるのでしょう。しかし、そのサイコロも実に人任せで、生活態度とか、健康とか自分の考え方を律していると、死の確立の中になかなか入らないのです。
2)なぜ生きるか?
生きがいがあるからです。いきいきと生きている人は、やりたいものを持っているのです。職業とか趣味とか、迷い無く、集中してやっていけるようなものを持っている。それは、身に沁みついたものとして以前から間断無く続けたようなものです。それが生きがいであり、それによって社会的使命を達して、社会とつながりを持つことができて、日々を有意義に、退屈することなく過ごすことができるのです。
3)サイコロで決まるのか?
神は自らを助けようとする者を助けるのです。また、自ら生きようとする者を生かすのです。その前提として、人の意志が入って初めて神の力を借りることができます。いま生きる社会も人の意志で試行錯誤の末に出来上がったものです。それが良い社会かどうかは神が判断を下すのです。
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