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宗教と言う言葉の意味を考えるとき
「神と人間を再び結ぶ」
と訳されますが、ここから
「1度、神と人間が別々に別れてしまった」
という状況が分かりますが神と人間が1度決別した状況とは
一体、どの様な状況なのでしょうか??

また日本の神道なども、この様な形式をとっているのでしょうか?

自然崇拝の色が濃いと思いますがキリスト教などと同様に
超越的な神がいる日本の神道など、はこの様な意味に
当てはまらないと思うのですが・・・

A 回答 (5件)

元々一つと言う事は「子供の心。

或は幼子」と言う意味です。そうして
決別した状況とは心が二つに分かれた事を意味します。二つに分かれた事の一つは「何も考えないでいた時に湧き上がってくる『第一念』の事です。」

二つに分かれた心のもう一つとは第一念に対する「尻込みをしている『第二念』の事です。これが高じた時に「精神疾患」というものの発症と言う事になります。或は「人間苦」の始まりと云っても良いかと思います。

それは『命そのものの働き』と『自我意識』との対立と矛盾と云っても良いかと思います。その事が二元論の始まりと言う事になります。

それは人間の脳の構造によります。その証拠が「幼子が天国に一番近い」と言う言葉に集約されています。脳の機能分化が未完と言う事です。

脳の機能が完成に近くなるころから『人間は無常を感じて悩みが始る』とも言えます。その悩みこそが二元論、心の対立と言えます。それはこころがふたつあることによります。

一つが現意識是は左脳の分別脳の事です。
もう一つは右脳にある『無意識の意識』『仏性』『神』です。

この対立と矛盾が『人間苦』の全てです。『精神疾患』の大本です。

従って『悩む、人間苦』で苦しむ事は自我が『仏性』から圧迫を受けている状態です。それが「妄想」の正体です。是は『左脳だけを認めている事から、右脳による助け舟が出されている事とも言えます。自我意識はその事が理解出来ない状態とも言えます。他の言い方をするならば『左脳が主導権を持って解決できない問題を抱えて立ち往生』している事と言えます。

『禅』による生活と言う事は『右脳が』上に置かれて『左脳』がそれに従っている状態とも言えます。それは『分別を捨てた生き方』とも言えます。

これは一度決別した二つのものが『見性』によって又一つになったとも言えます。右脳の意識とは理解し難いものですが『無意識の意識』というものでお釈迦様が言った『仏性』に相当します。禅はわかりにくいという欠点があります。又時間が掛かるという欠点があります。ですが『禅』の中に『精神疾患』というものを理解するためのカギが有ります。
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 religion =「神と人間を再び結ぶ」


という語源解釈は 人びとの後づけです。
 定説は 《きよらかなるものへおそれ / 畏敬の念 / 敬虔な態度》だそうです。《ふたたび読む / 何度も省みる》という語源だと言います。
 でも あとづけとしてでも 通っているのならば 
 ★ 神と人間が1度決別した状況とは / 一体、どの様な状況なのでしょうか??
 ☆ という疑問が起こります。しかも これが アダムとエワの物語としても ちょうど 《再びつなぐ》説に当てはまっているようです。
 これについては わたしの次の質問への回答をごらんください。
 《QNo.4142889 アダムとイブの楽園追放について =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4142889.html 》そのANo.4です。

