dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

 これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。その理由をおしえてください。

 A. 神は 精神であるという勘違い。
  ――そうでなければ 精神を持つ人間が そのまま 神であること
  になる。

 B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
  ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力に
  かかわっている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力
  の一般を けっきょくは信じるというおかしなこととなる。

 C. 同じく 教義を信じるという間違い。
  ――教義は 人間の言葉で表わされている。ゆえに 人間の身体=
  精神的な能力とその行為成果であるに過ぎない。やはり 精神主義
  的な人間信仰となってしまう。

 D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ
  ている間違い。
  ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。《人
  間の能力》信仰となる。

 ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。
 偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって 偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。なぜですか?

A 回答 (15件中11~15件)

Cについて


たとえばイスラム教という宗教はご存じでしょうか?イスラム教では、ムハンマドへの預言がすべてであり(これはあなたの言う偶像ですね)、これを通してのみ神を認識しているのです。(認識という表現が適切かどうかはわかりませんが、あいまいな認識、くらいでお考えください)
よってこれはCに対する反例となります。
次にAですが、まず「そうでなければ」は「そうであるならば」の間違いじゃないですか?言いたいことはわかりますが。
これはまぁあなたの思考がちょっとセコイかなって思いました。神は精神であるとは言っても、「神は精神の一部である」って考えるのが普通だと思いますよ。精神には、食欲とかもあってそれは神じゃないですから。たぶんあなたは「神は精神である」を神=精神って考えて、右から左のイコールを考えたんでしょうね。そうならあなたの突飛な考えは説明はつきますが、やはり常識的に納得はしがたいです。
一つひとつ潰していこうと思ったんですが、一言で言ってくださっていることに回答しようとおもいます。(ごめんなさい丁寧に書くと予想以上にめんどくさかったんで笑)
偶像崇拝は別に勘違いではありません。あなたの偶像崇拝に対する知識が欠如しているだけです。偶像はすでに偶像として扱われております。偶像が崇拝される理由は、その偶像が神を「指し示している」からであって、それ自体に神を見ているからではありません。偶像の例として、「十字」を例にとってみましょう。十字は神である、というわけではないのはおわかりですよね。キリスト教ではメインはキリストであって木ではありませんので。そこで考えますと、偶像を用いることによって、神へのイマジネーションが喚起されると言えるでしょう(限界はありますが)。実際に確固たるものとして認識できない以上、自分は神に近付けているんだという意識を与えてくれる偶像を大事にするのは何にも矛盾するものではないと思いますが。
わかりやすいレベルにまで落とすと、たとえば本を読んでいて「それ」という指示語があったとします。その本の文脈を知っている人なら、「それ」のさすものがわかります。さらにたとえば、「『それ』は素晴らしい!」といったとします。言った人は「それ」のさすものをわかって言っているので何も勘違いはしていません。ここであなたのような考えが出てくると(強引ですが)、「それ」というのはただのひらがな2文字じゃないか、なにが素晴らしいんだ。ってなるので、それは変なんじゃないか、ということです。

、、、と思いますがいかがでしょう?

この回答への補足

 mu-minsanさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。正直なところ あたっているところもあれば げんみつには まだ的にたどり着いていないと思われたところもあるように思いました。
 検証してまいります。
 かんたんなところからです。
 ★ イスラーム
 ☆ については 絶対に対応する神=アッラーフを立てていますので この質問の類型に もちろん あてはまるわけですが おっしゃるように わたしも (C)の勘違いが 起こりうると考えます。
 勘違いではない可能性を 認めたのは なぜかと言いますと 
 ★(要約) ムハンマドへの預言という偶像を通してのみ神を認識している。
 ☆ とわたしも理解しているのですが mu-minsanさんも まさに 但し書きをしておられるように 認識の幅が大きくて そのクルアーン(コーラン)の文句を 偶像は偶像であるとわきまえて 捉えているかも知れないからです。(生活感覚が 分かりませんので なんとも言えません)。

