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 これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。

 A. 神は 精神であるという勘違い。
  ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること
  になる。

 B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
  ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
  かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力
  の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。

 C. 同じく 教義を信じるという間違い。
  ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=
  精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義
  的な人間信仰となってしまう。

 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ
  ている間違い。
  ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人
  間の能力》信仰となる。

 ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。
 偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

A 回答 (15件中1~10件)

primeapeです。


コメントを寄せてからbrageloneさんのお礼を呼んで少し反省しました。
今の私には自分のものでないいろいろな何かが流れ込んでくる状態です。
その意味を知ることよりも早く、このエスパーのようなこの状態から抜け出したい。
そんな思いでした。

この回答への補足

 新しい質問に移りました。よろしくどうぞ。

補足日時:2008/08/03 20:04
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この回答へのお礼

 なるほど。たぶん そのようですね。

 今までと同じように まづは やってください。
 何かあれば 少しづつ 修正していきましょう。

 こういう言い方をしては いけないのですが それでも 真実を当てているかも知れないと思って 思いきって 言いますが 頭を真っ白に出来るというそのことで 外から入って来やすいのかも知れません。
 言いかえると わたしの場合は 無防備で やはり入って来やすいのですが わざと真っ白にすることはないぶんだけ 外へ出て行ってしまうことが 同じく たやすいようになっているかと思われます。

 たぶん 会話や対話をしていくと よいのかも知れません。 
 ただ わたしも それほど 自信がないことが 情けない。こういうふうに相手になったことは 初めてです。でも 考えついたことを お伝えしてまいります。

お礼日時:2008/08/02 23:16

primeapeです。


トピックス続編です。
1つだけ男性の性欲を哲学する余地があります。
女性の性欲を暴露するんです。
女性は処女性に対するコンプレックスがあって求める愛(偽物)など心のドグマを作って防衛します。
それを哲学すれば男性の性欲は行き場が出来ます。
男性から答えを聞くのはホモ衝動じみています。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 《Q:情欲は 罪ですか》の問題ですよね?
 
 わたしは 先ほども 書きましたように コミュニケーション(その成立と保持)に 目的を 置いています。

 たぶん primeapeさんも その哲学の目的として 同じだと思うのですが いまひとつ わかりにくいです。
 おそらく 合意が いちばんの基軸になるのではないですか。
 コミュニケーションとして 信頼関係にもとづく合意が いちばんだと考えます。それなら 相手をふることも 自由にと言っていいほど らくらくと 出来ます。

お礼日時:2008/08/02 23:07

整理できたと思います。

ほぼ共通認識を形成できたように思います。

最後に一言付言して、終わりにします。

最初の回答でも書いたのですが、できればヒントを提示して、後は個々の思索を尊重する放任状態が理想だと私は考えています。無理やり転向させるべきではないと思います。ただし、優れたヒントの出し方を工夫したいとは思います。また、明らかな誤りも指摘すべきと考えます。今回の回答がそのようなものであれば、幸いです。しかし、この回答を見ることなく、実体探しの愚行(たとえば神の存在証明問題)に陥っている人達がいても、そのままにしておくのが、彼らの精神衛生上、得策であろうと思います。機の熟さない者に無理に説得をしないようにしたいと思うのです。それに対して、質問者様は優れた理解力をお持ちだと推察しています。おかげで、私自身も有意義な時間を持てたのではないかと思います。
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この回答へのお礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 了解しました。ありがとうございました。

 思っていたことは 神を有りとして心に抱く場合と 神を無として捨てる場合と どちらも 自由で互いに対等であるものなのだから 自由に選択できるのに でした。とは言うものの その二つの選択肢の前に立って――仮りに立ったとして―― なおまだ 逡巡する場合もあるということですね。
 ○ 好きにさせる
 ○ ただし ヒントを出す
 ☆ これで 準備は整っているとしてよい。と了解しました。

 ★ 機の熟さない者に無理に説得をしないようにしたいと思うのです。
 ☆ わたしの場合 この表現に いちばん ピンと来ます。

 ありがとうございました。一度でしたか あったかと思いますが 今回は おかげで それにも増してのスピード解決です。
 遅かれ早かれ 次の新しい設問にすすみたいと思っております。
 みなさんにも つつしんで 感謝申し上げます。多謝。