 ★ また日本の神道なども、この様な形式をとっているのでしょうか?
 ☆ これについても 申し訳ないですが 次の質問への回答をよろしかったら ごらんください。
 《QNo.4103850 武士道と天皇制を重視する理由を見つけたい。= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4103850.html 》そのANo.14です。
 また
 ★ 宗教の意味について
 ☆ は あなたの次のご質問へのわたしの回答を もう一度 読んでいただくと さいわいです。
 《QNo.4085599 宗教が生まれるメカニズムについて=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4085599.html 》そのANo.6です。
 つまり そこでは 次のお応えをいただいたのですが それに細かくはご返答をしなかったのですが ひととおり補足しておきます。
 ★★ 超人・自然への崇拝心から宗教は生まれ / また宗教と言う言葉の意味の通り神と人間を結ぶという意味から / 次第に神との共生を考えるようになり宗教が生まれたということ / でしょうか?(No.6お礼欄)
 ☆ 《自然への崇拝心から》は ひろく《信仰》が生まれました。つまり個人の信仰 もしくは 《恐れ・畏れ》としての《 religion 》ですね。
 《超人への崇拝心》は 単なる神話・伝説のたぐいにかかわります。《あがめる心》であるなら そうである限り 《おそれ》にも重なるかも知れません。決定的な違いは 神話や超人の問題は われわれ人間とツーカーのごとく通じており つながっているということです。
 信仰は 別です。接点を追究することはあっても 神と人とは 飽くまで 別の存在です。(というより 神という名で呼ぶのですが そんな存在は ありえないかも知れません。しかも そう断定できないところに この神を想定したのです)。これが 神話の神々や超人とは まるっきり 違う点です。
 《宗教》は 信仰から 派生したという部分もあるでしょうが 個人の信仰から離れたときに成り立つ社会現象です。初めの《おそれ》を 教祖・教義・教団のもとに 管理しようというただの人間の想像力による産物です。個人の信仰が消える もしくは 制約を受けるところの人間の発明物です。もっと言えば 個人の信仰にとって 自殺行為です。
 政治によって 一定の安全がもたらされるのと同じように 宗教によっても 一定の秩序が醸し出されるというのかも知れません。
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religionを日本語にした時 どうするか の問題で、宗教 という文字を翻訳の際に使うようになったのだと思えます。



外国語のGodもどうするか という問題で、天主とかも使いましたが、今では一般的に神という字を翻訳の際に当てはめるのが通例になっています。

で、宗教の宗ってのはムネですよね。
で 教は オシエなので、私は療法で「これをムネとせよという教えの1つ」という風に思っていました。

だからどれをモットーとするかは、自分の考えとマッチする宗教が選択として挙げられ、どの宗教にも自分のモットーと相容れない場合で、しかもどうしても自分のモットーを世の中に広めたい場合、自分が教祖となり、自分の考えを教理とする宗教を作る。

って思ってました。


で、宗教ってネット辞書でひくと、
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BD%A1 …

『1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系』

で 私の宗教ってものの語彙の理解とちょっと違う。

神仏を亡くなった人とすれば、死んでしまった人のモットーを宗として生きるってのなら、それはまさに仏教の捉え方。

神道は、民間信仰と他の国の神様とが習合しているので、とらえどころが無い。

で、「神と人間を再び結ぶ」ってのが、、、
カトリックができた時、教皇は神の代理人だとされたんです。
神の思考を理解できるものは、教皇のみ としたんですね。
いわゆる預言者と位置づけた。

この元はプラトン。

えっとキリスト教ができる何百年も前に生きた人で、イデア界は全くの義の世界だとしたんです。
人間はかつてこのイデアの世界に存在していたが、肉体を持ったため、イデア界から離れてしまい、義がなんたるか いわゆる神の義がわからなくなってしまった としたんです。

でも、一部の哲学者はイデア界を認識できるとし、その哲学者の言うことに従っていさえすれば、イデア界を認識できず、不義ともしらずやってしまっていた人も、善だけしかしなくなる としたんです。

その考えをキリスト教は支持し、一部の博識者 イデア界を認識できる人を教皇だとし、神と直接対話できるのは教皇だけだから、教皇に言う通りに信者は従っていさえすばいい としたんですね。