 ★ Aですが、まず「そうでなければ」は「そうであるならば」の間違いじゃないですか?言いたいことはわかりますが。
 ☆ 《〈神は 精神である〉ならば 人間が神になる》と取るか 《〈勘違い〉でなければ 人間が神になる》でしょうね。
 ただし
 ★ 「神は精神の一部である」って考えるのが普通だと思いますよ。
 ☆ これは まさに(A)の勘違いだと思います。なぜって 《一部〉だろうが全部だろうが 精神は この世のものであり 精神とて 経験的な・移ろい行くものです。精神の全体や その能力およびそのはたらきを たしかに 表象するのは ふつう むつかしいですが その現象と言いますか そのはたらきの結果や成果は 言葉にして 表わします。すなわち 偶像です。
 この精神という偶像を――あとでも 述べておられるように 偶像は偶像として この仮りのすがたを――とおして 神を 望み見るごとく 抱くというのであれば ふつうの事態だと思います。
 すなわち
 ★ 偶像が崇拝される理由は、その偶像が神を「指し示している」からであって、それ自体に神を見ているからではありません。
 ☆ 《崇拝される》という言葉づかいに 少し抵抗がありますが このとおりだとわたしも 思います。
 たとえば
 ○ 木の船に乗って航海するがごとき人生の旅路
 ☆ というふうに言いますから。木は 十字架の木なのでしょう。
 ただ――ここでも ただ ですが ただ――
 ★ わかりやすいレベルにまで落とすと、たとえば本を読んでいて「それ」という指示語があったとします。その本の文脈を知っている人なら、「それ」のさすものがわかります。・・・
 ☆ というたとえは 適切ではないように考えます。
 文脈において 指示することばは なるほど 仮りの表現(としての偶像)ですが それが指し示すのは あくまで 経験領域の範囲の中でのことです。その本の文字で表わされた言葉に関するかぎり 経験現象として 指示しており 指示されたものも 経験事物です。
 《神》と《その代理表現(つまりそれとしての偶像)》とは 後者が 同じく経験領域でのものであって 前者つまり神は 経験領域を超えたところのものだからです。経験的な事物が 超経験の神を 代理して表現するかたちです。そういうふうにして言わば縦の関係において 指し示すのと 指示代名詞が いわば横の関係において 指し示すのとでは おのづから 内容がちがっていると考えます。どう違うか。
 代理表現は 指し示したと思われたあと その指し示されたもの(つまり 神)の表象は じつは 神そのものではないという実態に注意しなければならないからです。

 少々 論理にすぎて 退屈だったかも知れません。いちおう 以上のように考えます。いかがでしょうか。

補足日時:2008/08/01 17:17
    • good
    • 0

「神」をあらかじめ想定して、「日本人全体」を語ろうとしてるところに無理があると思います。


「神」とは、宗教や個々人の「考え」によってそれぞれです。
けっして「これだ!」と決めつけることは出来ません。
それを押しつけることは、「信仰の自由」を犯すことになります。

ただ、私も最近の日本人は「神」を勘違いしてる人が多いと思いますね。
その勘違いとは、「神」を議論するときにユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの「一神教的」な神を想定してることです。
つまり、「唯一絶対の神」や「全知全能の神」というモノです。
これらは、一部の宗教の産物であって、「神のすべて」ではありません。

例えば、古代ギリシア・ローマの「神々」や、日本の「やおろずの神」など。
さらに、日本人の伝統的な宗教の一つである神道の「みたま」なんかも「神概念の一種」です。
「生前功績のあった人を神として祀る」なども、一つの「神の形」です。
あるいは、「神がモノに宿る」というのも一つの「形」です。

結論を言えば、「神」という「概念」は様々な「形態」があり、どれか一つに決めることは出来ません。
「信仰の自由」などといって、個々人の信仰を尊重するならなおさらです。
もし、どれか一つに限定したいなら「宗教国家」を作るしかないでしょうね。