お礼日時:2008/08/02 22:23

primeapeです。


いい忘れました。
性欲を哲学する事はとことん諦めてください。
これが出来てしまうとまたしても指名手配犯です。
性欲ほど無害化の早い欲望はありません。
電車の痴漢から性欲を取り除いたら快楽殺人犯になって世を震撼させて嶋します。
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この回答へのお礼

 続きですね。

 広く自己表現という問題もあるように感じますが。

 自分の得意なところで 活躍したい。自分の能力を発揮したい。自分の意見を きちんと言いたい。また それとして 承認されたい。人と信頼関係を築きたい。あるいは 友達が欲しい。・・・
 

お礼日時:2008/08/02 21:43

primeapeです。


トピックスです。
情欲に関して中途半端になっていたので。
私は睾丸から発生するアンドロゲンが脳の機能に影響を与える不信を持ってますので、その気も無いマスタベーション実験をしました。
お風呂で女体に関する妄想一切なしでチンチンだけいたずらしてみましたらちんちんは気持ちよかったけど通わす心が無いので面白みが無く射精は諦めました。
次に部屋でエッチなビデオお見て実験しました。
普通の人のやり方です。
ビデオそのものは私の感覚では極端に言えば交尾の教材です。
愛情を感じれば美しいだろうなと思いながらチンチンをいじって射精はしました。
脳にも性器にも一切の快感はありませんでした。
無味乾燥に射精したことだけ実感しただけです。
特異な人体実験で想像が難しいだろうと思いますが、性欲の生み出す妄想はこうも実際の愛の営みには影響を与えていません。
そして実際に生きた女体に手を触れることを空想しました。(私の場合衝動は起きませんが)
心お通わせることについてです。
情欲とは欲望を見捨てるという意味では罪深くも思えます。(言葉としておかしいですね)
ただし性欲を哲学で来た人はいませんから、生きるため、若さをもてあまさないためには致し方なくも有ります。
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この回答へのお礼

 primeapeさん これは たぶん わたしの見るところ 欲望の問題に限られるのではない つまり 欲望の問題を超えているということを意味するのではないでしょうか。
 憶測ですが 欲望の問題としては 広く 支配欲が――そうフロイトが言っていたかも知れませんが―― 性欲と あたかも一体となっている はたらいている。のではないでしょうか。そのように 複合した欲望だと思われることが 特徴的だと考えます。そして 支配と言っても 広いでしょうから 要するに 自分の我がままを実行するということ これを その内容としていると思われます。
 しかも 問題は それだけではないと考えます。そのような欲望を認識した自己がいるわけですが それだけではなく その自己には あたかも別の自己として 意志が あります。欲望どおりに また 認識したとおりに 実行するとは 限りません。それは 意志が 決めます。どのように実行するかも 意志が 決めます。止めるという判断を下すことも あり得ます。

 ですから 次のご回答(No.12)で
 ★ 性欲を哲学する事はとことん諦めてください。
 ☆ とおっしゃっていますが 哲学は あくまで 《意志行為》の部分に焦点を当てているのだと考えます。
 哲学が考えたとて 子をはらませることも出来なければ いとしい人の心に わが心が通じるようにさせることも出来ません。出来ませんが 欲望の発揮あるいは昇華として その行為の有効性を 見究めようすることが出来ます。有効性が ただちに 有力であるとは これまた 限らないのですが 無力のうちにも 有効性を保とうとする意志行為を捉えることが出来ます。
 すなわち 二人なら二人のあいだにおける 意思疎通つまりコミュニケーションを成り立たせ 互いの欲求と時に禁欲とを つねに 合意のもとに 信頼関係のもとに 持つようにしていく。こういうことが 哲学の問題なのだと考えます。欲求は 手に負えないのですけれど。

お礼日時:2008/08/02 21:36

なかなか、いい展開ですね。



>★ 〔肝心要は〕 実体探しの愚かしさこそが、神に関する勘違いの主原因であるという点です。
☆ ううーん。そうですね。これは 初めから 定義のやり直し コメントの書きなおしになりますかね。そこまでは行かなくていいかも知れないでしょうか。
[再回答]勘違い・思い違いが多発する理由が判明すれば、この質問の目的は達せられると思いますので、ここに集中しましょうという提案です。他の回答者とのやり取りを一切否定いたしません。

