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このドラマに家定の乳母として、歌橋がでてくますが、
乳母ということは、結婚して乳がよくでた、ということとおもいますが
実際に結婚した人が大奥に入ることがあったのでしょうか?

A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

「歌橋」のことは、すでに、Wikipedia等でお調べになっていることと思いますので、私は、側面からお話をさせていただきます。

>>乳母ということは、結婚して乳がよくでた、ということとおもいますが実際に結婚した人が大奥に入ることがあったのでしょうか?

この「答え」は、ありました。
基準としては、ほぼ同時期に子どもを生んだ旗本の妻が選ばれました。そして、自分が生んだ子どもと将軍家の子どものどちらにも乳を与えました。そして、将軍家の子どもに乳を与える時は、NO1.の方が言われるように、「覆面」を被って与えました。

さて、では、「歌橋」を乳母とする「家定」と、その母「本寿院」についてですが・・・。
(1)本寿院、実名は「お美津」またの名を「堅子(すえこ)」と呼ばれて、跡部正寧(下級武士の)女として、文化4(1807)年生まれ。文政5(1822)年に西ノ丸大奥にあがりました。翌年、12代将軍家慶の側室に選ばれ、「お手つき中臈」となりました。
ちなみに、「御中臈」は旗本などの家柄からの出身者で、公方さま(通常お城では「将軍さま」とは呼ばず、「公方さま」と呼んでいました。)の側室予備軍をその位に就けました。そして、公方さまと枕を一緒にすると、翌日からは「お手つき中臈」と呼ばれるようになりました。しかし、一生涯公方さまと枕を共にできない中臈もおり、そういう人たちは「お清(きよ)の中臈」と呼ばれました。
多くの書物から、「お美津」は、公方さまの「お手」がついてから、「御中臈」となった、とありますので、何らかの出来事で公方さまの目にとまり「お手」がついたものでしょう。
(2)家定は幼名を政之助といい、家慶の四男として、母「お美津の方」で文政7(1824)年5月6日に生まれました。兄の3人が早世したため、将軍候補とされましたが、一説には「脳性麻痺」だったと言われています。
天保12(1841)年閏1月晦日に11代将軍家斉が死亡し、直ちに、家慶が12代将軍に就任。家慶は一橋家の慶喜を次期将軍候補に挙げたこともありました。しかし、老中の阿部正弘らが反対をして、結局は、筋目正しく、自分の子ども(政之助)を次期将軍とすることと決めました。
(3)家定、お美津の方、歌橋との関係・・・。
家定は病弱であったため、また、お美津の方が身分卑しきため、さらに、家慶が次期将軍にするかどうかの迷いがあったため、特に、乳を提供する乳母は与えられず、お美津の方の母乳で育ちました。そして、乳離れがしてから、歌橋が「教育掛り」として「乳母」に選ばれました。
(4)歌橋は生没年、及び、出自不明ではありますが、大奥での位は「上臈御年寄」で、大奥では最高権力者。役目としては、公方さまや御台所の相談役。京都の公家出身者が多かった。
家定の実母である「お美津の方」は「お部屋さま」(女子を産むと「お腹さま」)と呼ばれて、「老女上座」の地位を与えられ、もちろん、別格扱いではありましたが、歌橋は、その「お美津の方」よりも権勢を誇ったと言われています。

(よもやま話)
(1)「お美津の方」は、家定のほかに六男春之丞(1826.2.9~1827.9.26=諦明院)と七男悦五郎(1828.9.10~1829.3.24=充誠院)を産んでいます。
(2)「お美津の方」。跡部正寧女。1807~1885。本寿院。千代田城(江戸時代、江戸城とは呼ばず「舞鶴城(ぶかくじょう)」、正式には「千代田城」、庶民は一般的に、ただ「御城」と呼んでいました。)開城後は、一橋家に身を寄せていました。
(3)篤姫は、家定の「正室」といわれていますが、実は、正しくは「継々室」と3番目の「妻」です。
(4)では、1番と2番は・・・と言うと、
御台所・・・有君任子(ただこ)、鷹司政通養女、鷹司熙末女。1823.6.5~1848。天親院。
継室(2番目の妻)・・・寿明姫秀子(すめひめひでこ)、初め「明子」と呼ばれた。一条忠良女。1826~1850.6。澄心院。
継々室(3番目の妻)・・・篤姫、幼名「お一(おかつ)」、後「敬子(すみこ)」。島津忠剛女、島津斉彬養女、近衛忠熙養女。1836.12~1883.11。夫家定の死後天璋院と名乗る。千代田城開城後は本寿院と共に一橋家に身を寄せる。

