先頃大河ドラマの篤姫を見ていて思ったのですが。篤姫が大奥に入った一番の目的に慶喜を次期将軍に勧めるためという事が繰り返し言われています。「慶喜様は人望も厚く」などなどお褒めの言葉が出てきますが、篤姫原作ですと彼女は慶喜のことをそんなに高く評価しなかったとありましたし、「15代将軍慶喜」(だったかな)という小説を読んだときもあまり良いイメージを受けなかったのですが。実際のところどんな方だったのでしょうか。
知識のベースが小説なのでどこまでが本当で、どのくらいフィクションがはいっているのか解りかねています。宜しくお願いします。
A 回答 (9件)
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No.9
- 回答日時:
#2です。
その時代時代の最後の権力者はやはり勝者の側からみがちですからね。鎌倉時代最後の執権北条高時しかり、室町時代最後の将軍足利義昭しかり、どうしても暗君というイメージが付きまといますよね。
ですから江戸時代最後の将軍徳川慶喜も暗君といわれても仕方ないのです。
この中で北条高時だけは自刃したんですけど、やはりあまりよく言われないですね。
徳川慶喜だって大政奉還したり、江戸城を無血開城したりといいことを結構たくさんしているんですけどやはり小説の目で見ると「華」が足りないんです。
だからこの人が9代とか10代将軍とかだったらまるきり目立たずに歴史の世界でひっそりとささやかに暮らして、誰からもいいことも悪いこともいわれずに過ごせたかもしれませんね。
最後の将軍は次の権力者に主役を譲るだけの存在なので少々のことをしてもたいした評価はされないですし、ちょっとした小さな失敗や悪いことは大げさに罵られます。これはめぐり合わせですからね仕方ないことですよ。
最後の将軍になるからだめなんです。それも実力のうちです。
最後のコメントなかなか意味深いですね。フランス最後の王ルイ16世についても似たようなことが言われてますね。彼は王としては結構優秀だったけど、「最後」だったということで悪いイメージが広まってしまったと。
No.8
- 回答日時:
現代のようにメディアなどが発達した時代ならともかくとして、それ以前の過去に生きた人の人物像は結局のところ、歴史的だとされる事実から類推するよりほか方法がないところがあります。
だから結局は受けての印象によって評価が変わってくることになります。司馬遼太郎の「最後の将軍」と山岡荘八の「徳川慶喜」では、慶喜の印象だいぶ異なります。それは司馬と山岡で受け取り方が違うからです。私自身は+の印象です。私自身の印象は結果論的な所からくるところも大きいかもしれませんが、彼自身が恭順という立場をとったことも少なからず影響したことで外国からの侵略も受けずに新しい政権が誕生したわけですよね。この点においてかなり+な印象です。
前政権のトップが恭順という姿勢を見せることって、たぶん歴史的に見てもかなり少数な事例だと思うのですが。。。
質問者様自体はマイナスな印象をお持ちのようですが、印象を変えたいのなら、山岡荘八の「徳川慶喜」や、曾孫にあたる徳川慶朝氏の「徳川慶喜家へようこそ」や、同氏編纂の徳川慶喜の写真集などを読まれると、もう少し違った視点も開けるような気がします。私自身が読んでいないのであれなんですが、渋沢栄一という旧幕臣で慶喜と親交のあった人物の書いた「徳川慶喜公伝」なども読んでみるとまた違ったことが分かるかもしれません。
いずれにせよ、徳川慶喜という人に限らずプラスやマイナスの評価を知っておくことが大切ですし、それをもとにあなた自身の考えを作っていけばよいのではないでしょうか。
参考文献についての情報ありがとうございます。図書館で探して見ます。
渋沢栄一(だったと思います、確か彼は兄弟だったのでもう片方のほうかも)についての小説も読んだことがあります。確かに今思い出してみれば、彼は明治政府の役職につくのを慶喜に悪いと言う理由で拒んだというエピソードがありました。それについて慶喜は新政府は優秀な人材が必要なのだから、薩摩だとか長州だとか旧幕府派などと言っていないで新しい政府に協力しなさい、それが国のためだからと助言し、渋沢は役職を請けたとありました。これも本当ならプラス要因追加ですね。
No.7
- 回答日時:
No5です
慶喜に見立てるならば
・外交問題(拉致被害関連)に対して積極姿勢をとると期待された。
・前の参議院選挙で選挙の顔として、実績があまり無いのに前評判が高かった。
・小泉政権を継承して改革を断行すると期待された。
・官房長官から後継者として抜擢。
・閣僚や大臣のスキャンダルで内憂外患。
・強行採決を行い、多くの法案を成立したが、独裁との批判もあり。
・選挙で敗北、活路を見出せず突然の自任(無責任と酷評)
主観的要素も入っているので、慶喜に見立てても良いのか分かりませんが
福田首相を慶喜に見立てるよりは、イメージが近いかもしれないと思います。
再度ありがとうございます。期待されたとか評判が高かったとか言うコメントから、前首相は期待はずれだったのかなという印象を受けました。慶喜のイメージがそれに近いとしたら。。。なんとなくイメージがわきました。
No.6
- 回答日時:
他の方が、慶喜は鳥羽伏見の戦いで指揮を放棄して、江戸に逃げ帰ったと指摘していますが、史実書は勝者の威光が高まるよう書かれるので、将軍という全時代の象徴であった慶喜が非難の集中砲火にあったことは想像にかたくありません。