>なぜ この肝心なところを取り上げていないか。それは 
★☆ 偶像崇拝型とその禁止型
☆ とに分け 後者には
★☆ 実体否定という性格
☆ を与えていたからだと思います。
[再回答]「ですから、ザックリ大雑把に言えば」と書いたとおり、全く精度の低い背景・脈絡ではありましたが、あえて読み手にイメージを抱きやすくするために簡素化して表現した部分ですから、批判は当然と私も思います。

>つまり
★★ 神を「実体的に表現する仕方」と「実体のないものとして表現する仕方」があると思います。(ANo.8)
☆ とも表現するとき 前者の《「実体的に表現する仕方」》というその《実体的》のそのまた《的》が 問題だったのですね。
《神の仮りの表象として あたかも実体であるかのごとく 〈真理〉なら〈真理〉として思い描き これを偶像としてなりとも 表現の一形式とする》 ここまでなら かまわない。
[再回答]「実体的に表現する仕方」とは、神が光に包まれて現れ、人類に話しかけたとか言うような物語を想定しています。《神の仮りの表象として・・・〈真理〉なら〈真理〉として思い描き・・・表現の一形式とする》のではなく、「物語」や「神話」での表現の仕方が、「仮の姿」ではなく、実体的に描かれているという意味です。視覚対象的な描き方が、物質を連想させるという点です。そういう意味で、実体的と書いています。

>けれども
★ 〔真理なら真理という〕「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」
☆ にまで至れば 偶像が 本体として見なされその実体がつねにあると思い込んでしまう。《これが真理だ》という何かものが(あるいは 何かひとつの言葉が) 或る晴れた日に 突如 人類に与えられるといった錯覚に陥るおそれがあります。
[再回答]ですから、「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」を私は批判しているのです。「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」が「明らかな勘違い・思い違い」の原因なのです。また、「偶像が 本体として見なされ」るとは言っていません。偶像と神本体とを区別しています。

>ですが そうしますと ちょっと 待ってくださいよ。ここで 同時に qsxdrfvgyh さんは 
 ★ 換言すると、言葉に対応した実体が常にあるとは限らないということです。
 ☆ と言い換えておられるところは どう解釈することになりますか。
 ○ 神をめぐる仮りの象徴つまり偶像 としての言葉に 実体がある場合もある。
 ☆ となるのでしょうか? これは どうなりますかねぇ。
 ○ 神を代理する表現としての言葉に 実体が 呼応する場合がある。
 ☆ ということでしょうか。
[再回答]神をペガサスに置き換えますね。ペガサスの絵は見たことがあるでしょう。この絵(偶像)は、遺伝子操作で実現できたとします。この場合、ペガサスには実体がありますね。しかし、まだ、現時点ではペガサスという言葉には実体がないわけです。実体のない空想の産物にも名前が与えられるのが、言葉の特性であるという点を言いたいわけです。実在の有無を問わずに、命名は可能であるということです。

>それでは
○ 実体とは 何ぞや?
☆ 《絶対》のことですよね? 経験的な相対世界を超えたところに想定するもの。これが 虚構であって 虚構として 現実であるかのように 人間にかかわっている。
[再回答]実体が、「絶対」とか「虚構」でないことは先の例で分かると思います。「現実であるかのように」ではなく、現実そのものでなければならないのです。 

>ということは けっきょく
★ 実体探しの愚かしさ
☆ というときの実体とは
 ○ 経験的な内実を伴なったもの
☆ 言いかえると
 ○ 絶対としての実体ではなく そうではなく 相対的な経験事実ないし実物
☆ というようなことなのでしょうか。それは いけません。それなら 明らかに間違っています。
[再回答]ですから、「絶対としての実体ではなく」という表現は違っています。絶対でも虚構でもない現実としての実体を探す愚行が、神に関する勘違いの主因だと私は一貫して言っています。また、「相対的な経験事実ないし実物」としての実体を信じる愚行が、神に関する勘違いの主因だと私は一貫して言っています。

