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日本政府は、広田内閣(1936.3~37.2)で日独防共協定、近衛内閣(1937.6~39.1)でイタリアを含めた三国防共同盟をむすびます。
陸軍、はソ連だけが対象となっているわけではなくて、米英仏も対象となりうると見ています。が、政府内でも三国同盟へ反対意見が多く、海軍もほとんど反対だったようです。

この時代、アメリカの日本への敵対行為は限度を越えるものではなく、仮想敵国となるようなものではないと思っているのですが、ではなぜ近衛などは三国同盟を結ぶようになったのでしょう。陸軍が割と賛成派だったらしいのですがなぜなんでしょう。


http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/ …

A 回答 (8件)

とーっても趣味的な知識じゃないので正確性はないと思いますが、書かさせてください。



まず三国軍事同盟を組む目的は世界的孤立感の解消だと思います。
当時、日本は中国における問題で国際連盟を脱退し孤立感を深めていました。そこで、仲間意識と言うのでしょうか、力をつけてきたドイツや同じ考え方であったイタリアと組むことで立場を強めようとしたと考えられます。
さらにはロシアも含め四国軍事同盟までも考えられていたようです。(まぁこれは空転に終わりますが…)さらにはドイツが欧州戦線で勝ち進むことも予想されていたようです。
ただ、同じく国際的にドイツと組むことは日本の立場を悪化させることはあきらかでしたが、陸軍の力が強く(一説によると天皇の意向もあったとか)なかば政府と海軍が押し切られた感じもあります。
結果これを結ぶことで亜細亜における欧米勢力の一掃という、大東亜共栄圏という仮想スローガンのもと日本の勢力を広めることでしか当時の世界(経済)情勢は乗り切れないと思われたこともあげられると思います。

この問題は深く行くとその当時の背景まで考える必要があります。いろいろな視点で見ると面白いですよ。
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 質問の意図がはっきりと絞られていないように感じるので、的がはずれるかもしれないのですが・・・


 
<政府内でも三国同盟へ反対意見が多く、海軍もほとんど反対だったようです
という部分ですが、第二次近衛内閣成立後の閣議で決まった『基本国策要綱」では、(陸相立案)「速やかに独伊との政治的結束を強化」とあります。
 それは、この時日中戦争に行き詰まっていた日本にとって、東南アジアを支配していた仏・蘭・英を敗退させたドイツは、ありがたくもあり、お手本でもあったんでしょう。(その前から、防共協定を強化する軍事同盟案(対英仏)がドイツとの間で交渉されたが、陸対海軍でもめ、1年間も・・・陸軍は一人でも突っ走り、米英排斥運動もバックアップしちゃいますが、海軍は親米英よりなんです。)
 一方、対英戦で苦しんでいたドイツにとっても、日本との軍事提携によって、アメリカが参戦することを防止するのが同盟締結の最大の目的だったようです。ここでも海軍はアメリカを恐れて反対。結局米独開戦の場合に日本が自動的に参戦する必要は無いという条件で合意されました。
  

この回答への補足

回答ありがとうございます。
質問の意図というのは、日本は資源がない国ですよね。その日本が資源を一番頼っていた国がアメリカ。そのアメリカが毛嫌いするドイツと、あえてリスクをおかしてまで同盟するという意図がわからないのです。国交のある国、ましてや貿易的つきあいの強い国の意向も考えて政治をやるものでは、と思ってしまうので。

ドイツと同盟してその点(資源)が解消されるというなら別ですが。日米同盟はありえなかったのかとか。

補足日時:2002/12/06 03:45
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日英同盟が破棄され、英米からのバッシングが強まり、世論が三国同盟の実現に強く傾いため、政府としては英米を本格的に敵に回すようなことは、どうしても避けたかったが、政府も世論に押し切られた恰好だったとか。

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 当時の松岡外相はアメリカ人という人種は強く出れば屈服すると考えていたので、またヨーロッパの戦争はドイツの圧勝に終わるという風に判断していたこともあり、破竹の勢いでヨーロッパを席巻しているドイツと接近することしたらアメリカが遠慮してくれると期待したからです。

 

 また、海軍に関してはドイツにつながるべきだというのが中堅幹部の大勢で、アメリカに譲歩すべきだという一部上層部を押し切ったということも忘れてはならないと思います。
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軍の方から。