あなたの「答え」になっていたでしょうか。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございました、大変参考になりました、
大奥にお詳しそうなのでいくつかおききします、
家定は本寿院の乳でそだてられた、ようですが、一般的に、次期将軍の乳母は既婚者で同じくらいの年齢の子供がおり乳が相当よくでる旗本の奥方でそこそこの器量で、つねに大奥と自宅を行ったりきたりして、次期将軍である子供と自分のこどもの両方に乳をあたえいたことになりますね、相当いそがしそうで、乳母のご主人はかまってもらえたのでしょうか、奥方が乳母に選ばれた、ご主人は側室等に面倒をみてもらったのでしょうか?授乳の次期が終わると、歌橋は大奥の最高位ですから、大奥に専念し自宅には戻らなかったのでしょうか?(旦那はどうなってしまうのでしょう
時代をさかのぼって春日の局は家光の乳母ですが養育がかりだけで、実際の授乳はしなかったのでしょうか、ほかに授乳専門の人がいたのでしょうか?

お礼日時:2008/07/26 14:21

私のつたない解説をお読みいただいてありがとうございます。



>>相当いそがしそうで、乳母のご主人はかまってもらえたのでしょうか、奥方が乳母に選ばれた、ご主人は側室等に面倒をみてもらったのでしょうか?
>>つねに大奥と自宅を行ったりきたりして、

結論から言いますと、自宅から通勤?はしていません。
(1)乳を与える乳母の場合、子どもは昼夜に関係なく授乳させなければなりませんでしたので、大奥に部屋を与えられて、自分の子どもとともに、将軍家の乳児の授乳期間が終わるまで大奥で暮らしました。
もちろん、御半下と呼ばれる大奥では一番下の位の女中が数人貸与?されて、その乳母の身の回りのことをしてくれました。
例えば、将軍家の乳児に授乳させている間は、乳母の乳児の世話などをしてくれました。
(2)当然、自宅にはいませんから、さぞかし、ご主人は寂しい思いをしたことは余りあることですが、妻が乳母に選ばれる、ということは、「名誉」でありました。
詳しい「史料」は、どこかへしまい忘れてしまったのですが、妻が大奥にいる期間は、臨時的に、または、永久的に、確か、30石くらいの加増がされました。
(3)では、夫の世話は、というと、旗本の中でも割合裕福な家から妻が選ばれていましたし、臨時の加増もありましたので、雇い人を使い、衣食住の全てを雇い人たちが世話をしました。ただ、夜のこととなると、やはり寂しい思いをしたと思われます。しかし、他の旗本でも、例えば、佐渡奉行などとなって佐渡へ赴任したような時には「単身赴任」でしたので、1年間位の「欲望」はがまんしました。
(4)旗本の場合にも、もちろん、いわゆる「2号さん」を持つ人はいました。また、当時は、2号さんを持つことは、他の同僚からは、うらやましがられて、現代のようにコソコソではなく、結構、公然と2号さんを囲っていました。ただ、将軍家や大名家などと違って、妻妾同居はせず、2号さんには「別宅」が与えられ、男は、そこへ通いました。

>>授乳の次期が終わると、歌橋は大奥の最高位ですから、大奥に専念し自宅には戻らなかったのでしょうか?

3代将軍家光の乳母である春日局は、「公募」で選ばれていますが、その後の代々の将軍家の「養育掛り」は大奥の中のある程度の地位のある者や、わざわざ、京都の公家の女を呼び寄せて「養育掛り」としました。
そして、大奥に入ることは=一生涯独身で暮らしました。大奥の世界だけで生涯を終えました。
先にも書きましたが、公方さまの「側室候補」としては、旗本出身の女を集め「御中臈」という地位につけました。しかし、一生涯「お清の中臈」で終えた人も数多くいました。また、公方さまも「御中臈」以外でいい女が見つかれば、そちらを側室としました。
さらに、大奥に入った者は、最下位の「御半下」でさえ、自宅に、いわゆる、「里帰り」ができるのは、年に1~2回で、勝手に、また、自由に自宅へ帰ったりすることはできませんでした。
極端に言えば、両親が死亡しても、現代のような「特別休暇」の制度はなく、死に目にも会えなかったり、葬儀に参列することさえもできませんでした。
一旦、大奥に入ったら、身分が高くなればなるほど、「辞~めた」などと言って大奥から去ることさえできませんでした。
ちなみに、歌橋の墓は目黒の「祐天寺」にあります。法名:法好院。