>要するに
 ○ 神は 物である。
☆ と言っているのですから。
[再回答]落ち着いてよく読んで下さい。言っていません。「(神という)言葉に対応した実体が常にあるとは限らないということです。」とは、私が意図した脈絡としては、実体がないことに気付いてくださいという意味で書いています。「神は 物である」という愚かしさに気付いてほしいと言いたいのです。質問者様は、私の意図した内容をことごとく逆転させて、議論を鮮明にしたいのだと推察しました。大変優れた手法で感服します。できるだけ正確に補足できたと思います。言葉足らずの回答だったことをお許しください。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん 分かりました。ご説明 ありがとうございます。

 わたしの誤解の原因は 《実体》について 神の実体ということを 今村仁司が言っていたので そちらのほうに持って行ったところにあるようです。
 関係主義の批判の的として 実体主義が挙げられます。網の目状のネットにかんして その一つひとつの結節点を 何かに依存して存在するものではなく 実体として捉える見方が 実体主義で 関係主義は その結節点を結ぶ線の錯綜を捉え これがあるだけで 結節点に実体などないという説だったと思います。
 ということで 
   ○ 実体は 何かに依存してあるものではなく また二次的に派生しているものでもない。それ自体で存在するものである。
 ☆ と言うと思いますが ここでは 単純に
   ○ 実体とは 経験的な事物 あるいは 精神の産物としてでも 経験的であるゆえ その想像物などを言う。
 ☆ とすると理解しました。
   ○ 神は その意味で 実体ではない。
 ☆ したがって
 ★ 絶対でも虚構でもない現実としての実体を探す愚行が、神に関する勘違いの主因だと私は一貫して言っています
 ★ また、「相対的な経験事実ないし実物」としての実体を信じる愚行が、神に関する勘違いの主因だと私は一貫して言っています。
 ☆ すみません。これで めでたし めでたし でしょうか。再度いえば
   ○ 神について その実体は何かというように 実体探しをするところに 勘違いの原因がある。
 

 ★ 質問者様は、私の意図した内容をことごとく逆転させて、議論を鮮明にしたいのだと推察しました。
 ☆ これは とても とてもです。結果的にそうなったかも知れませんが そうではないです。《神の実体》という場合もあったかと思ったところが 錯綜の原因でした。

 あと やはり 重ねて 偶像つまりそれとしての実体を
  A. 神は 精神であるという勘違い。
という如く 精神や精神の産物(つまりたとえば 愛とか慈悲とかの理念です)に求める場合に留意したいと思っています。
 ものや現象である実体に探し求める場合のほかに このように 
 ☆☆ 偶像が 本体としての神と同一視される
 ☆ 場合も あるように思いました。類型は 同じようですよね。つまり 《実体探し》というときの《実体》に このような《精神の崇高な理想》といった理念のことも 入っているということですよね。特に アガぺーであったり あるいは 悟りですとか 涅槃ですとか そのような概念に 神を見出すかに見える思想内容に出会ったりすると思うのです。

 これで ひととおり 整理できたでしょうか。

補足日時:2008/08/02 21:07
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primeapeです。


私はかつて何度か人間信仰という言葉を使いましたが、20代くらいのときは本当にそんな感じでどんなに傷けられてもどうしてもお互いが人間であると判ろうとしました。
今にして思えばこれはbrageloneさんのおっしゃる人間主義。
ついこの間自分が何を信じているか判らないとあっけなく告白しましたが信仰とはやはり神のみに向かう物のようです。
神を語ると神がいなくなる。
これは哲学では了解されていますよね。
それゆえに神のニセモノが増えるのでしょう。
ほんの何日かまえまでの私は魔力を持っていて純生の鬼神の声でつげだしてその世界(この世界)に神がいないことを証明することすら出来たでしょう。
そのような指名手配犯状態もやっと終わりつつあります。
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この回答へのお礼

 primeapeさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ううーん。
 まづ 
 ★ 人間主義
 ☆ は 別にわるくはないと思いますよ。ふつうの思想の一つだと思います。人類じたいが自己中心的な傾向を持つというような意味での人間中心主義ではないわけです。
 ★ 人間信仰
 ☆ は 少なくとも 字面では おかしいでしょうね。人間は 経験的な存在なのですから。
 ★ ・・・純生の鬼神の声でつげだしてその世界(この世界)に神がいないことを証明することすら出来たでしょう。
 ☆ それでしたら 《Q:輪廻と業によれば すべての被害は 自業自得になりますか》の問題ですね。不条理がなぜ起こるかの問題ですね。
 いま なにか 簡単に まとめや結論を述べろと言われても やはり――次善のこたえとしての やはり分からない(=風は 気ままに吹く)のほかには―― むつかしい問題であるようです。
 なかなか 神妙になるような試練〔と呼んでいいかどうかわかりませんが〕のようなものを受けておられるのでしょうか。
 了解いたしました。とだけ。