この回答への補足

 tyr13さん tyr134さんには似合わない考え方ですね。
 まづ ご回答をありがとうございます。

 初めの
 ★ 「神」をあらかじめ想定して、「日本人全体」を語ろうとしてるところに無理があると思います。
 ☆ ここに 似合わない考え方が 二点あります。一点は 《日本人全体を語ろうとしてる》というところです。
 ☆☆  これは 日本人に限るのではないと考えますが・・・
 ☆ と前置きしているので てっきり《日本人》の現状をうんぬんするものだと採られたのだと思いますが それは 濡れ衣です。
 No.1への返答に述べましたが  最初に《神》という前提を置いています。そのあとで どう考えるかを問うています。言いかえると 日本人が ここではおおむね 回答者の対象でしょうが あくまで いまの前提に立ったあとで では どうですかと 日本人回答者のみなさんに問うています。そういう意味です。
 たとえば (A)の《神は精神である》という文句は それを言わない人は 関係ないわけです。(もちろん 関係ない場合にも 第三者として 回答を寄せてくださって 問題ないのですが)。
 もう一点は 
 ★ 「神」をあらかじめ想定して、
 ☆ というところです。これは 一見 いま上にわたしが言ったような
 ☆☆ 最初に《神》という前提を置いています。
 ☆ と言うのと 同じように聞こえますが 違うと思うのです。後者は 《もし 神を前提とするなら》ということ つまり 《もし神を前提とする人であるなら これこれの考え方について どうして あれそれになるのか》ということを意味します。
 前者つまり tyr134 さんの言い回しによるなら 人びとに対して 《みなさん あらかじめ 神を想定している状態になってください / その上で 伺います》と語りかける意味合いになるからです。

 このような出で立ちですが したがって ここでは 神にかんして
 ○ 《絶対》
 ☆ を表わすものであることを やはり 前提にしています。そのほかの神々については 問うていません。
 お分かりだと思うのですが この質問は
 ★ 「宗教国家」
 ☆ を嫌悪するゆえ 明らかにしていただきたいというものです。
 また No.2への返答のなかで 
 ○ 有神論と無神論との二つがあって どちらも 互いに同等に対等に 大きくは 信仰である。
 ☆ と言っています。このときの《神》も 《絶対》に対応するものに限ります。

 * お礼欄にはおさまらなかったので この補足欄に書き込んでいます。今後 このような場合について 触れませんので あしからず ご了承ください。

補足日時:2008/08/01 15:44
    • good
    • 0

> A. 神は 精神であるという勘違い。


じゃぁ、何?

> B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。
> C. 同じく 教義を信じるという間違い。
神ではなくて、「その宗教の教えを信じる」と解釈すれば矛盾はしないと思うけど?宗教の信者が全員、その神様を信じているかどうかわからないでしょ?

> D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っ
  ている間違い。
表象できないものは信じられない。「目に見えないものは信じられない」ってことじゃないの?別に「間違ってる」とは思わないけど?

この回答への補足

 reishaさん ご回答をありがとうございます。

 失礼ながら 一般の通念による弊害に立っておられるように思います。もし そうではなく この質問の設定がまちがっていたなら また おしえてください。

 神は 表象し得ないものです。表象し得ない何かが この世に と言いますか この世を超えて あるとすれば――と言っても これは 無があるとすれば と言うのと同じですが そうだとすれば―― これを 仮りに 神と言っているだけです。
 表象し得ないゆえ この神を 人は 経験合理的な推論によっては 捉えられません。つまり《考える》を超えています。(これも 初めの定義内容と同じものです)。
 したがって この神をこそ 人は 《〈考える〉ではない恰好で 捉える もしくは 一たん どうしようかと思ったあと 捨てる》ということになります。このように経験思考とはまったく別の 心の傾き(または志向性) これを 《信じる》と言います。
 言いかえると 《信じる》には 心のうごきとして 《神を抱く》と《神を無として捨てる》との二つの形態が あり得ます。いわゆる有神論と無神論とです。どちらも 信仰です。思考を超えているからです。
 (ほかの形態は ありません。この世を超えるところという場合 限界がないからです。この世を超えるところを さらに超える領域を想定した場合 それも 初めの《神 または 無》に含まれますから)。
 ですから
 ★ 表象できないものは 信じられない。
 ☆ ではなく そうではなく 《考えられない》のです。
 表象できたなら 何らかの経験思考を 人は 及ぼします。思考を及ぼしたものは さらに表象して 理論展開していきます。いくら貴い教義であっても 思考の対象ですから 信じるとは 言いません。理性で分かるものを 信じて どうするのですか。強固な信念とするのでしょうか。でも その信念の基礎は 思考であって 信仰ではありません。
 教義は 考えるものであって 信じるものではありません。

