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1. 神について何故ひとは哲学しないのか? ――せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?

2. 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。

A. 神は 精神であるという勘違い。

  ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。

  ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力
   にかかわっている。
    これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは
   信じるというおかしなことになる。

C. オシヘを信じるという間違い。

  ――オシヘは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的な
   能力とその行為成果であるに過ぎない。
    やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。

D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって表象しうると思っている間違い。

  ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の産
   物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の
   《人間の能力》信仰となる。


3. ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。オシへもむろん偶像です。

4. 偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしへ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表象)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする(絶対視する)片向きがあるように映ります。

5. 重ねて 《オシヘは 偶像であり オシへを信じるのは 偶像崇拝である》。それは セイシン錯乱でしょう。


6. 宗教二世が その宗教から離れようとするとき それは精神錯乱だ サタンの入れ知恵だと説くことほどの精神錯乱はないではないか。




7. ところで 勤勉による資本主義ではなくガリ勉資本主義といった行動形式のばあい モノやサービスでお金儲けをするのと 〔観光ではなく〕宗教なる層雲峡の中に人を入れて集金するのと どう違うか? どうなんでしょう。

8. 《宗教者》は 同じだと思って 自分たちの行動を正当化しているのだろうか? 《層雲峡》なる世界を醸し出してお金を出させるのと マーケティングでモノを買わせるのと どう違ってどこが同じなのか。どう考えますか?



☆ ここらへんを明らかにできれば 旧統一教会問題が少しは解けるのではないかと。

質問者からの補足コメント

  • №1お礼欄つづき

    ★ そもそも神が全知なら、神の教えを知ることこそ最重要で
    ☆ それは 経験思想としてです。つまり 蝉の抜け殻としての神観です。精緻な知の体系(神学)にまで成り得ます。でも そこでは 信じる神は 生きた蝉ではなく 仮象でしかありません。

    このかぎり――仮象も補助線として正解への導き手に成り得ますが 仮象でよいとするなら――:
    ★ 諸宗教をまがいものと宣言
    ☆ すべきです。


    ★ たとえばフォイエルバッハは、結局は「神は人間が作り出したものである」と考えたが・・・
    ☆ その《神》は タテのをヨコに寝かしたオシへとしての神です。


    ★ ・・・古今東西の国家論など斟酌しない。二階建て論とやらを繰り返すばかりだ。
    ☆ いまの二階なるアマテラス公務員が ムラムラ(市町村)にアマクダリして市民とともに築くインタナショナルなインタムライズム(村際連合)を提唱していますよ。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/10/09 03:19

A 回答 (1件)

神については、泰西の哲人から極東の隠者まで、古今の知性が考えて来たが分からない。

実験や観測によって確認できるものでもない。なのに自分が人々の蒙を啓けると思い込む、そんな過信がどこからわくのか不思議で仕方がない。身も蓋もない言い方をすると、頭のおかしい人だろう。
この人は無限やアース(設置)にたとえて独特な哲学を語るが、その無限やアースの理解は数学的・物理的におかしい(https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12861052.html https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13134616.html)。つまり疑似科学であり哲学もどきであろう。

「神は定義不能」と牧師さんたちはいう。しかし、この人はややこしく定義したがる(https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12566017.html)。
数学では無定義用語といって、「点」や「直線」などについては定義せず公理の中で用いる。その公理を出発点に論証を開始する。
しかしこの人の尋常でないところは、神のincomprehensible incomprehensibilityとやらを出発点にして、「縦のものを横にはできない」と既成宗教を否定する論法である。縦とは個人的な降霊のようなことで、横とはそんな話を語って信心を集めることらしい。その「縦」は経験ではなく、いわば超経験で全く主観的なものだから、客観的体験のように流通できないという。

しかしそんな主張をする者はあまりいない。なぜいないか。まず第1に、神が全能なら、人間において縦のものを横に成らせてやることも可能なはずだ。第2に、前述の無定義用語のように、神の本性は言わないまま神にまつわる話をすることは可能である。この人は、「定義しない用語を使って命題をこしらえる、その命題には客観性がある」という手法を一顧だにしないのだろうか。
そもそも神が全知なら、神の教えを知ることこそ最重要で、哲学の知などはその足元にも及ばないはずだ。多くの哲学者は、この人のように自己流哲学を振り回して諸宗教をまがいものと宣言したりしなかった。哲学者たちはもっと下手に出て、既成宗教の歴史を見ていくことなどから論を起こしている。
たとえばフォイエルバッハは、結局は「神は人間が作り出したものである」と考えたが、それはユダヤ教やキリスト教の成り立ちを調べたうえでの結論だった。神とは、民族全体の偉大さを対象化したものだったと彼は説く。

フォイエルバッハは左派と言われるが、他方この人は左派でもないらしい。しかしその実、浅薄なマルクスボーイのネガ(反転させたもの)である。革命が成就したら国家は消滅するから、国家についてまともに考える必要はないとマルクスボーイは見なした。同様にこの人も、古今東西の国家論など斟酌しない。二階建て論とやらを繰り返すばかりだ。
宗教についても、聳え立つ巨山のような世界宗教や民族宗教から、超高層ビルのように人工的な新興宗教まで、数限りない。その複雑な営為を「勘違い」と臆断するのはマルクスボーイの腐ったような奴だろう。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

いつもありがとうございます。


★ 神については・・・分からない。・・・
☆ 提出された定義について 中身で勝負。これだけのことですよ。哲学として互いに自由に批判しあえばよいのです。


★ ・・・つまり疑似科学であり哲学もどきであろう。
☆ さて 中身はどうかいな と行きたいところですが。


★ ・・・神のincomprehensible incomprehensibilityとやらを出発点にして、
☆ この《非知》説は 生活現実における《人知を超えたところ:超自然および超経験》についての観察結果からみちびかれる。

それは 認識論じょうの定義です。概念としては 《絶対性・無限》です。


★ 「縦のものを横にはできない」と既成宗教を否定する論法である。縦とは個人的な降霊のようなことで、横とはそんな話を語って信心を集めることらしい。
☆ そうです。

★ その「縦」は経験ではなく、いわば超経験で全く主観的なものだから、客観的体験のように流通できないという。
☆ 微妙な違い:タテの関係は あくまで《非知なる神とわれとのカカハリ》のことです。

これは 《主観的なものであり 主観真実をつくる》のですが ただ《超経験で》はなく《超経験と経験存在たるわれとのカカハリ》です。

だから そのカカハリを受け容れるという意志行為として 経験事象におさまります。

だから 人どうしのヨコの関係において かんたんに話し合うことが出来ると見られがちですが ただしそれは すでにヨコの相対性の領域に観念として落とし込んだ《観念の神》をあつかうことになってしまっている。
つまり:
★ 流通できない
☆ です。信仰という蝉の抜け殻である経験思想としてしか。


★ まず第1に、神が全能なら、人間において縦のものを横に成らせてやることも可能なはずだ。
☆ という主観真実を得ることはあり得ます。すなわち 定義した神をわが心に受け容れると その神について思いを馳せ忖度したくなる。その結果です。

ただし 信仰としての神ではなく 経験思想としてしか流通しえない。


★ 第2に、神の本性は言わないまま神にまつわる話をすることは可能である。
☆ 要は 中身で勝負です。

★ その命題には客観性がある
☆ なら 採用されます。

つづく

お礼日時:2022/10/09 03:15

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