お礼日時:2008/08/02 17:00

コメントを読むと、何か、てんぷらの衣の方だけを味わってもらったような印象なのですが。

肝心のてんぷらの中身を無視しているようで、残念です。

一番言いたかったのは、次の部分です。

「明らかな勘違い・思い違い」は、「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」です。換言すると、言葉に対応した実体が常にあるとは限らないということです。

実体探しの愚かしさこそが、神に関する勘違いの主原因であるという点です。それ以外のたとえ話風の部分は、精度の低いザックリした表現ですので、読み流してください。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 〔肝心要は〕 実体探しの愚かしさこそが、神に関する勘違いの主原因であるという点です。
 ☆ ううーん。そうですね。これは 初めから 定義のやり直し コメントの書きなおしになりますかね。そこまでは行かなくていいかも知れないでしょうか。
 なぜ この肝心なところを取り上げていないか。それは 
 ★☆ 偶像崇拝型とその禁止型
 ☆ とに分け 後者には
 ★☆ 実体否定という性格
 ☆ を与えていたからだと思います。つまり
 ★★ 神を「実体的に表現する仕方」と「実体のないものとして表現する仕方」があると思います。(ANo.8)
 ☆ とも表現するとき 前者の《「実体的に表現する仕方」》というその《実体的》のそのまた《的》が 問題だったのですね。
 《神の仮りの表象として あたかも実体であるかのごとく 〈真理〉なら〈真理〉として思い描き これを偶像としてなりとも 表現の一形式とする》 ここまでなら かまわない。けれども
 ★ 〔真理なら真理という〕「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」
 ☆ にまで至れば 偶像が 本体として見なされその実体がつねにあると思い込んでしまう。《これが真理だ》という何かものが(あるいは 何かひとつの言葉が) 或る晴れた日に 突如 人類に与えられるといった錯覚に陥るおそれがあります。

 ですが そうしますと ちょっと 待ってくださいよ。ここで 同時に qsxdrfvgyh さんは 
 ★ 換言すると、言葉に対応した実体が常にあるとは限らないということです。
 ☆ と言い換えておられるところは どう解釈することになりますか。
   ○ 神をめぐる仮りの象徴つまり偶像 としての言葉に 実体がある場合もある。
 ☆ となるのでしょうか? これは どうなりますかねぇ。
   ○ 神を代理する表現としての言葉に 実体が 呼応する場合がある。
 ☆ ということでしょうか。それでは
   ○ 実体とは 何ぞや?
 ☆ 《絶対》のことですよね? 経験的な相対世界を超えたところに想定するもの。これが 虚構であって 虚構として 現実であるかのように 人間にかかわっている。
 ということは けっきょく
 ★ 実体探しの愚かしさ
 ☆ というときの実体とは
   ○ 経験的な内実を伴なったもの
 ☆ 言いかえると
   ○ 絶対としての実体ではなく そうではなく 相対的な経験事実ないし実物
 ☆ というようなことなのでしょうか。それは いけません。それなら 明らかに間違っています。要するに
   ○ 神は 物である。
 ☆ と言っているのですから。

 というまとめになるでしょうか? 精査をお願いできますか?