>>時代をさかのぼって春日の局は家光の乳母ですが養育がかりだけで、実際の授乳はしなかったのでしょうか、ほかに授乳専門の人がいたのでしょうか?

春日局(お福)は、稲葉正成と結婚し正勝、正定、正利の3人の子どもを産んでいますが、一説によると、正成が妾を持ち、腹を立てたお福は妾を斬り殺して正成に離縁状を叩きつけ、京に出、徳川秀忠の子、家光(竹千代)誕生および乳母募集の高札を見て応募した、といわれています。
当然、経産婦ではありますが、すでに、乳は出ておらず、乳を与えたのは別の女であったと考えます。
授乳専門の女は「覆面」をし、その幼児が「なつかないよう」に、また、大きくなった時、その乳母やその一族を特別扱いをしないようにしました。
おもしろいことに、2007年12月にテレビ東京で超歴史ミステリー「大奥III」では、家光(竹千代)は、家康とお福の間にできた子どもだ、だから、秀忠夫妻は、竹千代よりも次男国松を可愛がり、次期将軍には国松を据えようとしたが、お福が家康に直訴をしたことから3代将軍に家光(竹千代)がなったのだ、そうした直訴ができたのも、家康とお福に「ただならぬ関係」があったからだ、と、大胆な仮説を放映しています。

なお、言い訳がましいようですが、
実は、大奥の実態が少しずつ明らかになったのは、明治になってからです。
と言うのも、大奥に入る時、「大奥での出来事は一切口外しない」という「誓書」を入れさせられており、お宿下がりをした者でも家人に、「大奥ではこうだ・・・」などと話しをしてはならないことになっていましたので、大奥は、まったく、闇の世界でした。
さらに、大奥で位が高くなると、実名ではなく「源氏名」で呼ばれましたので、どこの出自でどのような家系なのかも一切語られることはありませんでした。
ですから、多くの歴史作家や歴史家は、今なお必死に大奥の研究に走っているのが現状です。