だから教皇は神の代理人とされ、教皇の意見は神の意見として信者は教皇の言うことに従ってきたってわけです。

従って、教皇は現神人なわけです。

日本だと天皇がそうだとされます。
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この回答へのお礼

分かりました

ありがとうございます

お礼日時:2008/07/14 10:05

 私の個人的な見解かもしれませんが、少しお話させていた出します。


 この「宗教」という言葉は日本においては幕末から明治にかけて成立した言葉で、それまで日本には「宗教」という言葉はありませんでした。ではなぜ、宗教という言葉が必要になったかといえば英語の「Religion」という言葉を訳す必要があったからです。このReligionの意味は質問の中にあるように「神と人間を再び結ぶ」という意味でよいと思います。


>>「1度、神と人間が別々に別れてしまった」という状況が分かりますが神と人間が1度決別した状況とは一体、どの様な状況なのでしょうか??

 これは簡単に説明しますと、「神と結ばれた状態」はアダムとイブがエデンの園にいた状態だと考えればよいかと思います。
 しかし、アダムとイブは禁断の果実を食べてエデンの園から追い出されます。(これを「失楽園」といいます。失楽園は不倫のことではありませんよ!笑)このエデンの園から追い出された状態を「神と別にした状態」とします。
 それから、ユダヤ教ではモーセが神と再び十戒等々の契約をします。キリスト教ではイエスが、イスラム教ではムハンマド(マホメット)が、神との約束を人々に伝えることで神と人間を再び繋いだわけです。だから、「旧約聖書」「新約聖書」などは約束の「約」の字が使われるわけです。ですから、この約束を守って生きることを「神と人間を再び結んだ状態」となるわけです。(乱暴な説明ですが・・)
 ですから、「Religion」という言葉自体が、ユダヤ教を源流にもつキリスト教イスラム教等の一神教の意味を持っています。


>>また日本の神道なども、この様な形式をとっているのでしょうか?
>>自然崇拝の色が濃いと思いますがキリスト教などと同様に超越的な神がいる日本の神道など、はこの様な意味に当てはまらないと思うのですが・・・

 ですから、「神と人間を再び結ぶ」というようなことは、ユダヤ教を中心とする一神教思想がもつ原理であって、日本の「神道」にはあてはまらないですね。日本のカミは「超越」ともいえないでしょう。基本的には自然現象そのものの具現化ですから、自然というものはただそこにあるもので契約も何もありませんからね。(一説には先にあげたユダヤ・キリスト・イスラムの神はもとは「雷の神」だって話もありますけどね。モーセは雷の音を聞いて十戒を授かりますし、その名残で「天にまします我らの父よ」とか「天父」て呼び方が残ってるらしいです。まぁ定説は見ていないようですけどね。)
 ただ、日本人のカミとの付き合い方は日本人の「魂」の付き合い方に似ているかもしれません。民俗学者柳田國男氏によれば、死者は死後すぐには人に災いをもたらす死霊となります。そのあらぶる魂を鎮めるために定期的に供養します(これは、今でも仏教に取り込まれて残っています。一周忌とか何回忌とかが、それです)。そして、三十三年から五十年と供養の時間は地域で差はありますが、そういった供養が終わると死霊としてもっていた故人の個性を失い、「先祖」という子孫繁栄のカミと同化していきます。
 神々に関して、基本的には日本のカミは「あらぶる神」です。それをお祭りなどで定期的に供養することで、そのあらぶる魂を鎮め、つつがなく生活をしていくというようなものが日本人のカミ様との付き合い方ですかね。

 長々書き連ねましたが、急ごしらえのため誤字脱字乱文はご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

遅れてすみません。

一神教の原理ですね。
ありがとうございました

お礼日時:2008/07/14 10:04

 religionのことでしょう。


 宗教は宗の教え、基本、基の教えでしょう。その集団や個人の。
 
 宗教ってひっくるめていても、どうそのひっくるめたものを定義説明するかは、場合によります。

 religionは欧米とかでしょう。創造者から人間や個人が独立してしまった、ということでしょう。
 彼らはもとからそうなのですが、民俗や習俗でそのままの状態が宗教であると思っているところがありますね、全部ではないが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2008/07/14 10:01

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