補足日時:2008/08/02 16:38
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お久しぶりです。


「神に関する勘違い・思い違い」をはっきりさせたいという主旨に概ね賛同して、その部分に対してのみ回答させていただきます。

ただ、神と言っても、多神教と一神教のそれぞれどの系譜を背景に持つのかによって、各回答者の発言は多様になりますので、神という一つの言葉でさえ、共通認識を形成できていないからこそ、このような質問が提起されると言えます。だから、神という言葉に対する、唯一の意味付け、唯一の定義付けをしてよいのかという躊躇の気持ちもあります。ファシズムは嫌いなのです。千差万別や多様性を封じる発言はしないように気をつけた上で、明らかな勘違い・思い違いだけを指摘してみたいと思います。

多神教にしろ一神教にしろ、神を「実体的に表現する仕方」と「実体のないものとして表現する仕方」があると思います。質問者様の表現に即して言えば、No.3の補足に書いたように有神論と無神論が対応していると思います。宿られるものでも、宿るものでも、何らかの実体を想定していますので、有神論です。こちらは一般大衆向けの素朴な認識であり、アミニズム的です。また、少し思索が深まると、この時空において実体がなく、その世のものでない、超越的な存在(厳密には存在ですらないのですが)を想定したのが、無神論であり、だからこそ、質問者様は《神を無として捨てる》という表現を使ったと推察します。

ですから、ザックリ大雑把に言えば、アミニズム的な系譜では、偶像崇拝的であり、超越的な想定をする系譜では、偶像崇拝禁止となります。

では、精神衛生上、どちらが優れているかと考えますと、一般大衆にとっては、素朴な認識であるアミニズム的な偶像崇拝の方がいいように思います。しかし、少し思索の深い人達にとっては、この方法はメッキがはがれているようなものですから、超越的な方向を模索する方が納得できたり、シックリ来るので、精神衛生上優れているのでしょう。

つまり、人々の思索の浅さや深さに対応して、どちらも容認すべき状況にあることを前提とした上で発言すべきと考えます。

ここまでは前置きで、以下に短い結論だけを書きますが、「明らかな勘違い・思い違い」は、「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」です。換言すると、言葉に対応した実体が常にあるとは限らないということです。たとえば、翼のある馬として知られるペガサスはいないでしょう。言葉があっても、実体を伴わない場合があるという現実だけは認めなければなりません。その場合、神という実体を期待している人に無理に説得するのではなく、考えるヒントを提示して自分で道を切り開き、自らの思索の上で、納得する機会をつくるくらいの放任状態でいいと私は思います。相手の思索水準次第で対応は千差万別ということです。無理に引きずり込まないというスタンスがいいと私は思います。

この回答への補足

 qsxdrfvgyhさん しばらくです。その節は お世話になりました。今回も ご回答をありがとうございます。

 さて 今回は 神の定義としての前提の話が 一たん了解されたならば それほど 厄介なことではなく 雑談風に どうして その定義の理解が あやふやであったり あいまいであったりするのだろうかとやり取りする程度のことです。

 まづその前提をめぐる話についても 明らかにしてもらっています。
 ★☆ 一般大衆向けの素朴なアニミズム風と 実体否定に立ち思索を深めた超越論風 / それぞれ偶像崇拝型と偶像崇拝禁止型
 ☆ という規定は 少々 きついのではないか――つまり 前者の人びとに失礼ではないか――と思うものの 個々の規定の問題であるよりも 互いの違いを浮き彫りのするためのたとえであると解釈しておきます。
 それを言った上で 賛成です。

 本論のほうです。
 ★ 神という実体を期待している人に無理に説得するのではなく、考えるヒントを提示して自分で道を切り開き、自らの思索の上で、納得する機会をつくるくらいの放任状態でいいと私は思います。
 ☆ こういう感覚は つまり 感覚的に受け取ったところについてということですが それは わたしには ない要素ですね。つまり あくまで 議論なら議論をして それ推し進めていく上で 相手が 自分で道を切り開いていくよすがとなればよいとは思いますが それを
 ★ 無理に引きずり込まないというスタンス
 ☆ というふうには 考えていなかったですね。そうですか。
 ううーん。どうなんですか。それだと たとえば信仰を 段階や水準があるものとして扱うという一つの説になりはしないですかねぇ。
 信仰は 即身成仏と言いますか 《道端で 机を置いて税の徴収をしていたマタイに対して イエスが ついて来なさいと言うと そのまま ついて行った》という信仰の発露を 過程的なものとしてみる見方につながらないですかね。つながらなければ いいと思います。
 それにしても
 ★ 相手の思索水準次第
 ☆ というとき わたしには むしろ 思索の練達者のほうが 厄介であるように思えるのですが。つまり 一般に わたしのような能天気な人間にとっては 俗っぽく言えば 一発で決まるというように思っているのですけれど。