(よもやま話・つづき)
(1)大名はこぞって将軍さまを真似した?
そうなんです。江戸城には「表」「中奥」「大奥」があり、諸大名は江戸城の格式を真似て「表」「奥向き」と仕切られていました。「中奥」や「大奥」と呼ばなかったのは、多少の遠慮があったからです。しかし、奥女中の職名や階級は同じで、それに間取りなども禄に応じて江戸城を小さく模した。「お毒見役」や「中臈の御添寝役」なども諸大名家にもありました。したがって、貧乏大名では大して豪華でもない食事を、うるさい仕来りで食べねばならず、たいへん苦労しました。また、女ぎらいの大名もいましたが、奥向きへ行くことを薦める役職もあり、奥行きを勝手にやめるわけにはいかなかったのです。
(2)大奥は男子禁制?
確かに「男子禁制」でした。「表(おもて)」と「大奥」の中間に「中奥(なかおく)」というのがあり、ここが公方さまの寝所ででした。「表」と「中奥」の先を仕切ってあるのが「お鈴口」。このお鈴口を公方さまが入られるときに、合図として鳴らされたのが鈴で、「奥」の廊下の鴨居つたいに鈴が幾つもぶらさがっていましたので、この廊下を「お鈴廊下」と称しました。そして、公方さまは中奥の「蔦の間」で寝起きをし、子造りにも励まれました。大奥は「御殿向(おとのむき)」「長局(ながつぼね)」「御広敷(おひろしき)」と分かれており、「御殿向」は御台所様の居室。その他の女性たちは「長局」で起居していました。「御広敷」は玄関口などを警備する役人の詰所でした。大奥は10歳以上の男子はいっさい出入りが禁止されていました。しかし、老中などの位が高くなると、役目上の御用で、特別に大奥に入ることが許されました。また、警備上の理由で月に一回は「老中見回り」、三ヶ月に一回は「御留守居見回り」があり、男子が「女の園」に入ることができた。男に飢えたお女中たちが、この時ばかりと、特別に着飾って色目をつかったが、見て見ぬ振りをすることが義務付けられていた。
(3)大奥3000人て本当?
まず、公方さまの身の回りの世話をする「腰元」が約300人。御台所様にも同じく約300人。「中臈」は数十人の女中を使っていました。大奥の居住者総数はほぼ1000人程度。多いときで2000人くらいだったでしょうか。「大奥3000人」は、江戸城の図面から見ても、とても収容することができない人数です。しかし、それくらい「でっかい」と言いたかったのでしょう。大奥の敷地面積は約6000坪、部屋数約600室でした。そして、中臈以上になると、一人で20畳以上ある部屋が与えられました。しかし、それ以下の者の大半は畳1畳分くらいの寝床しかありませんでした。
(4)大奥の階級
頂点は何といっても、御台所(みだいどころ=公方様の正室)。これは、もちろん一人。次に、上臈御年寄りが約10名。中年寄り約7名。中臈(側室候補)、「表使」や「御右筆」など。ここまでが「御目見得」(公方さまに顔を見せることを許された者)以上で、その下に「御末」、「御犬子供」という「御目見得」以下の女性たちがひしめいていたのです。公方さまや御台所さまのお世話をするのは「御末」などの中から選ばれた者が「御目見得腰元」としてお世話にあたりました。しかし、「御目見得」以下の腰元や女中たちが大半を占めていました。中臈以上の総勢は約90名ほどだったといわれています。2000~3000人の大奥女性たちのキャリア組またはエリートというわけです。
(5)大奥の給料
幕府の年間予算が盛時で約80万両(640億円)。ところが、大奥の予算は約20万両(160億円)もかかりました。国家予算の四分の一が大奥の経費にあてられた、というわけです。そして、御台所さまの年収はというと「使い放題」。中臈では約932万円、御目見得以上の腰元は約144万円くらいだったといわれています。当時の大工の平均年収が210万円くらいだったことからみると、実に贅沢な暮らしだったかがわかります。なぜなら、大工は年収の中で衣食住をまかない、家族も養いました。しかし、大奥女中たちは住まいと食事はタダだったのです。そして、その大半は化粧道具や着物、簪(かんざし)、櫛(くし)などというファッションに使われたのです。しかし、御目見得以下になると、ほとんど「無給」だったのです。これは「行儀見習い」として町方の大店(おおだな=大商人)の家から大奥へ仕える子女が多かったためです。この者たちは実家から小遣いをもらっていました。町方の娘にしては、ただ大奥に仕えるということだけで誇りと名誉だったからです。ただし、衣食住は提供されましたから、生活するだけなら、何も不自由はなかったようです。
(6)御台所様の化粧方法
顔面から襟元までを「白粉」で真っ白に塗りたくり、眉を書き口紅を塗っていました。一見しては、誰が誰だかわからないような化粧法でした。これは公家の習慣で、素顔を見せるのは失礼に当たる、という意味でした。しかし、その他もろもろの女性たちは素顔でいました。なお、白粉には「鉛」が多く含まれており、顔に吹き出物などが出てきました。それを隠すためにも、さらに、厚化粧をして隠しました。そして、鉛を肌から吸収することにより、「貧血」や「脳障害による情緒不安定でキレやすい」などの病が発現した方もおられたようです。 
(7)大奥の廊下で御台所様やお中臈と出くわした下級お女中は・・・
下級お女中がバッタリ廊下で御台様などと出くわしてしまったときは、女中はバタッと腹ばいになり、顔を床に押し付けて、ただただ御台様一行が通り過ぎて行くのを待ちました。これには、「下品な者」が御台様などの目に入らぬようにとの仕来たりでした。しかし、御台様などが廊下で立ち話などをされていると、さあ大変。急用などでどうしてもというときは、腹ばいになったまま後ずさりをして、廊下の曲がり角などに身を隠してから立ち上がり、別の廊下を通って御用に走りました。
(8)御台所様は30歳で「おしとね御免」
「おしとね」とは公方さまと床を一緒にすることですが、30歳になると、公方さまと一緒に寝ることは許されませんでした。これには、当時の御台所様の多くが公家出身で健康状態もあまり良くなくひよわでした。もし、妊娠でもされると、今で言う「高齢出産」ということで、身体への影響を考えて避妊の意味も含まれていました。しかし、お世継ぎを生んでもらうためには、さらに、辛いことには、御台様が30歳になると自ら「お添い寝役」として、自分の子飼いの女中を公方さまに差し出しました。若い娘で10歳という記録もあるようです。自分の子飼いの女中を差し出すのは、自分の権勢を保つためでしたが、年に一度の「お花見の会」などで、公方さまが「あの者の名は?」と側近に洩らすと、イコール「お添い寝役」決定でした。こぞって、器量良しに豪華な着物を着せて公方さまのお近くをそぞろ歩かせました。とにかく、お目にとまるよう必死だったのです。大奥の派閥争いは熾烈だったのです。また、そうした行事のないときでも、側室を薦めるときには「お庭お目見得」がおこなわれ、候補者に庭を歩かせ、公方さまは障子の蔭から覗き見て、気に入った者がいると「夜のものを取らせよ」とお声がかかった。でも、遠くから綺麗に着飾ってお目にとまっても実際に床に入ったらブス・・・。どうしましょう。「ほかに床を」の一言でお役御免になってしまったのです。ああ可愛そう。
(9)公方さまの寝所には二人の女がいた
そうなんです。ただし、一人はもちろん「お添い寝役」で、公方さまと床を一つにしました。しかし、もう一人の中臈は畳一枚ほど離れたところに床を敷き公方さまに背を向けたまま一睡もせずに、公方さまと「お添い寝役」の睦言に耳をそばだてました。そして、翌朝になると、御年寄に一部始終を報告しました。直接の原因としては、五代将軍綱吉のとき、寵臣の柳沢甲斐守吉保が、自分の意のままになる中臈をつかって、お添い寝の最中に100万石の加増をねだらせたという。この一件は未然に防がれましたが「柳沢騒動」として、以来、人権無視の監視中臈が付くようになったというわけです。でも、監視役の中臈は、すぐそばで、公方さまがセックスをされている音を聞くと、さぞかし身体が火照ったことでしょう。悲しい寂しい役目ですね。
(10)将軍夫妻の会話
公方さまも「表」では威厳正しく厳格であったが、大奥での夫婦同志の会話となると、いたって、庶民と変わりがなかった。公方さまは自分のことを「こちらは・・・」とか「自分は・・・」と言い、御台所は「私は好きだ」とか「私は嫌い」と何も変わったところはなかった。また、お附きの者にも「遊ばせ言葉」と言って、公方さまのことを「お上(かみ)」御台所のことは「御前(おまえ)」と呼ばせた。
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この回答へのお礼