 したがって 信じるの対象を 《神》という言葉で 仮りに表わしていますが ほんとうは 《神という言葉》は 《信じる(もしくは捨てる)対象としての神》ではありません。もちろん 《〈神〉という概念》も 神ではありません。概念というかたちに表わされれば 表象し得ますから 純然たる思考の対象です。これを 信じても 仕方がありません。むしろ まちがいです。

 繰り返しますが 人は 神を 信じるのであって 考えるのではなく 今度は 神に関するまことしやかな《おしえ》になれば それを 考えるのであって もはや信じるのではないということです。教義は 考えるものです。そのために 言葉による表現があります。ただし 経験合理性では 解明し得ないたとえや神秘な表現で 語られている場合も しばしばです。

 いかがでしょうか? まだまだ めづらしい考えでしょうか?

 * お礼欄には おさまらなかったので この補足欄に書き込みました。

補足日時:2008/08/01 15:12
    • good
    • 0

鰯の頭も信心から。


何を信じるかは個人の自由であり、他人からとやかく言われるものではないと思いますが・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 arashi1190さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 何を信じるか
 ☆ の問題ではありません。
 ☆☆ 神にかんする勘違い
 ☆ が問題です。言いかえると すでに 初めに 
 ○ 神
 ☆ が 前提に上がっています。その上で 問題があるのではないか / その問題は どうして起こるのか。こういう問いです。 初めに
 ○ 神
 ☆ にかかわりを持たない場合には 問うていませんので あしからず ご了承いただきたいと存じます。
 ○ 神
 ☆ を 初めに 前提とするのも 個人の自由ですから。

 でも こういう勘違いも 神にかんする勘違いと同種であるように思います。
 ★ 鰯の頭も信心から。
 ☆ ということわざに関して 哲学が かかわらないとでも お考えでしょうか? いかがでしょうか? その探究は
 ★ 他人からとやかく言われる
 ☆ ことと 話が 違っています。

お礼日時:2008/08/01 14:22

>ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見受けられます。



何かの宗教理念を宗教そのものと混同して考えている
典型例。偶像崇拝を否定しているのは一部の宗教ですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 v7nV1dZjxさん ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ 偶像は偶像として――つまり 信仰内容としてのおしえを取ってみても それは 仮りの表現としての偶像であるのですから その偶像は偶像として―― 扱えばいいのであって・・・
 ☆ というふうに 限定しているところに注意してください。
 精神的な理念や理論の理解 これを ここでは 仮りの像として偶像と言っています。その意味で 偶像崇拝と言っています。

 ★ 何かの宗教理念を宗教そのものと混同
 ☆ は していません。それが証拠に (B)で《宗教》 (C)で《教義》 これらを それぞれ 区別しています。けれども 大きく捉えれば 仮りの姿 としての偶像を 後生大事にするところとしては 類型的に 同じ勘違いであるでしょう。いかがでしょうか?

 ★ 偶像崇拝を否定しているのは一部の宗教ですよ。
 ☆ これは むしろ 《神》の定義にかかわっていることでしょう。言いかえると 神の定義が 質問趣旨の中に 間接的に 明らかにしたかたちで 共通のものとなるならば 宗教の違いや宗派の違いとは 別の問題として 扱えるはづです。

 もし 質問趣旨に見えている神の定義に 異論があるとすれば その旨を指摘して ご見解を投稿してください。

お礼日時:2008/08/01 14:12

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!