 あと 前置きのほうに戻って 
 ★ 精神衛生上
 ☆ という見方をしておられるのですね。これも 微妙にちがった見方を わたしは 持っているかも知れません。
 つまり 日本人は 歴史社会的な素養ですとか土壌ですとかの上で 有神論=無神論という視点が分かりにくいかと思うのですが したがって 本論のほうで触れておられたように 時間がかかる――たしかに 信仰を確立するには 時間がかかる――のですが 逆に 《精神衛生上》という観点は わたしには思われるのですが 人びとが この神をめぐる問答を 互いに自由におこなうようになれば もうあまり必要としないようには いま 思われました。

 まぁ 細かいところは あとは 一つひとつ 試行錯誤ですすむのでしょう。ありがとうございました。
 もうお一人くらい ご投稿をお待ちしましょうかねぇ。

補足日時:2008/08/02 15:10
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今回もよろしくお願いします。


 
人各自が内在しているものが1種類だけなら
blageloneのおっしゃるように人間=神だと思います。
しかし、人間自身 多種類の自分自身が存在し
その中には相反している自分自身が存在し
またそれを冷静に観察する自分自身もいる

その中で少し(?)アピールの強さを内在している人が対象を
人に置いたのが、仏教、儒教等だと考えます
他のものに置いたのが、キリスト教等だと考えます
根底は集団生活をスムーズに送るために

神の偶像化は概念を少しでも具象化する為だと思います

この回答への補足

 neoemmmaさん こんにちは。今回も ご回答をありがとうございます。
 続編だと書かなかったのですが 前編を締めて そのあと まさに続きの質問になります。(前編=《QNo.4199231 :ブッダは 神ですか= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4199231.html 》)
 その関係で 
 ★☆ 人間=神 (イエス=キリスト あるいは ゴータマ=ブッダ もしくは ゴータマ・ブッダ≠神 )
 ☆ という表現が出て来ます。しかも
 ○ 神の霊が 人間の身体=精神に宿る。
 ☆ というような言い方をしますので 
 ★ 人各自が内在しているものが1種類だけなら・・・人間=神だと思います。
 ☆ という命題が出て来ます。そうして
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、人間自身 多種類の自分自身が存在し
 その中には相反している自分自身が存在し
 またそれを冷静に観察する自分自身もいる

 その中で少し(?)アピールの強さを内在している人が対象を
 人に置いたのが、仏教、儒教等だと考えます
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と結んでおられるのだと思います。唯我独尊というくらいだから 《アピールが強い》人だと考えられる。こういうわけですよね。別名 無神論という信仰を原点にしつつ しかも この無神という神は 日常生活では もう放っておくということだと思われます。自由に 信教の自由にもとづき 正当にもだと考えられます。

 あとのクリスチアニスムについては
 ★ 神の偶像化は概念を少しでも具象化する為だと思います
 ☆ とわたしも 思いますが
 ★ 〔対象を 唯我独尊の人にではなく そうではなく〕他のものに置いたのが、キリスト教等だと考えます / 根底は集団生活をスムーズに送るために
 ☆ については げんみつに表現し説明しておく必要を感じます。
 ブッディスムにしても その原点としては 偶像をとおして しかも 偶像を超えたところに 神(つまり かれらの無神)に直面したという大きく信仰に立ったのだと考えます。そのあと 人間の能力と努力に精を出した。
 クリスチアニスムの場合は 信仰原点のあとも 依然として 神は神 偶像は偶像です。その区別は 変わることなく 信仰が 生活態度として 動態となっていきます。
 もし 考えすぎでないとすれば 《集団生活》は 組織として 宗教の集団としては 基本的に要らないと わたしは考えています。そのような固定的な象徴としての偶像 これが むしろ 無いほうが・つまりまったく自由なほうが 社会生活をスムーズに送ることができると考えたりするのですが いかがでしょう?

 自分の田に水を引き過ぎたとすれば ごめんなさい。また その点を指摘して だめじゃないかというご見解をお寄せください。

補足日時:2008/08/01 18:06
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