ありがとう、ございました、

お礼日時:2008/07/27 23:47

>乳母ということは、結婚して乳がよくでた、ということとおもいますが


「乳母」というのは「乳を与えた女」という意味もありますが、「養育係(ベビーシッター)」を意味する「乳母」もあります。
いろいろなトラブルを経験したであろう幕末期と言うことを考えると#1さんの回答のとおり「養育係」であったと考えるのが普通ではないでしょうか?

徳川政権下においては・・・年寄・老中は爺様のことではなく幕府・藩の重役(世襲制ですから、若くても家督を継いだときには役職も引き継ぎますね)であり、大奥では、御年寄・老女も実年齢の問題ではなく「大奥の最高権力者」を意味しているように、一般的な日本語の意味とは違った「役職」を表す言葉もあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました、

お礼日時:2008/07/26 14:24

乳母という場合、あの時代ですと二パターンあります。


1:ホントに乳をあげる人
2:育児責任者

2は典型的には春日局となります。歌橋がどのような人か不明ですが、名前が残っていると言うことは 2である可能性が高い。
というのは、1の場合、乳母は覆面をして授乳します。将来、将軍になるような人物と乳母が特別な関係にならないようにする措置です。
※ 逆に言えば初期の春日局は1,2両方してまして、自分の息子やら、先妻の息子やらを、立身出世させたという前例があるからですが。
ということで 少なくとも 1の場合 経産婦ということなります。
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この回答へのお礼

ありがとうございました、

お礼日時:2008/07/26 14:27

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