陸軍:
明治維新後、富国強兵策を執っていた政府は、お手本とする国を、当初フランスとしていたが、後にドイツを手本としました。
ドイツは、陸軍大学に講師を派遣する等の軍事的貢献が大きかったので、陸軍としては親独の勢力が大きかったのです。当時ドイツがヨーロッパを、支配するとの予測が陸軍を中心に在りました。 イギリスやフランス、アメリカの外交姿勢が弱腰なので。

海軍:
海軍はイギリスがお手本でしたが、軍縮条約締結時に対英米比率が六割とするか、七割にするかで、内部分裂状態となり、陸軍を支持する派閥が出来る様になりました。

結果として、ドイツの支持勢力が多数派になりました。
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補足に対して・・・


 日米同盟とはいかなくても、アメリカに資源面で大きく依存していた日本にとって、アメリカと戦争するのは避けたかったようで、アメリカ、イギリスとも何度も会談がおこなわれたようです。米英にとって、日本が中国で自分たちの権益を犯していることに対して、その確保を交渉しようとしたのですが、日本は東亜新秩序の体制を維持し続け、米英の交渉を受け入れようとしなかったため、米英は中国への援助を開始したり、日米通商航海条約を破棄したりと、わざと日本が困ることを知っての上で関係を切ったのでしょう。
 対米戦は避けたいが、中国から手を引くことはできない。これは、陸海ともに一致していました。そこで、ドイツと同盟を結ぶ際にも、「独米戦になったら自動的に参戦するという必要はない」ことを選んだのでしょう。
 日本が米英の交渉を受けなかったのも、資源的な依存を中国制覇によって解消できると考えていたことによると思います。ドイツとの同盟締結は、直接ドイツへ資源依存をシフトさせるというよりも、ドイツと組んで、あくまでも日中戦争の打開をしようということがねらいです。
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この回答へのお礼

アドバイサーのみなさんありがとうございます。
回答へのお礼が遅れてしまいました。


なるほど。。。。中国における権益から、ペリー以来頼っていた資源へのリスクをおかしてでも恫喝によって譲歩を引き出したいというものだったのですかね。思えば、日露戦争も伊藤博文などは「勝てるわけがないが独立国としてここまできたら戦うしかない」と開戦すぐに秘密裏にイギリスに休戦の申し込みを打診していたとか。
勝ったからいいものの、負けていたら素晴らしい戦争が愚かな戦争になっていたんでしょうね。


中国で英米の権益をおかしていた、というのは具体的にはどういったものなのでしょう。
また、米英の中国への援助はいつからなのでしょう。援助の意図は対日開戦だったのですか。

回答いただければうれしいです。

お礼日時:2002/12/12 10:09

またまた補足に対してです。

わかる範囲での回答なので、申し訳ありません。
▽権益をおかした
 :イギリス権益の北寧線爆破(1931)/日本企業の進出(米英の投資方法とは違い、日本企業として満鉄・東洋紡を設立)/日中戦争の作戦として揚子江の外国船通航(貿易)禁止
 
▽英米の援助
1938年12月アメリカが中国に対して2500万ドルの借款
1939年3月イギリス・アメリカが借款を設定
によって、中国援助の態度が明確になった。

アメリカ・イギリスともに、38年には続けて日本に権益の確保(特に揚子江の開放)を通告して、交渉もされているので、英米の援助は日本へのあてつけと見られると思います。
 
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この回答へのお礼

再度具体的にありがとうございます。とても参考になります。

ところで、日本はドイツ・イタリアに対して資源(この場合は石油と鉄かな)の援助(もちろん有償)を申し出なかったのでしょうか。援助するほど持ち合わせてはいなかったんでしょうか。石油に関しては、蘭印をおとして足りたのかな、と想像していますが。

お礼日時:2002/12/14 00:24

 三国同盟の条約中に、「三国はあらゆる政治的、経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約す」とあるので、独伊による援助もあったと思われますが、1940年の時点で石油の輸入額が全体の3/4をアメリカに頼るほどだったので、それに上回るような援助はできなかったということだと思います。

(ドイツの対日輸出に関する統計によるべきところですが、こんな回答でもうしわけありません。参考のほんの一部ということで)
 ちなみに、蘭印からの石油輸入は全体の1/7程度。
  (『基本国力動態総覧』より)
→石油輸出の全面停止が出された時点で、「1年半で消費し尽くす」と覚悟していたようです。(『木戸幸一日記』による)
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この回答へのお礼

なるほど、蘭印からは石油が実際に取れてたんですね。しかも輸入扱いになるんですか。

お礼日時:2002/12/16 05:17

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