明治維新後、静岡県で隠居生活をしたそうですが、かつての部下や関係者が、幕末(倒幕)~明治維新の間の出来事は多くを語らなかったとも。
鳥羽伏見の戦いも、ホンキで逃げたという説と内戦による国内秩序の崩壊を可能な限り避けたという説、外国による植民地化を避けたという説があると7いう話を聞いた事があります。
明治期後半には、明治天皇に謁見しています。
ありがとうございます。戦いの指揮を放棄して逃げた「らしい」と言ったもの何かその裏に作戦があったのではという気もしなくもないからです。大政奉還も、いかにも「もう止めた」という投げやりな姿勢から行ったような印象を歴史の授業では受けたのですが、本当は天皇派に政治が出来るわけないと踏んで、大政奉還すれば天皇派が泣きついてくると考えた上(この推測は結局は間違いでしたが)での作戦だったと読みました。そういう意図があったなら、それはそれで評価に値するのではと個人的には思いました。
No.5
- 回答日時:
現代の有能さと、当時の有能さがイコールであれば簡単なんですが
当時は何を持って有能とされていたかによって評価が難しいかと。
それはさて置き、将軍後継問題で慶喜が押されたのは、父の斉昭の
攘夷論に対して人々が期待した部分があります。実力はともかく
口先だけは威勢の良い斉昭を取り込むための宣伝工作の一環として
慶喜を英明であると宣伝する事はあると思います。
で、将軍就任後は幕府の改革…と言うよりは、延命を行う為に
軍事改革やフランス皇帝の支援など、積極的な政策を行いますが
倒幕に至ったのは周知の通りです。
後世の評価は良くも悪くも「最後の将軍」ですが、質問の意図が
江戸時代の評価は実際どうだったのか?と言う事で回答するなら
立場によって評価はマチマチですね。
大奥などは経費削減・既得権益喪失が予想される為に、評価は
低かったですし、雄藩連合を構想していた四賢公からは、老中
政治を一新して舵取りをすると高く評価されてましたし。
No4の方が評されているように、「まずまずの人材」では
無かったかと思います。現代の人物で言えば安倍前総理が
イメージに近いのでは?
なるほど。ところで安部前総理のイメージ(評価)はどんな感じなのでしょうか。海外生活が長く、いつ総理大臣職についていたのか、何を実際にされた方なのか全く知識がありません。名前は聞いたことがありますが、写真を見ても解らないのでは。。。
No.4
- 回答日時:
幕末の政治家としては、まずまずの人材だったかと思います。
幕末の藩主クラス以上の身分で、突出していたのは島津斉彬だけです。
果断さという意味では、徳川斉昭と井伊直弼を加えてもよいかと思いますが、あとのほとんどは家臣に担がれるだけの存在でした。
その中にあって、有能な家臣を抜擢して政策を立案させ、自らの判断でそれを実行できる能力と実績があった徳川慶喜は、まあまあマシな方だと思います。
ただ、坊ちゃん育ちで胆力がなく、他の方の回答で批判されているように、鳥羽伏見の戦いで真っ先に逃げ出すような側面も確かにありました。
しかし、本人が水戸学の本場である水戸の出身であり、朝敵となって歴史に汚名を残すことへの思想的な恐怖感は、現代人の我々が考えるよりもはるかに強かったでしょう。
頭は悪くなかったようなので、先が見え過ぎてしまい、行動にブレーキがかかってしまったのではないでしょうか。
もし戊辰戦争で徳川慶喜が最後まであきらめずに戦えば、戦火による犠牲者は史実よりもはるかに多くなったことは、まず間違いありません。
その意味では、明治維新の隠れた功績者だという評価も、明治時代からあったようです。
論理だけでなく感情も入っての判断というコメント確かにと思います。どんなに理論家の人でも感情論はどうしても入ってきますね。
トップに立つ人の能力というのはその人が何が出来るかというより、どれだけ下の人の能力を見分けられ、適材適所で使えるかにかかっているという論を聞いてなるほどと思ったことがありました。「15代将軍慶喜」だったと思いますが、「家康公の時には何某と何某(ちゃんと名前が入っていましたが忘れました)というすばらしい家臣がいたからあれだけのことが出来た、今私の家臣で何某と何某に匹敵するものがいるのか」と問いかけ家臣たちが答えに詰まってしまったというシーンもありました。家康と彼の家臣の関係(これも小説からの知識が主ですが)は主従というより同胞といったほうが良いように感じました。
歴史上偉大なことをしたといわれる人でもやはり一人でやり遂げたわけはないですね。これは日本史ばかりでなく西洋史でもいえますね。
No.2
- 回答日時:
そうですね。
鳥羽伏見の戦いで指揮を放棄して部下全員に責任を丸投げして江戸に逃げ帰ったという信じられないことをしでかした将軍ですね。しかも戦後は明治政府で貴族になってちゃっかり贅沢三昧した世渡り上手な人です。案外と良い人と思われているみたいです。
まあ、戦の大きらいな徹底的な平和主義者といえば聞こえはいいですかね。
隠居後は贅沢三昧だったのですか。自分だけ平穏な日々を送って(実際には平穏でなかったのかもしれませんが)「責任」とか取らなくて良いのかねと思ったこともありました。最後まで忠義を立てて戦った人たちはどうなるのって感じですね。まあ、平和主義者という立場からだと、勝手に忠義立て手戦ったのだろうというコメントも出てくるかと思いますが。
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